「聞いた? “父さんそっくり”ですって!」
ハリーが仰天して飛び上がったので、海を滑り始めたばかりのボロ船が右へ左へと大きく揺れる。危うく船から転落しかけたハリーの首根っこを掴んで、ハグリッドは「どうした?」と訝しんだ。ハリーは「ありがとう、なんでもない」とボソボソ言った。ハグリッドが新聞を読むのを再開したので、ハリーは心の中で少女の名を呼んだ。
「ヴァイオラ! 人前では話しかけないって――?」
「たまにはいいじゃない。ね、でも、目は母さんなんですってね」
ヴァイオラはハリーが転落しかけたことをなかったことにして、話を続けた。
「昨日の夜ハグリッドが言ってたの、覚えてる?」
「うん、覚えてるよ」
「つまりあなたは、パパとママにそっくりなのよ。よかったわね、ハリー」
ヴァイオラの率直な言葉に、ハリーは少し照れくさくなった。それを隠すように、口早に言う。
「僕、魔法使いなんだって!」
「あら、私は知ってたわよ」
「本当に?」
「本当ですとも。なにせ、ずっと一緒にいたんですからね。知らないわけがありません」
ハリーはヴァイオラが知ったかぶりをしているなと肩を竦めた。
「ちょっと、本当よ! 信じてないわね、ハリー!」
「信じてるよ……。それより、父さんは何色の目なのかな」
「ジェームズ・ポッター? 彼は……うーん、そうね……まあ多分、薄茶色の目だわ。八割方、そうと言えるでしょうね」
「どうして?」
「イギリス人の八割が薄茶色の瞳って、“統計的に”でてるからよ」
ヴァイオラはあからさまに興味無さげだった。つまらないというふうに言い捨てたかと思えば、急に「いいなあ」と羨ましそうな声を上げた。
「私も緑色の瞳がよかったな。とっても珍しいのよ、緑色って」
ハリーはなんと返したらいいのか分からなかったので、「そうなんだ」とぼんやり言って、今度は母親のことを考えた。僕が父さんそっくりなら、母さんはどんなふうなんだろう。少なくとも黒髪のクシャクシャじゃないのは確かだ。
船が港の岸壁にコツンと当たる。新聞を畳んで船から降りるハグリッドの後を追いながら、ハリーは時間があったら聞いてみようと決めた。
ハリーが魔法使いだと分かってから、ヴァイオラは“人前では話しかけない”という長年の決まり事を、とうとう取り払うことに決めたらしい。ロンドンでのハグリッドとの道中でも度々クスクス笑っては「私、この人大好き」とハグリッドを褒めたし、漏れ鍋でディーダラス・ディグルと再会した時も「彼のこと知ってる!」と驚いた声をハリーと揃えた。ディーダラス・ディグルは、ずっと前にお店でハリーにお辞儀をしてきたスミレ色の三角帽子を被った男の人で、当時二人で誰だろうねと話したものだった。
ヴァイオラはずっと楽しそうで、ハリーはそれが自分のことのように嬉しかった。ヴァイオラはハリーと常に一緒のお友達なので、ハリーが行く場所にしか行けない。ここ数年でハリーが連れて行ってやれた場所と言えば、つまらない学校や人から隠れられるしみったれた空き地。それからフィッグばあさんの家。
「やっときみをまともな所へ連れて行けた」
「あら、動物園も行ったじゃない。今思えばアレって、とっても上手な魔法だったわよね?」
「傑作だったね」
蛇のケースの中に飛び込むダドリーとピアーズ。真横をズルズル這うニシキヘビに震え上がる二人!
