トロールを倒さなくとも



 意識を失っていたラベンダーが目を覚ましたのは、ちょうどヴォルデモートが休戦を報せたときだった。

「ああ、よかったラベンダー!」
「最悪の目覚めだわ」

 半泣きのパーバティに抱き着かれながら、ラベンダーが青褪めた顔で呟く。それから、サッと素早く周囲に視線を巡らせた。シェーマス、ディーン、ネビルといった旧知の顔ぶれが集まっていることに少しホッとしたが、すぐに顔を険しくさせる。

「ハリーたちは?」
「分からない、誰も見てないの。それに、エレナもいないのよ!」
「咬まれそうになったきみへ呪文を放った姿を見たのが最後なんだ」

 シェーマスが申し訳なさそうに言ったが、ラベンダーは白い顔のままキュッと口の端を持ち上げた。かなり硬かったが、笑顔を作っているようだった。

「エレナならきっと大丈夫に決まってるわ」
「そうさ、なにせうちで一番むちゃくちゃな奴なんだから」

 そうは言ったものの、 ラベンダーはそわそわと落ち着きなく貧乏揺すりで体を揺らしていたし、ディーンも三秒ごとに大広間の入口へと視線を伸ばし新たに入ってきた人を見ては、ガッカリと肩を落としている。シェーマスとパーバティもエレナの所在を気にして不安げにしていた。

「エレナなら心配ないよ」

 キッパリ言ったのは、気絶した下級生への手当を続けていたネビルだった。言葉少ななそれは内容としてはラベンダーやディーンと同じものだったが、しかし彼らとは全く違う説得力と自信があった。

「……さすが、親友様」
「まあね」

 弱い揶揄いにも、ネビルは自負を持って堂々と受け答えた。得意げに結ばれたネビルの口元に、緊迫していた空気がゆるりと解けていく。誰かがほうと息を吐いた。

「ネビルとエレナは最初から仲が良かったものね」
「うん」
「じゃあ入学前から知り合いだったんだ?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「えっまじか。てっきり僕、ずっとそうなんだと思ってた」

 目を丸くするディーンに、ネビルは「ホグワーツ特急の中で知り合ったんだよ」と笑った。

「トレバーがいなくなっちゃって。皆に聞いて回ってる時に、ハーマイオニーとエレナが一緒に手伝うよって言ってくれたんだ」
「あー、それ、私も聞かれた気がする。懐かしい」
「トレバー、元気でやってるかなぁ」

 カエルのトレバーは、ネビルが六年生になった年に黒い湖へ飛び込んでそのまま帰ってこなかった。水面を覗き込んで暫く待っても浮かんでこなかった時は心臓が冷えたし、カエルが沈んでしまったのではなく単に自分から逃げたのだと悟った時は、胸に隙間風が吹き抜けていくような寂しさも感じた。しかし同時に、ネビルは安堵もしていた。大叔父のアルジーから譲り受けた老カエルと折り合いがうまくつけられていないことは、入学したその日からずっと続く公然の事実だった。きっとカエルは自分といない方がずっと上手くやれるだろうとネビルは薄々勘づいていて、けれどカエルの手放し方を考えあぐねていたのだ。
 だからトレバーが自由になったと知って落ち込んだのは、エレナだけだった。ネビルが気にしていない手前あまり大袈裟にしてはいけないと思ったのか、エレナはなんでもないように振る舞った。けれどその後しばらく、エレナに“湖へフレークを投げ込む”という日課ができたことにネビルは気が付いていた。投げ込まれるフレークは、トレバーのお気に入りフーズだった。

 ともすれば自分よりも賢く器用で要領のいいカエルであったから、餌の確保だったり、あるいは森の動物たちの餌にされたりだとかという心配はしていない。けれどさすがにこの乱闘だ。巻き込まれて怪我をしていないといい――しかしカエルにとっては自分が飼い主をしていた頃の方が断然危険に溢れた日常だったのかもしれない、とネビルは思っている。ネビルはトレバーを可愛がってはいたが、自分が良き飼い主であった自信はこれっぽっちもなかった――けれど。

「……ん? それならハーマイオニーは?」

 ネビルが懐かしの友へと思いを馳せていれば、ディーンがなにかに引っかかったように眉をひそめた。

「汽車でのトレバー探しがきっかけで親友になったんだろ? ならハーマイオニーも“そう”じゃなきゃおかしくないか?」
「たしかに。けどほら、ハーマイオニーにはハリーたちがいるから。そういうことじゃない?」
「あら、あの三人がうまくいきだしたのは、たしかハロウィンの日にトロールを倒してからよ」
「それより前はエレナ達と三人でいたけど……その時も、やっぱりエレナとネビルはずっと特別仲が良いように見えたよな?」

