03

 ハグリッドと別れ、ハリーは電車に乗ってダーズリー家に帰った。恐る恐るの帰宅だったが、思っていたよりもひどいことにはならなかった。もちろん大歓迎なんかはされなかったが、ハリーの姿を戸口に見ても、バーノンおじさんは怒鳴ったり物置にハリーを押し込めたりはしなかった。ただ、家族全員がハリーと一言も口をきかず、完全にいないものとして振る舞った。この仕打ちは、ヴァイオラという唯一無二の親友がいるハリーにとってはまったく堪えなかったし、それどころか過去最高の居心地だった。
 ホグワーツへ出発までの一ヶ月、ハリーはダーズリー家に来てから一番自由でいられた。いやな雑用を任せられることもなかったし、ダドリーにサンドバッグ役を強いられることもなかった。ハリーは好きなだけ部屋に閉じこもって、自分だけの学用品を何度も眺めて磨いたりした。ヴァイオラは真新しいローブと三角帽子を身につけたハリーをくるくる回らせて、「すごいすごい、素敵!」と褒めるのが特に好きだった。
「僕、考えてたんだけど」
 魔法の世界の教科書は、どれも物語のように不可思議な内容で、内容の理解は及ばずとも、いくらでも読んでいられた。白フクロウはヘドウィグと名付けた。『魔法史』の教科書の中から見つけた。見つけた瞬間、二人で「これがいい!」と声を揃えたので、ハリーの危惧していた“一悶着”は訪れなかった。
 ヘドウィグが真夜中の住宅街へ消えていくのを見守りながら、ハリーは自身の考えを相棒に語った。
「僕にヴァイオラの声が聞こえるのは、僕が魔法使い……だからなんじゃないかなって」
 自身を魔法使いと言うにはまだちょっと気恥ずかしくて、ほんの少し吃ってしまった。そんなハリーを見透かすように、ヴァイオラは「うーん」と笑い混じりに唸った。
「つまり、魔法使いにはみんな、僕にとってのきみみたいな存在がいるもんなんじゃないかって思うんだ」
「それはどうかなあ」
 違うと思うの意を漂わせて、ヴァイオラはのんびり言った。
「私はそうは思えない」
「どうして?」
「目に見えない声が聞こえるというのは……きっと、普通じゃないことだからよ。例えそれが魔法の世界であろうともね。だから、私の存在は引き続き誰にも言わないほうが賢明ね」
 ヴァイオラはハリーの考えを先回りして言い当てた。ハリーは、もし魔法の学校で新しく友達ができたら、ヴァイオラのことを紹介しようと密かに画策していた。けれどヴァイオラはそれを望んでいないようだった。伝える前からしっかり念を押され、ハリーは肩を落とす。
「いいこと、ハリー? 新しいお友達に変だと思われたくはないわよね? そうでしょう?」
「うん、うん、分かったよ……きみがそう言うなら、誰にも言わない……。……でも、じゃあ――もしきみの言う通りなら――僕はおかしいってことなのかな?」
「まあハリー、そんなわけないわ!」
 過ぎったハリーの不安を吹き飛ばすように、ヴァイオラは笑いながら断言した。
「おかしいのは、私だけよ」



   ✲✲✲



 いよいよやってきた九月一日。朝の五時に目を覚ましたハリーは、ヴァイオラとともに「準備するもの」リストを三回読み直して、三回荷物をチェックし直した。ヴァイオラがお願いするので杖はケースにいれて、ズボンのベルト部分に引っ掛けた。しかし思っていたよりずっと重くて邪魔くさかったので、もうやらないだろうなとハリーはひそかに思った。
 ロンドン市街をぐるりと取り囲むM25環状高速道路は、地獄のように混雑していた。それは今日が特別な日だからではなく、これはいたって普通の、いつも通りの光景だった。元々ロンドンという街は車が生きやすいようにはできていない。それは、高速道路という車専用のフィールドに移ったところでなんら変わりはなかった。世界最長の環状道路は、いつ何時でも常に悪魔的な渋滞に見舞われているのだ。
 ダーズリー一家も、それに腹が立たないわけではないが、それでもこの程度の渋滞には慣れっこだった。しかし車に乗って移動することなど滅多にないハリーとヴァイオラは違う。頭痛がするほどの交通渋滞を体験するのは初めてのことだった。二人は狭い車内でひどく気を揉んだ。
「こんなんじゃ間に合わないわ!」
 モニターのデジタル時計がまた数字を刻む。ヴァイオラが叫んだ。「汽車が行ってしまうわ!」ヒステリックな声にハリーは顔を顰めた。
「出発まであと一時間もあるよ」
 そう言いながらも、ハリーも不安だった。車窓の景色は全くと言っていいほど変化がない。あとどのくらいこの道路にいなければならないのだろう。そもそも、僕らはこの道路からでることができるのだろうか? プリベット通りの家を出発したのは七時過ぎだ。どうしてもっと早く出てくれなかったのだろう。これも彼らのする嫌がらせの一環なのだろうか。
「ハリー、この車を空に飛ばせてよ」
「車は空を飛ばない」
 ハリーはいつぞやのバーノンおじさんのようにきっぱり言った。それからちょっと考えて、「オートバイなら飛ぶかもしれないけど」と付け加えた。
 

