一九九六年七月下旬 ゴーント家にて
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《謎プリ学年始まる直前の夏休みの話》
「……ああ」
男の掠れ声を最後に、しばらくの間、時が止まったようだった。丑三つ時間近の不気味な風がボロ屋の外に生えっぱなしの雑草をざわざわと揺する音がする。私はそれをなんの感慨もなく耳に入れながら、一歩前に立つ男の挙動をじいっと、ものも言わずただ見つめた。
誰でも彼でも救いたがるあいつにこの光景を見られたら、きっと大目玉を食らうなと思った。嵐を操るドラゴンのように怒り狂うのだろう。そんな姿が容易に想像でき、場違いにも口角が上がった。
“あいつ”とは期せずして似たような生まれとなった姪のことである。彼女の掲げる理想は大層なものだが、実力不足も甚だしく分不相応なものだ。
昔っから──それこそ赤ん坊のときからちいさな掌を目いっぱいに拡げ、なんでもかんでも掴もうとするそのさまは危なっかしくて仕方なかった。多少成長してもそんな生き方は変わらなくて、傍目で見ているといつかほんとうに大事なものを取り零してしまうのではないかと、ひやひやした。鈍感なあの子のことだから、気付いたときにはもう手遅れ──なんてことが起こってしまうんじゃないかと、いつだって気が気ではいられなかった。
――『そんなこと叔父さんにしてほしくなかったよ』
頑ななまでな芯の強さはヘレンとともに培われたものだろう。
おおらかに何事も受け止めようとできる器は、ウィリアムが見守っていたから形成できたのだろう。
地道な努力を惜しまない勤勉な気質は銀行員だった私の父から──そして湖の底を思わせる深い蒼の瞳は母から引き継いだのだろう。
不意に、石像がごとく立ち尽くしていた男の皺だらけの手が幽鬼のようにゆらりと上がり、止まっていた時間が動き出した。男は私からの熱烈な視線にも気付かず、ぶるぶると手を震わせ、それでも指輪へ手を伸ばしている。自分が人を連れ立って来たことすら、今の男の頭にはまるきりないようだった。
明らかに呪物のおどろおどろしい指輪に、闇の帝王でさえ恐れる最強の魔法使いが──アルバス・ダンブルドアともあろう男が、愚かにも剥き出しの手で直接触れようとしていた。死の秘宝の一つ──『蘇りの石』を前にし、欲望に目を眩ませ理性を放棄させたその背中からはなんの威厳も威光も感じられず、ただの老いぼれにしか見えない。
止めるつもりは、ない。
私はそれに触れればどうなるかを、ずっと前から知っていた。一度指に通したが最後、その身は呪われ、やがては全身を蝕まれて死ぬ。
詰まるところ、かの偉大な魔法使いが死ぬという決断をするに至ったきっかけは他でもないこの指輪であった。洞窟の毒やドラコ・マルフォイ、ましてやセブルス・スネイプの存在などさしたる問題ではない。あの子はどうも、その事実をすっかり忘れているらしかった。
が、わざわざ思い出させてやる必要もなしと、彼女にそれを教えてはいなかった。大体、救いたいと言いながらこんな大事な要素を忘れているなんて、こういうところが駄目なんだぞ……と一言二言苦言を呈したくなるが、まあこれに関しては分霊箱の存在を忘れていた私が言えたことでもない。薮はつつかないに限る。
さて。
ともかく私は、忘れん坊の姪とは違いこの事実を正しく理解していたが、それでも老人に注意を促すこともせずただ背後から傍観するに徹していた。
それは過去に私の復讐を邪魔したこの男が憎いからとか、そんな自己本位的な理由ではなく、それが──男が死ぬことが、この世界にとっての真実なのだと、この世界に生まれる前から知っていたからだ。
「(……それに)」
内心で独りごちる。
男は止められることを望んでいないに違いない。なにせ目の前の老人は亡霊からの救いをみっともないほどに渇望している。およそ正常な判断ではないにしても、これを原因に死んだとて、男に後悔はないんじゃないだろうか。むしろ止めた方が男からは恨まれそうだと感じるほどの空気感だ。
この挙動を見過ごしてやることは、結局、どちらにとっても都合がいいのだ、きっと。
男の指先が、とうとう悪趣味にギラつく金の指輪に触れる──。
私が“この世界”に気付いたのは、牢獄にいるクラウチJrが死んだと聞いたときだった。
