薄氷の割れる音



(【アズカバンの囚人 20】の翌日のドラコ視点になります)



 ポッターのやつはまたも運良く逃げ切ったらしい。
 のうのうと朝食の席につくひょろがり眼鏡に舌打ちをする。ああ憎たらしい。僕にあんな恥をかかせたくせにあの男、よくも。

 怨念を込めて睨んでいると、やつらの近くに昨日久方ぶりに話した金髪が現れた。一人だ。あいつはなにか軽く話してその場に腰をおろす。それとは反対に、ポッターたちはちょうど食事を終えたのか、立ち上がった。
 今のあいつの近くにはロングボトムの姿すらなかった。ちなみに僕の周りにも今は誰もいなかった。なんとも僕に、いや僕らにとって都合のいい状況に、期待が胸を疼かせる。

「(……挨拶くらいは)」

 今年になってから──といってもホグズミード入口で喧嘩するまでの短い期間だが──目が合えば行っていたあの軽い挨拶が、もしかしたらまたできるんじゃないだろうか。手を振って笑顔を向けられる。たったそれだけで僕の一日のモチベーションがかなり変わるのだと分かったのはハロウィーンの日以降だ。

 なに、昨日は“ほんの少し”言い争ってしまったが、どこか抜けたところがあるあいつなら、たいして気にしていないだろう。むしろ内容はあれでも、久しぶりの会話には変わりない。あっちだってこれまで意地になっていた部分もあっただろうし、なんなら昨日の会話がきっかけになっているかもしれない。


 とにかく、僕はグリフィンドールの席に座るたった一人をじっと見つめた。視線に気付いたあいつが顔を上げる。こちらを見て、一瞬だけ青い瞳を溢れんばかりに見開かせ――そして素早く、あからさまに顔を逸らした。

「……え?」

 喧騒に紛れた呟きは、自分が発したとは思いたくないほど間抜けな響きをしていた。

 目は合った。たしかに合ったのに。
 僕は呆然と、急き立てられるように慌ただしくシリアルかき込む彼女を見つめる。

「(き、気付かなかった)」

 それだ。そうに違いない。
 もしくはあの……忙しかった。そうだ、そうだよな。今日は休日でもないんだし、優雅なモーニングというわけにはいかないよな。僕にだってこのあとすぐ授業があるのだから。

 僕は僕で顔を下げ、ベーコンエッグを食べる。味のしない肉と卵を咀嚼しながら、自分をそうやって納得させた。

 だってあいつが僕を無視するなんて、そんなわけない。今までの喧嘩中だって、目が合えば少しくらいの反応は──最近はじっとり睨んできたりという類のものが多かったけれど──返してくれていたし。だから今のは気付かなかっただけだ。きっと。きっとそうだ。

 たいして美味しくもない肉と卵を無理やり喉に押し込んだ。胸が苦しくなったので、かぼちゃジュースの入ったゴブレットを引っ掴んで傾ける。落ち着きのない行動のせいか、変なところに入ってひどく噎せてしまった。


 惨めな気持ちで胸元を摩りながら、もう一度あいつへと視線を向けた。あいつは既に食事を終えていて、そのまま大広間から逃げるように去っていくところだった。最後まで僕のほうはちっとも見ないまま。

 分かりやすく、あえてこちらを見ないように意識した立ち去り方をしたあいつにフォークを置く。

「(まさか)」

 今までずっと考えないようにしていたが、まさか、まさか。あいつは気にしているというのだろうか。昨日僕が言いかけてしまった言葉を。けれど最後までは言わなかった、あの言葉を?

 そんな。誰もいないグリフィンドールの席を見つめたまま、愕然とする。うそだろ? だってあんなの軽口の範囲内だ。お前に対してそんなこと、本気で思っているわけないだろう。ただちょっとだけ、昨日は怒りで目の前がカッとなってしまって――いや、だってそもそもは、お前がポッターなんかを庇おうとするから。久しぶりに話せたのに、僕とのことなんかどうでもいいみたいな態度をとるから! だから、だから――大体、最後までは口にしなかったのに!

 色んな感情が爆発したように頭に溢れた。しかし『色んな』と言っても、ほとんどは分別のない子どものみっともない駄々に近いようなものだと、自分自身で理解していた。

「……は」

 そう分かりつつ捏ねくり回した駄々も、ふと昨日の去り際に見せたあいつの表情を思い出してしまうと急に風船のように萎んでいき、薄く開いたままの口からは、絶望しきった短い音が零れた。

 紙のように白くなった相貌に、引き結ばれた唇。見開かれて揺れた蒼眼。

 それを見ていたなら、ちゃんと覚えていたなら。まさかなんてとんでもないということくらい、簡単に分かったはずなのに。
 あいつが昨日の件を――『あの言葉』を気にしていないなんて有り得ない、ということくらい。

 自分で放った呪いは、世界を一周回り終えて、やっと今、背後から僕の心臓を貫いていた。


 油をさし忘れた人形のような動きでゆっくり胸を抑える。でてもいないはずの血が、開いてもいないはずの穴が。愚かな僕を嘲笑うかのようにじくじくと痛む。

「(ああ、そうか)」

 仄暗い悲しみが蝕む胸へ、唐突にすとんと納得が落ちてきた。

 僕はあいつが好きだったのか。
 初めて会った時から今日までずっと。
 本当は友達なんかじゃたまらないほど、好きになっていたんだ。

 あいつが誰かと笑っているのを見る度に、チリチリと燻っていた感情の正体がここにきて判明した。ディゴリーの時も、ポッターの時も。だから僕はあんなに――目の前の『初恋の子』の顔もまともに見れなくなるくらい苛ついてしまっていたのか。

 しかしそれに気付いたところで、もはやなにもかもが無意味だった。
 僕はあいつを傷付けた。拒絶したし、拒絶された。友達にだってきっと戻れない。なにせ幕を下ろしたのは自分自身だ。後悔することすら、もはやバカバカしくて。


 僕はここが大広間であるのも気にせず、大声で笑いだしたくなるような、自暴自棄な気持ちになった。
 

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