思い出し笑いをするヴァイオラに合わせて、ハリーもクックッと肩を揺らした。動物園から帰った後の長い軟禁をナシにすれば、あれはかなり愉快だった。
「なにしとる? ほれ行くぞ、ハリー!」
「アッうん!」
立ち尽くしていたハリーは、慌ててハグリッドの隣に並んだ。人前で彼女とこっそりお喋りをすると、つまりこういうことが起こるらしい。気を付けなければいけないぞと、ハリーは気を引き締めた。会話をしないという選択肢は存在しなかった。
パブを抜けた先にある小さな中庭で、ハグリッドはゴミ箱の上の壁のレンガをブツブツ言って数えた。
「三つ上がって……横に二つ……よしと。ハリー下がってろよ」
ピンクの傘の先で壁を三度叩いくと、レンガが震えだした。生きてるみたいにクネクネ動き、やがて真ん中に小さな穴が現れる。穴はあっという間に大きく広がり、瞬く間にハグリッドでさえ通れるほどのアーチ型の入口になった。あんぐりと口を開けるハリーへ、ハグリッドがニコーッと笑う。
「ダイアゴン横丁にようこそ」
奇怪に斜めの作りをした建物が、石畳の通りにひしめき合って並んでいる。道はいくつも枝分かれして続いていて、どうもこの『ダイアゴン横丁』という場所が、とんでもなく広そうだということが容易に想像できた。色とりどりのローブをひらめかせた人々が行き交っていて、さっきまで聞こえなかったはずの喧騒がワッとハリーの鼓膜を揺らしている。
「魔法ってすごい」
呆然とした片割れの言葉に、ハリーはまったくその通りだと深く同意した。
ハリーとヴァイオラは、ダイアゴン横丁を大いに楽しんだ。グリンゴッツでは、ヴァイオラは魔法界のお金の難解さ――一シックル二十九クヌートで一ガリオンが十七クヌート!――に頭を唸らすハリーへ茶々をいれて意地悪をしたし、二人で小鬼の一人を指しては「フィッグばあさんの飼い猫にいたよね」と内緒話をしたりした。また、ハリーの金庫に積まれた大量の金銀銅貨の存在は、絶対にダーズリーには言わないでおこうと二人で約束しあった。
マダムマルキンの洋装店で会った高慢ちきな男の子に関しては、ヴァイオラは「ダドリーみたいな奴ってどこにでもいるのね」と世も末だとげんなりしていた。しかしその後ハグリッドが買ってくれたナッツ入りチョコレートとラズベリーアイスでヴァイオラの機嫌はだいぶ持ち直された。ヴァイオラは物を食べられないけれど、ベリー系のフレーバーに目がなくて、ハリーが食べているといつも自分のことのように喜ぶのだった。
ヴァイオラは純金の大鍋を買いたがるハリーを「バカね」と呆れたけれど、代わりにハリーはヴァイオラが強請った花が咲いたり舞ったりするピンクの腕時計を、「そんなの恥ずかしいよ」と切り捨てた。ただし、最新の復讐方法について書かれた呪いの本が欲しいという意見は完璧に一致した。ハグリッドに止められなければ、絶対に買っていただろう。ヴァイオラも「ダッダーちゃんへのいいお土産になったのに」と残念がった。
ハグリッドから誕生日プレゼントにふくろうを貰って――ヴァイオラも純白のふくろうをかなり気に入って、「かわいい名前をつけたいわ!」とうきうきしていた。名前はハリーだって当然つけたいので、これは後で一悶着ありそうだぞと今から覚悟している――、最後に残ったのは、魔法の杖の店だった。魔法の杖は、ハリーが一番欲しかった物だった。オリバンダー老人は、水晶玉のようにぎょろりとした瞳でハリーをじっと見るので、ハリーはこの店があまり居心地のいい店だとは思えなかった。
「……杖は魔法使いを選ぶ。そういうことじゃ……。ポッターさん、あなたはきっと偉大なことをなさるに違いない……。『名前を言ってはいけないあの人』もある意味では、偉大なことをしたわけじゃ……恐ろしいことじゃったが、偉大には違いない……」
加えて、長く時間をかけて杖を選んで告げられた言葉がこれだ。店に入ってからずっと抱いていたオリバンダー老人への苦手意識がハリーの中で確固たるものへとなった。
「私、この人嫌いだわ」
忌憚のない意見をばっさり述べたヴァイオラへ、ハリーは内心で頷く。