報せを聞いた瞬間、跳ねに跳ねた寝癖の先から、だらしなく伸びきった足の爪先に至るまでへ電撃が駆け抜け、忘れていた『この世界のこと』を唐突に思い出したのだ。自分じゃどうしようもないほどの怒りに燃え、気が付くとクラウチに馬乗りになって杖を突きつけていた。そんな衝動的な復讐はアルバスによって止められた上、恐ろしいトラウマまで植え付けられたから、今となっては色んな意味で苦い思い出だ。
なにあれ、そうした経緯で、私は何事にもバレない程度に手を抜くことを覚えた。両親を殺された──否、殺してしまったことで、自分の存在の罪深さというやつを、思い知らされてしまったからだ。
そう、両親は、私がなにも考えず好き勝手動いた末に――世界を乱したせいで、あんな結末を迎えてしまった。つまり、全ては余計者の、私のせいだった。
いくつもの任務をこなし、人を救った。しかし救えなかったことはもちろん、仲間を弔った回数も数知れず。常に本気で任務に取り組んでいれば救える命があったはずだと気付くのにそう時間はかからなかった。
でも私はしなかった。できなかった。奪われるのは突然だ。そのことは身をもって知っている。なにがトリガーになるか分からない世界にいつも怯えていた。
次に失うのは弟かもしれない。もしくはその妻か。はたまたまだ生まれたばかりの姪かもしれない(事実、あの子は“魔法”のせいで一度死にかけた)。
私が余計なことをすれば、また家族が死んでしまう。
ならば目立たないように、一魔法使いとして最低限の働きだけを。
二度と家族を殺したくないのならでしゃばるな。
慎ましく、物語の影を担う一員として生きろ。
私はそんな強迫観念に締め付けられる毎日を送っていた──あの子がホグワーツに入学するまでは。
私は世界の実情を知っていても、未来を変えるなんて大それたことはできないし、しようとも思えなかった。それなのに我が姪はどうしたことか、乱すに乱しまくっている!
入学してからのあの子は、常にめちゃくちゃで計画性がなくて、けれどなにをするにも楽しそうで、活力に満ち溢れていた。死んだような毎日を過ごしていた私とは、なにもかもがまるで違った。家族が死ぬかもしれないと知らないからかもしれない。無知ゆえの無謀さなのだろう。
けれどそうして全力で、無我夢中でこの世界を自由奔放に走り回るあの子の姿は、私の目にはいっそ毒だというくらい眩しく映った。
あの子が代表選手に選ばれてしまった時は、『目をつけられてしまった』と思った。
私はシリウスをムーディもといクラウチJrの助手として斡旋した。ささやかな範囲で、本筋をそう大きくは変えないであろうというラインを慎重に見極めたつもりで、うっかり手を加えてしまった。気が大きくなっていたのかもしれない。あの子がシリウスを救って、それでも世界はなんでもないような顔をしていたから。もう少しだけなら自由に振舞ってみても大丈夫なのかもしれないと、勘違いしてしまった。
そうした油断のツケが、あの子に降り掛かってしまった。ホグワーツの、ハリー・ポッター以外の代表選手。生まれて何十年経とうとも、その末路は忘れようもない。
死の道を進まされている姪のために私がやるべきだったのは、無理やりにでも、多少周りに怪しまれてでもクラウチJrの正体を暴いてやることだった。一刻も早く。そうすればヴォルデモートの企みは頓挫し、墓場で誰かが死ぬということもない。
けれど私がそうしなかったのは、一重に自分が未来へ及ぼす影響が怖かったからだ。姪を救おうとして、けれどそれでもし未来が最悪な方向に進んでしまったら? 何も分からない、ややもすると本筋よりも悲惨かもしれない未来へ家族を誘うのか?
そんな臆病風に吹かれた私は、結局姪が物言わぬ死体となって帰ってくるまで、なにもできなかった。
『もしかしたら、この子ならなんとかしてしまうのでは』、という甘ったれた期待も打ち砕かれ、私は絶望した。この世界に救いも希望もないし、家族が大事と宣いながら、家族を守るために動けなかった。自分は生きている価値のない愚か者の臆病者だと自暴自棄になって、我を忘れた。全てが終わったら、ヴォルデモートが倒されたら、姪の元へとむかおうと考えてさえいた。
信じられないことに、姪は生きていた。
死の呪いを受けてなお、生きていた。様々な要因が重なった末の奇跡だ。私は深く感動して、興奮して、その後しばらくはまともに眠ることすらままならなかった。
好きなように生きて、好きなようにして、それでも尚、世界にしがみつくことができるのか、お前は。
ああ、ああ!
私もあんなふうに生きていけたら――生きていたら!