 好き勝手言い合ってから、四人は答えを求めてネビルを見た。『なにがあって二人は親友になったのか』――そう突き刺さる遠慮ない視線に少し居心地の悪さを覚えながら、ネビルは口を開く。

「えぇと、アー……僕とエレナは――……手を、繋いだからかな」
「手?」
「うん。……だから僕たち、特別仲良しになれたんだと思う」

 要領を得ない回答に皆一様に首を傾げたが、ネビルははにかむだけだった。




 その日――ネビルたちが入学したその日は、前日に雨でも降ったのか空気がジメついていた。ホグズミード駅から城へと続くろくに舗装されていない道は、囲い並ぶ木々のせいもあって鬱蒼とした雰囲気を漂わせていたし、灯りなんて気の利いたもののないどんよりとした辺りでは、爪先すらよく見えない。そういったものの全てがネビルを怯えさせていた。少し――いやもうかなり怖気付いてしまっていて、できることなら来た道を引き返し汽車に戻って、いるかも分からないカエル探しを再開させてほしい気持ちになっていた。そういう名目で汽車にずっと居座っていたかった。組み分けもされず、汽車に這いつくばってカエルを探す。それがとんでもなく惨めだろうことは想像せずとも分かったけれど、それでもこれから始まる学校生活が恐ろしかったのだ。だってペットのカエルにさえ逃げられる鈍臭い自分が、この先どうやってやっていくというのだ。前方の方からさざ波のように伝播してくる期待と興奮の籠った囁き声にさえ泣きそうになる。前をさっさと進んでいく同級生たちと違って、ネビルはそんな楽しい気持ちにはとてもなれなかった。

 きっと自分は落ちこぼれるし、得意なことなんて一つも見つかりっこないに決まっている。それならばもういっそ、一生組み分けされないハンパな状態でいた方がずっとマシな気がした。それに水を吸って重たくなった泥の道は歩きづらくて、もう足が疲れ始めていた。靴先で泥を抉るようにして、のろのろと歩く。

 そんなことをしていたものだから、ネビルがぬかるんだ地面に足をとられたのも時間の問題だったというわけだ。お尻からベチャッといやな音がして、地面と近付いたせいで泥の匂いがむわりと濃くなる。意識すれば靴の先の方から水が滲みだしているようで、爪先が冷たく湿っている。あんな歩き方をすればそうなるのも当然だけれど、とにかくなにもかも最悪だった。

『ネビル? 大丈夫?』

 さっき知り合ったばかりの女の子に気遣われて、ネビルは慌てて立ち上がろうとした。しかしさらに最悪なことに足を挫いていたらしく、ネビルはその日二度目となる悲鳴を上げてしまった。

『大丈夫じゃなさそうだね』

 恥ずかしくて俯いた視界に、手が差し伸べられる。薄暗い中でも分かるほど白い手だった。ネビルはかなり迷ったが、結局一人では立てそうになかったので恐る恐る手を重ねた。そうして立ち上がってから、今更自分の手が泥まみれだったことに気が付いた。急いで引き抜くも、少女の白い手はもう黒くなっていた。

『あの……ごめん』
『え? なにが?』

 手を汚したことも、前を行く集団からかなり離れてしまっていることも。
 そう伝えたかったけれど、少女があんまり不思議そうにするものだから、うまく続けられなかった。まごまごするネビルへ、少女は『危ないからゆっくり歩こう』と笑う。ネビルは黙って頷いた。

 ゆっくりと言われたけれど、ネビルの足はなんだか先程よりも軽くて、歩きやすかった。歩いているのは先と変わらず最後尾で、視界は暗くて、やっぱり木々はザアザア不気味に揺れていたけれど、隣を見れば、自分と同じ足並みで歩いている少女がいた。ネビルはなんとなく、今日はもう転ばないだろうと思った。

 それでもネビルは、船に乗る際少女が当たり前のように差し出してくれた手を――泥で汚れてしまったその手を、今度は迷わずに取っていた。

 



「――なにか劇的なことがなくとも、親友にはなれるんだよ」

 たとえば、手を繋ぐ。

 ただそれだけでいいことだって世の中にはたくさんあるのだと、ネビルはもう随分と前から知っていた。
 

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