 こんなやり取りをしてから三十分もしないうちに、ハリーたちを乗せた車はキングス・クロス駅に到着した。出口のランプへ入ってからは、拍子抜けするほどあっという間だった。
 けれど二人の受難はまだ続いた。肝心の九と四分の三番線が見つからないのだ。ダーズリー一家に置き去りにされたハリーは途方に暮れた。時刻は十時半だが、このまま見つけられなければ、それこそ汽車が行ってしまう。焦燥感に苛まれながら、ハリーはトランクの放り込まれたカートの持ち手を握り締める。ヘドウィグを連れているせいで、周りからの注目を必要以上に集めていた。
「駅員さんに聞いてみたら?」
 ヴァイオラはそう提案したが、あんまり期待はできないけど、とも呟いた。ハリーもそう思ったし、実際その通りになった。最初は親身になってくれた駅員も、ハリーがうまく説明できないでいると呆れ果ててそのうちまともに取り合ってくれなくなった。
「じゃあ、あの、十一時発の列車はありませんか?」
「そんなものはない。悪いが、私も仕事があるんだ」
 子どものおふざけには付き合ってられない、とブツブツ言って、駅員は行ってしまった。頼みの綱にあっさり見捨てられ、ハリーはどうしようと周囲を見渡した。けれどこの場にいる誰に聞いても、先程と同じ対応をされる未来しか想像できなかった。周りにはこんなに人間が大勢いるのに、誰にも助けてもらえない。心細くて堪らなかった。心臓が脈打つごとにじくじく痛むようで、ハリーはぎゅっと胸元を握り締める。
「一度深呼吸しましょう。大丈夫よ、ハリー。落ち着いて、ほら、息を吸って……」
 気遣うヴァイオラの助言に従って、大きく息を吸って、それから吐く。数回繰り返した。
「ハグリッドが、何か言い忘れたのかも」
 少し落ち着いたところで、ハリーは考えてみた。ダイアゴン横丁に入る時は、れんがをコツコツ叩いていた。
「九番と十番の間にある改札口を杖で叩いてみようか?」
 やってみる価値はあると思ったが、ヴァイオラが「待ってハリー!」とハリーを止めた。
「あの人たち、『ふくろう』を連れてる!」
 慌てて後ろを振り返る。燃えるような赤毛の四人の男の子が、みんなハリーと同じようなトランクを押しながら歩いていた。その内の一人がふくろうを連れている。
「……マグルで混み合ってるわね。当然だけど……」
 集団の先頭を歩くふっくらしたおばさんの言葉に、ハリーの心臓はいい意味で飛び跳ねた。
 ハリーはさりげなく最後尾について、彼らにくっついて行った。彼らは九と十のプラットホームを目前にして立ち止まった。小さな赤毛の女の子が、「ママ、あたしも行きたい……」と母親の手を握っている。
「ジニー、あなたはまだ小さいからね。ちょっとおとなしくしててね。はい、パーシー、先に行って」
「……消えたわ!」
 ヴァイオラが驚く。旅行者の群れが急に溢れてきたので、ハリーはちょうどその瞬間を見逃してしまっていた。
「九番と十番の間の柵に向かって真っ直ぐ歩いて……それでどこかに消えちゃったわ、彼!」
 まさかと思ったが、次の赤毛の双子の番のときは、ハリーもその様子をしっかり観察できた。ヴァイオラの説明のままだった。
「聞いてみよう――すみません」
「あら、こんにちは。坊や、ホグワーツへは初めて? ロンもそうなのよ」
 ホグワーツ。知っている単語にホッとした。背が高く痩せてひょろっとした、そばかすだらけの男の子に、ハリーはぎこちなく笑いかけた。ロンと呼ばれた男の子も、ごく自然にハリーへ向かってにっこりした。自分を見ても目を逸らしたり嫌悪感を示したりされないのは、ハリーにとって不思議な気持ちだった。
「えっとあの、僕、分からなくて。どうやって……」
「どうやってプラットホームに行くかってことね? 心配しなくていいのよ――」
 怖がったりせず、柵に向かって歩く。必要なことはただそれだけらしい。要するに、前三人と同じことをすればいいと、おばさんはやさしく教えてくれた。
「怖かったら少し走るといいわ」
「うーん……はい」
 ハリーはカートを構えて、頑丈そうな柵を睨んだ。乗客の波がハリーを押すので、ハリーは足を早めた。カートにしがみつくようにして、どんどん柵へと近付いていく。車輪の制御がきかないくらい速くなってきたところで、ハリーはどうにでもなれと目を固く閉じた。ぶつかる音も衝撃もない。カートは進み続けている。不意に自身を取り巻く空気が変わった気がした。
 ヴァイオラが小さく息を呑む音に、ハリーはゆっくり目を開けた。紅色の蒸気機関車が、プラットホームに停車していた。ホームの上には、「ホグワーツ行き特急十一時発」とぶら下がっている。振り返ると、改札口のあったところに九と四分の三と書いた鉄のアーチが見えた。
「やった!」
 二人の声が心の中で揃った。ハイタッチの代わりに、革の杖ケースを撫でてから、ハリーは再びカートを押し出した。

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