私はそんなことを、激しく後悔をした。
だからあの子の計画に手を貸すことにした。無鉄砲すぎて見ていられないというのは本音でもあったが、半分は建前だった。罪悪感と憧れと、それからほんの少しの嫉妬で目が焼け、しまいには彼女の真似事までしようとしたりした。冷静になってみれば、アーサーとナギニの件に私の助けなんて必要なかった。いい大人が考えなしに、突っ走って恥ずかしい。お見舞いに来たあの子もこのザマを見てさぞ呆れていたことだろう。
しかしいくら熱に浮かされたとはいえ、私は今度こそ自分の大義を見失わなかった。私が一番大切なものはなにがあっても『家族』だ。私のせいで奪われるのはもうたくさんだった。
救いたいものは救う、好きなように動く。けれど家族だけは、侵させるものか。例えほかの何を犠牲にしようとも、家族だけは。
――『影響のない死なんて存在しないよ』
あの子が正しいということを本当は分かっていた。
分かっていながら正しさを優先できなかったのは、やっぱり私が弱虫の臆病者だったからだ。家族以外どうなろうと構いやしないと、無関係の者を巻き込んだ。欠片ばかりの良心が痛んだが、それも仕方ないと飲み込んだ。
だがあの子は、それさえも救ってしまった。
もうお手上げ、完敗だった。
本来ならば範囲外の人間までを手の内へ掬いあげた上に、未来を乱した張本人だってぴんぴんしている。話を聞き、徹底した正しさを見せつけられたあのときの衝撃といったらない。言い訳を並べ立て逃げてばかりだった私とて、これにはさすがにこの子が正しいのだと認めざるを得なかった。
それと同時に、勝手に感じていた劣等感が弾けた。これまでの生き方を、改めて真っ向から否定された気分だった。
しかしとはいえ、年甲斐もなく負け惜しみのような八つ当たりをしてしまったことは、申し訳なく思っている。次会う時にはしっかり謝らなくてはいけない。それから、私の都合で巻き込んでしまったソフィアにも。
「――っ、?!」
――私を突き動かしたのはそんな罪悪感が心のどこかに残っていたからという理由もある。
しかし占めるところが最も大きいのは、やはりいつも通りの、自分勝手な理由だった。
右手でアルバスを突き飛ばす。利き腕ではないにしてもあらんかぎりの力に加え、すっかり油断しきっていた老人は無様によろけて煤けた床に転がる。床に倒れ伏した状態のまま、アルバスは唖然とした顔でこちらを見た。水晶のような瞳が、指輪を嵌められた左手に向けられる。力なく開かれたその口から、絶望しきった声音をした本日二回目の「ああ」が絞り出された。
「なにを、なにをしておる……!」
「ハハ……」
人命の危機を前に、爺さんの理性も戻ってきたらしい。素早く立ち上がり、力が抜けて倒れかけた私の体を力強く支える。先程までの細い枝じみた頼りなさが嘘のようだ。
“指輪がうっかり嵌ってしまった手”を、ぼんやり見た。どくどくと左手が熱く、そして嫌な脈を打っている。指輪を嵌めている部分から溶けているような腐っているような、肉だけでなく骨までもがグズグズになっていくような感覚がした。腐敗臭に泥が混ざったような臭いが鼻をつく。左手の神経はかなり鈍っているはずなのに、それでもこの痛みなのか。痛すぎて変な笑いが零れていく。齢百だかの人間に負わせるには過ぎる傷だな、これは。
「なぜ──なんてことを……わしの声が聞こえておるか、エドガー!」
「ああ……」
「意識をしっかり保つのじゃ、すぐにセブルスの元へ──」
アルバスが、なにかを言っている。セブルス。ああ、セブルス。可哀想で勇敢なあの男。あの男に憧れたことも、たしかにないともいえない。あいつはどこか、あの子に似ている気がするから。
「ああ、馬鹿者、なぜこんなことを……!」
なぜってそりゃ――あれ、なんでだっけ。
呪いが凄まじい速さで身体を蝕んでいるのか、すでに意識は朦朧としている。覚束無く散らばった思考で、私は考え続けた。そして、思い出した。
「おなじ、だ」
「なに?」
そう、同じなんだ、わたし――おれも、アンタと同じで。
だっておれはあの子じゃない。あの子にはなれない。誰かを助けようとか、そんなことを思ったわけじゃなかった。おれが、こんなことをしたのは――。
「かぞくに、会いたかったから」
拙く紡げば、すぐ真上で息を呑む音がした。
そうだ、おれは家族に会いたかった。
もう手遅れだとしても、家族に少しでも顔向けできる、『いい』自分になりたかった。
この二つを満たすには、こうするのが最適解だった。ただ、それだけだった。
だから別に、老い先短いジジイを庇うとかそんな生産性のないことをしたわけでは全然なく。おれはただ最後まで、自分勝手に己が欲望に従ったに過ぎない。お前はたまたま助けられただけなので、そんな悲しそうな顔をする必要はないのだ。
まあそれでも、どうっっっしても気になるっていうのなら、あとで一つ“誓い”でも立ててもらおうか。
罪悪感に付け込むそんな小狡い考えが浮かんでまた可笑しくなった。やっぱりおれには、どこまでいっても家族以外に大事なものはないみたいだ。
「ああ」
荒い吐息に自嘲が紛れる。おれはゆっくりと目を閉じた。
やっぱりおれは、最後までお前みたいには生きれなかったよ、エレナ。
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