薄氷の上の幸せ



(【アズカバンの囚人 13?】のドラコ視点になります)

 
 どうして僕が。

 そんな不貞腐れた子どものような言い訳を頭に浮かべながら、傾き始めた太陽の光が満たす廊下をひとり歩く。こんなやりきれない気持ちになってしまう理由は、いうまでもなく今日の魔法薬でのエレナのせいだった。同じ班になって浮かれていた自分をこの硬いギプスで殴ってやりたい。あいつはこちらを慮る言葉を口にして笑った顔をしていたが、その声はしっかり僕を責めていた。何度思い出しても気分が悪くなる。台にナイフを叩きつけるダンという強い音が鼓膜にこびりついている気がした。だって、僕は怪我したっていうのに。それなのになんだよ、あの態度。心配されこそすれ、怒られるなんておかしいだろう。

『約束したのにって思って』

 僕だって、別に破るつもりはなかったさ。
 どこか悲しげな響きをした声に誰ともなく言い訳をする。そりゃ、ウドの大木が教師だったのは予想外だったし気に食わなかった。でも約束をしてしまったし、と僕にしては比較的大人しくしてやっていたつもりだ。
 それでもあの森番の言いつけを忘れて挑発してしまったのは僕のせいじゃない。いや、忘れていたのは、たしかに一割くらいは悪かったかもしれないけど。でも悪いのはポッターだ。何を話していたのかは知らないがいつまでもべたべた気安く触りやがって。思い出して顔が歪む。

 ロングボトムなら──五千億歩譲ったとして──まだいいとしても、ポッターがあいつに触れるなんていうことは僕の許容範囲を完全に超えていた。目の前が怒りで赤く染まるあの感覚はまだ鮮明に覚えている。正直、ヒッポグリフに腕を裂かれた事実よりも不快で胸糞が悪い。

「あ……」

 小さな声に顔を上げると、ちょうどロングボトムが廊下の反対側からやってくるところだった。ロングボトムは迷った素振りを見せつつも、なんと「やあ」と話しかけてきた。臆病者のロングボトムが声をかけてくるなんて、と眉をひそめる。こいつが僕に話しかけてきたのは初めてだった。

 しかしだからといって僕がこいつなんかに挨拶を返さなきゃいけない理由もないし──むしろ今はその変化が憎たらしい。こいつがなぜ話しかけてこれたのかは分かっていた。ああ、腹が立つ。自分が一番あいつの近くにいるんだという確固たる自信とその余裕が憎たらしくてたまらない。その場所は、あいつの隣は本当なら僕だけのものだったのに──そんなむかつきに任せて呪いをかけてやってもよかったけれど、もう取り戻せる立場にあるんだということを思い出して考えを改める。僕は寛大な心で杖を抜くことをやめ、ふんと鼻を鳴らすだけに留めた。ぼんやり立ち尽くしているロングボトムをさっさと追い越していく。

「エレナが倒れたんだ」

 だが背中から投げられた言葉に僕は否応なしに足を止めさせられてしまった。突然ブレーキをかけられたようにぐっと前につんのめる。振り返るとあいつもこちらを振り返って間の抜けた丸顔を晒してじっとこちらを見つめていた。ロングボトムはこうなることを見越して僕を一度追い抜かせたのか。そう思うとむかつきでこめかみあたりが熱くなる。……でも今はそれよりも。

「どういうことだ」
「闇の魔術に対する防衛術の授業でボガートを使ったんだ。でもあんまりうまくいかなくて……それで今は医務室で寝てる」

 ロングボトムは顔を情けなく歪めて話していく。そして「僕はさっきあの子の鞄を置いてきたところ」と聞いてもない情報を付け足した。

「お見舞いに行くならもう少し後にした方がいいと思う。今はルーピン先生が見てるから」
「……別に見舞いに行くなんて一言も言ってない」
「そうだね」

 涼しげな顔にまた一段と気分が下がる。こいつはいつからこんなにむかつくやつになったんだ。ひたひたとした冷たい怒りが腹のあたりでさざめいたが、何とか堪える。

「……そのボガートはなんだったんだ」

 こいつに聞くのは癪だった。だがこいつにしか聞けない。本人に直接ボガートの正体なんて聞けるわけがなかった。倒れるほど怖いものを聞きだそうなんて気は起きない。でもそんなに恐れているのなら、なんでもいいから打開策を見つけてやりたい。力になってやりたかった。


