05

 ホグワーツは魔法の学校というに相応しく摩訶不思議な城だった。壁に隙間なく並べられた絵画たちが額内を行き来するのは当たり前だし、廊下に並ぶ甲冑だって調子外れの鼻歌を歌った。魔法の本や鍵は、高い天井付近を生きてるみたいに飛び回っていたりする。
 そんな城の不思議の中でハリーたち新入生が特に困らせられたのは、扉や階段だった。
 別の階にある扉にお願いしないと開かない扉や、タペストリーのふりをしている扉、特別な呪文を唱えねばうんともすんとも言わない扉。階段だって優に百四十はあり、動く階段や、見えない階段、金曜日だけ行き先の変わる階段があった。ハリーは寮から大広間までの正確な道を覚えるのにも苦労した。
 それからガチャガチャした配色の服を着た小男の幽霊――つまり、ポルターガイストのピーブズも厄介な存在の一つだ。ピーブズは生徒たちをおもちゃにするのが大好きだった。ハリーがピーブズを見て真っ先に思ったことは、もしヴァイオラがピーブズのような姿をしていたらどうしようということだった。しかし例え彼女がピエロのような格好をしたどんぐりみたいな女の子であったとしても、ヴァイオラが大事な友達であることには変わりない。ハリーはもしこの先なにかの奇跡が起きてヴァイオラが声だけの存在でなくなった場合に備えて、毎夜寝る前にシュミレーションをしておくことにした。どんなパターンが来ても必ず彼女を受け入れようと、自分の中で固い誓いをたてた。
 ヴァイオラといえば、彼女はホグワーツにやって来てから少しだけ意地悪になった。ハリーの絶対的な味方であることに変化はないのだが、しかし以前と比べて悪戯が増えたのだ。ダーズリー一家という巨悪がいないせいで、彼女も開放的な気持ちになっているらしい。ヴァイオラは右往左往するハリーに度々助言をしたけれど、半分くらいは当てずっぽうをして、ハリーを戸惑わせては面白がった。
「右から行ったほうがいいんじゃない? 左の廊下からは、さっきピーブズの声がしたわ」
「じゃあ左に行こうかな」
「私、そんなうそをついたりしないわ」
 澄まして言うハリーに、ヴァイオラが心外そうに声を落ち込ませる。ハリーはつい先日、ヴァイオラにそそのかされてカエルの銅像に近付いたせいで酷い目に合ったばかりだった。カエルの銅像に突然ぱくりと飲み込まれ、高い塔の一室まで飛ばされたのはまだ記憶に新しい。その部屋には扉がなく、書き物机の引き出しの中にあるカエルの置物に触れなければ元の場所に帰れない部屋だった。なかなか脱出することができず、ハリーは危うく夕飯を食べ損なうところだった。ヴァイオラは流石に申し訳なく思ったのか謝罪を繰り返し口にしたけれど、ハリーは翌日の朝になるまで一切口を利かなかった。

 しかし喧嘩ばかりもしていられない。ゴーストのビンズ先生が一本調子で滔々語る「魔法史」の授業は恐ろしく退屈で、ハリーはヴァイオラにしょっちゅう声をかけてもらわなければノートをとることがままならなかった。ヴァイオラもピンズ先生を好んでいるわけではないようだったが、彼女は魔法史の教室が好きだった。魔法史の教室には歴代校長やマーリンを描いた美しいステンドグラスが嵌めてあって、日が差すと鮮やかな影がぽつぽつ落ちてくる。ヴァイオラは、その光景がなによりのお気に入りだった。
 魔法史のように、杖や呪文を使わない授業はそれなりに多かった。水曜夜の天文学の授業では望遠鏡での観察が行われたし、薬草学では週に三回温室で植物の世話や勉強をさせられた。意外と地味で、“マグルっぽい”なと思った。
 ハリーは変身術でマッチ棒を針に変えることができなかったが、それに落ち込むことは無かった。クラスでそれを成功させたのはハーマイオニー・グレンジャーだけだったし、その他の授業でも自分が特別落ちこぼれているわけでないと分かったからだ。手紙が来て初めて自分が魔法使いや魔女だと知った子どもは、ハリー以外にも大勢いた。魔法界で育ったロンのような子どもたちだって、最初からできる魔法はほぼなかった。