「親の仇なのよ? なのに運命だとか兄弟杖だとか――あまつさえあんな奴が偉大だなんて!……偉大……偉大ですって? まったく信じらんないわ……なにが『名前を言ってはいけないあの人』よ。ヴォルデモートと呼びなさいよ……おまけに瞬きもしないでじろじろ見てくるし……ああ不快だわ! とっても不快よ、この人……」
誰からも見えなくて聞こえないヴァイオラは、存分に不貞腐れることができていいなと思った。
「……でも、杖は私も欲しかったな」
散々老人への文句を垂れた最後に、ヴァイオラはふと小さく零した。ぽつりとしたそれは独り言のようだった。ハリーは店内を見回して「あの」とオリバンダー老人に話しかけた。
「なにか、えっと……杖をしまっておくことの出来る、その――ホルダーケースのようなものはありませんか?」
「まあ、あることにはありますが……ですがあまり買っていく方はいらっしゃらないですぞ」
「いいんです、見せて」
ハグリッドは怪訝そうだったが、今度は止めなかった。止められたって絶対に買うつもりだったので、ハリーとしては好都合だった。オリバンダー老人がカウンターの下の方から引っ張り出したのは、白い革の、スベスベとした上等な生地だった。散りばめられた細かい金色の粒が、星屑みたくまばらに光っていた。ハリーは杖の七ガリオンとケースの十五シックルを合わせて会計した。
「それ、とっても素敵だけど、汚しちゃわないかしら?」
オリバンダー老人にお辞儀をして見送られながら、ヴァイオラが心配そうに言う。
「それにそのうち持ち歩くのも忘れちゃいそう」
「持ち歩かないから汚さないよ。だってこれはきみのだもの」
「……私?」
杖は買えないから、せめてその代わりにと苦肉の策で考えついたのがこれだった。それこそ腕時計を買ってあげればよかったのかもしれないが、しかし腕時計はそこまで本気で欲しがっているふうでもなかった。少なくとも、さっきの独り言に比べたら。
「僕はハグリッドに誕生日プレゼント貰ったし……僕も、ヴァイオラになにかあげたいと思ったんだ。だからそれは、僕からヴァイオラへのプレゼント」
「ふうん」
ヴァイオラは少し黙り込んだ。ホルダーケースを吟味するような間を作って、もう一度「ふうん」と同じ調子で繰り返す。
「……なら、ハリーもこれ、使ってもいいわよ」
それから、澄まして言った。ハリーはこれが彼女の照れ隠しだととっくに分かっていたので、尊大な物言いに腹を立てることはなかった。
「持ち主として許可してあげる」
「それはどうもありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
ヴァイオラが押し黙ったので、会話が止まる。ダイアゴン横丁を抜けて漏れ鍋へと帰り、そうして元来たロンドンの街へと戻って地下鉄に乗ったところで、ヴァイオラはやっと「ねえ」とおずおず話し出した。
「あの……あのね。私、プレゼントなんて貰ったの、生まれて初めてなの」
ハリーには彼女の気持ちが手に取るようによく分かった。ハリーはついさっき、同じ感動をハグリッドからもたらされたばかりだった。
「だから、私……私、その……あの、ありがとう、本当に……」
「いいんだよ、ヴァイオラ。お礼なんて言わないで」
いつになくまごまごするヴァイオラがかわいくて、照れ臭かった。ハリーはさっきそう言ったハグリッドの気持ちもよく分かったので、心からそう言った。けれどヴァイオラは「ううん、言わせてハリー」と強く食い下がった。
「本当にありがとう。私のためにわざわざ買ってくれたの、心の底から嬉しくって、今私、とっても幸せよ。ハリー、とっても優しいハリー。私、あなたのことが大好き。世界でいちばん大好きよ」
ヴァイオラは大体威圧的で、それに時々意地悪で、でもハリーへの好意はいつだって隠さなかった。ハリーが誰かに苛められたらハリー以上に怒るし哀しむ。それで甘やかす時は、とことん甘やかす。今だって、とても優しい声だった。
「うん、僕も……ヴァイオラが大好きだよ」
だからハリーはヴァイオラに倣って、恥ずかしさを堪えて素直に答えた。ヴァイオラはもう一度「ありがとう」と言って、年端もいかない子どもみたいあどけなく笑った。
「でも、ふくろうの名前は私がつけるんだからね」
「えっ? だめ、絶対だめだよ! だって僕のふくろうだ!」
「まあ、いいじゃないのよ。ケチね!」