 ロングボトムからボガートの正体を教えられ、困惑する。どうしてそんなものが怖いのか。口にはしなかったが、僕の疑問に同調するようにロングボトムは首を振った。こいつでさえ知らないのかと複雑な気持ちになる。一人で抱えているのか、あいつは。

「じゃあ、僕もう行くから」
「待てよ」

 行かせるかと尖った声をあげる。ロングボトムはなんで呼び止められたのかさっぱり分からないという顔で立ち止まった。

「なに?」
「なんで僕にあいつのことを話した?」

 何を企んでいるんだ。なにかの差し金か? そんな思いでぐっと睨みつけたが、ロングボトムは何だそんなこと、とでも言いたげに肩を竦める。「だって友達なんだろ」事もなげにさらりと言われ、わずかに目を見開く。

「……あいつが話したのか」
「ううん、何も聞いてない。でも知ってるんだ」

 穏やかに口元を緩めるロングボトムに困惑して言葉を詰まらせる。僕が純血主義であることを知らない人間はいない。それなのにどうしてお前は親友がそんな人間と交友関係を持ったのに笑っていられるんだ。

「よかったね」
「は?」

 神経に触る物言いに、反射的に低い声がこぼれる。しかしそれを気にも留めないでロングボトムは意味ありげに笑みを深めた。こいつ、さては覚えてるな。一年のときのことを全く忘れていないのだということが分かり舌打ちを鳴らす。これまでならおどおど怯えていたはずなのに今のこいつは全く気にした様子は見せない。

「でも、親友は僕だからね」
「うるさいな」
「傷つけたら許さないよ」
「……うるさいな」

 向けられたどことなく──いや明らかに自慢げな顔。イラッとしたので今度こそ呪ってやろうと思いかけた。しかし続けられた言葉にそんな考えは吹っ飛び、つい憮然とした態度になる。余計なお世話だと思いながら遠ざかっていく背中に再び舌打ちをした。

 僕は踵を返してロングボトムが歩いてきた道を辿る。寝ているというあいつの顔でも見に行こう。また怒られるのはごめんだし、寝ているならそっちの方がむしろ都合がよかった。別にルーピンがいたとしても問題はない。包帯を変えに来たとか検査に来たとか、適当なことをでっちあげればいい。

 歩きながら、ロングボトムの言葉を思い出す。傷つけるだって? 見当違いも甚だしいと不快感で眉根に皺が寄った。

「そんなことするはずがないだろう」

 よりにもよって、この僕がエレナを? 馬鹿にするな。思わず零れたつぶやきはそんな思いが込められていたはずだ。

 しかしそんな意志が伝わらないほど、その声が崖っぷちに立たされているような恐怖を孕んで震えていたことに気が付く。唖然として口を開くと唇がじんじんと熱をもった痛みを訴えてきた。知らず知らずのうちに唇をきつく噛み締めていたらしい。

 この三年、ずっと隣に並びたかった。喉から手が出るほどあいつの友達という座を再び手に入れたかった。やっと取り戻したそれを自分で放り出すなんてそんな馬鹿な真似するわけない──そう言い切れる、はずなのに。
 なんでこうも言い知れぬ不安を感じるのか。今にも足元が崩れて奈落の底へと落ちていきそうな感覚にぎゅっと拳を握り締める。


 夜を帯びはじめた生暖かい夕時の夏風が体を包む。いつの間にかかいていた冷や汗を知覚させられ、うなじがぞくりと粟立った。嫌な悪寒に身震いをする。

「そんなこと、僕はしない」

 傷付けたりなんか、するもんか。
 

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