   ✲✲✲



「ハーマイオニーって子、すーっごく優等生ね。きっと監督生になるわ」
 どの授業でも必ず手を挙げて積極的に答えるハーマイオニーに、ヴァイオラはいつも感心していた。
「ほら、今も勉強してる。まだ朝なのに」
 ヴァイオラに言われてハーマイオニーを見ると、栗色の頭頂部が視界に映る。ハーマイオニーは、ルバーブジャムを塗ったトーストを片手に、『魔法薬学』の教科書に齧り付いていた。今日も一人きりだ。周りの子は彼女を避けるようにして座っていた。
「今日って『魔法薬学』があるんだっけ」
「ああ、スリザリンの連中と合同でね。スネイプはスリザリンの寮監だ。いつもスリザリン贔屓をするってみんなが言ってる――本当かどうか今日分かるだろうな」
 ロンが肩を竦めた時、郵便が届いた。百羽ものふくろうがなだれ込んで来て、テーブルの上を旋回し始めたのだ。ヘドウィグは一度も手紙を運んできたことはない。時々飼い主の顔を見に来ては、ハリーの耳やトーストを齧ったりして、また学校のふくろう小屋に戻って眠る。
 ところが今朝は、ところどころ茶色く汚れた手紙を咥えてやってきた。差出人はハグリッドで、“今日の午後は授業がないだろうから、お茶に来ないか”というお誘いの手紙だった。ハリーはロンの羽根ペンを借りて、イエスの返事を手紙裏に書いてヘドウィグに持たせた。

 午後の楽しみがなければ、魔法薬学を乗り切ることはとても不可能だっただろう。そのくらい、スネイプはグリフィンドールに――特にハリーへ意地悪だった。ハリーは新入生歓迎会の日に、スネイプは自分のことが嫌いなのだろうかと思ったけれどそれは間違いだったと今日の授業で思い知った。スネイプはハリーを嫌いなのではなく、憎んでいるのだ。
 ハリーがそのことに確信を持ったのは、授業始めに出席を取った段階だった。
「あぁ、さよう。ハリー・ポッター。われらが新しい――スターだね」
 スネイプのぞっとするような猫撫で声に、背筋が粟立った。ハリーを穿つスネイプの瞳は、虚ろで暗いトンネルのような、冷えきった黒をしていた。
 スネイプは、魔法薬学がいかに繊細で、そして神秘に満ちた魔術の学問なのかということをつらつら説いた。誰も彼もがスネイプに圧倒され、教室中がシーンとする。ハリーはスネイプの演説を一言一句漏らすまいと、必死に羽根ペンを走らせていた。
「――尤も、諸君らの中には我輩の言葉など聞くに値しないと思っている者もいるようだが」
「ちょっと、あなたよ!」
 ハーマイオニーに肩を叩かれ、ハリーはやっとスネイプが誰のことを言っているかに気が付いた。冷たい笑みを湛えたスネイプが滑るようにハリーの前まで寄ってきた。
「アスフォデルの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか?」
 なんの球根の粉末を――なんだって?
 質問を最後まで覚えることすらできない。ロンに助けを求めたが、ロンは自分も分からないことを表情で伝えてきた。ハーマイオニーが高く手を挙げている。
「――眠り薬よ」
 分かりませんと口を開きかけた時、頭の中で凛とした声がした。最近はおいたが過ぎるが、それでも長年絶大な信頼を寄せてきた片割れの声に従うことに、迷う余地はなかった。
「眠り薬です」
 ハリーが答えると、スネイプはぴくりと眉を上げた。
「強力なため、『生ける屍の眠り薬』と呼ばれます……」
「強力なため、『生ける屍の眠り薬』と呼ばれます」
「……もう一つ聞こう。ベゾアール石を見つけてこいと言われたら、どこを探すかね?」
「ヤギの胃。たいていの薬に対する解毒剤となる」
「ヤギの胃です。たいていの薬に対する解毒剤となります」
 ハリーはヴァイオラの言うことをそっくり復唱した。スネイプの眉間に皺が寄せられる。
「……では、モンクスフードとウルフスベーンとの違いはなんだね?」
「えっ?」
 ヴァイオラがちょっと戸惑ったので、ハリーも焦った。しかしヴァイオラはすぐに答え出した。
「同じ植物のはずよ。別名はアコナイトとも言って、トリカブトを指す」
「同じ植物です。別名はアコナイトで、トリカブトを指します」
「……正解だ。教科書の記載そのままだな」
 バカにするように素っ気なく言ったスネイプに、スリザリン生が冷やかし笑いをさざめかせる。しかしハリーには負け惜しみのようにしか聞こえなかった。
 

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