全身の筋肉をぎゅっと縮こめたところでふっと目が覚める。顔が冷たい。冬の到来を凍える部屋の空気で悟り、寝返りを打ちながら呻く。ああああ、冬。来ちゃった。世界っていつもそうですよね。季節をなんだと思ってるんですか? 昨日まで夏だったんですよこちとら。いい加減にしろ。
鬱々とした気持ちで枕元で充電してる携帯を手に取ると、冬真っ盛りだと分かって尚更いやになった。一生布団からでたくない。かなり前に奮発して買った羽毛布団を抱き締める。足元に常備していたものを夜のうちに寝惚けた状態でかけていたらしい。突然の冬でもこれがあればモーマンタイ、世界を渡る前からの相棒だ。どこかに穴が開いてるのか、最近よく羽根っぽいものが落ちてるのを見かけるが、まだまだ買い替えるつもりは毛頭ない。ただの布袋になるまで使い潰してやるから覚悟してほしい。というか、布団に限らず、あまり内装を替えたくなかった。消耗品は仕方ないけれど、この家の物は二年前から敢えて変えていない。だってここだけはなにがあっても不変で、ずっと私の味方でいてくれる唯一の場所だから。ここだけは、このままでいてほしかった。
さて、しかし。これでも社会人なのでずっと布団に丸まってるわけにもいかない。渋々布団を畳み、カーテンを開く。
「えっ雪」
真夜中のうちから降っていたのか、広がる世界はすっかり白銀で。はらはら目の前を舞っていく綿雪に唖然とする。まじかよ新横浜。これでも都会のはずなのに。生態系がかなり違うから天候もまた違うのかもしれない。はーやだやだ。会社休みにならないかな。カイロあったっけ。なくてもまあ、今日一日くらいなら耐えられないこともないだろう。幸いなことに会社とうちは近いから。廊下の冷え冷えとした空気で肩が震え、一つくしゃみをする。うーん、さむい。
出勤準備を終え、防水スプレーを探して下駄箱を漁る。不意に頭上からぱたんと軽いなにかが倒れた音がした。見れば、飾っていたロナルド君お手製のにいちゃんかっこいいノートが伏せられている。振動で倒れてしまったのかと、特に気にせず立て直した。靴やコートにスプレーをかけて身に付け、傘を片手に扉を開ける。外に出てたった一歩、一瞬にして全身を包んだ有り得ない寒さに、くしゃみがまた込み上げてきた。
◆
社員証が使えなくなっていた。エラー音と通せんぼするプレート。困った顔を装ってやって来た警備員のお兄さんに、ビルを間違えたと愛想良く伝え、来たばかりの会社に背を向けた。歩きながら携帯を取り出し、悴んだ指先で画面を叩くようにタップする。会社のPCと連携しているはずのメールアプリは、いつの間にかログアウトされていて。RINEは新規登録画面に飛ばされて。電話帳もメールボックスも、写真フォルダも、なにもかも空っぽで。雪を積もらせた重い傘が、タオルが詰まった鞄が、なんの情報もない携帯が。とうとう震える手から滑っていく。道の真ん中で立ち尽くす私を、通勤する人たちが迷惑そうに避けていった。
「……いえ」
家だ。家に帰ろう。帰って、なにか食べよう。なにか、あたたかいもの。悄然と落とした物を拾い、私は傘も差さないで雪まみれの地面を蹴り、所々で転びそうになりながらもがむしゃらに街を走った。
なんとか辿り着いた家先で、鼻をすする。極寒の風に曝され、耳がキンと耳鳴りを訴える。でも寒さ自体はそこまでない。それよりも、全身に響く心臓の音がうるさくて、痛いくらいだった。喉まで昇ってきたかのような生々しい拍動を感じる。いや、なんでもいい。はやくあたたまろう。ご飯よりまずはお風呂だ。湯船に浸かって、芯までふやかして……そうすればきっと、落ち着ける。今後のことは、それからまた考えよう。深呼吸してから冷たい鍵を持つ――入らない。
「ちがう」
無意識のうちに拙い否定の言葉が零れた。なにがちがうのだろう。自分で言ったくせに、判然としない。……そう、たぶん、ふるえてたから。手元が覚束なかったから。だから入らなかったんだ。見つけた理由に、必死になって縋る。膝から崩れるようしゃがみ、鍵穴を見つめ、両手でしっかり握った鍵を、ゆっくり近付けた。
「……うそだ」
「あら?」
隣の部屋の扉が開く。顔をだしたのは、六年ほど前に越してきた老夫婦のおばあさんだ。数度挨拶した程度で、別に仲がいいわけではないけれど。しかし彼女は床にへたり込む私を見て、心配そうに眉を下げた。「どうしたの、大丈夫?」今の私は相当不審者だろうに、そんな言葉をかけてくれる。返事をしなきゃと思ったが、声がでなかった。とりあえず立ち上がって、やっと「はい」と掠れ声で返答する。
「ならいいけど……ひどい顔色よ」
「いえ、大丈夫です……ちょっと、さむくて」
「そうねえ、まさか雪が降るなんてね。あなた、階でも間違えちゃったの?」
「……え?」
「寒いものね、ボタンを押し間違えしたって可笑しくないわよね」
おばあさんは、くすくすと茶目っ気たっぷりに笑った。
「そこ、もうずっと空き部屋よ」
もう何の役にも立たない鉄の棒が、地面を叩いて無機質な金属音を奏でた。
◆
軽やかな美しい不香の花は、いつの間にか水分をたんと含んだ重たいみぞれへと変わっていた。ずぶ濡れで歩いていて、その途中で家に――さっきまでいた場所に傘を置いてきてしまったことに気付いた。けれどまあいいかとすぐにどうでもよくなる。こんなに濡れているのに、今更差してなんの意味があるというのだ。
なんの感慨もなく、ただ機械的に足を前へと動かす。どこへ行こうかなんて決まっていなかった。でも、会社に私の居場所はない。家族も友人もいない。家でさえ、もう私の家ではない。どこへなら私は行ってもいいのだろう。答えを求めて、あてどなくふらふらと灰色の世界を彷徨う。不気味に思われたのか、途中何人かに声をかけられた気がした。けれど全て無視した。声をかけてきたのが男か女か、子どもか老人かさえも記憶にない。お巡りさんでなかったことはたしかだ。警察なら、今頃署まで連行されているだろうし。
不意に腕を引かれた。されるがままに体の向きを反転させる。ふ、と薄く陰った視界に飛び込んできたのは、血のような赤、雪よりも白い銀、そして――。
「なにしてんだよ、あんた……!」
「……ああ、ロナルドくん」
凛とした蒼。随分大きくなった。私たちの目線は、もう頭一つ分は違った。すぐ真上から、雨が傘を叩く音がする。
「ああ、じゃねえよ! なにしてんだよこんな夜中に、傘も差さねえで濡れたまま……!」
「夜中?」
ぼけっとオウム返しして、辺りを照らすネオンに気付いた。たしかに、たくさん歩いた気はする。立ち止まってはじめて硬い棒のようになった足に意識がいく。でも、どうかな、また時間が飛んだだけかも。うん、どうせそうだ。ひとりでそう笑うと、ロナルド君が眉をひそめた。異端な者を眺める眼差しはなにも間違っていない。何がおかしいのか分からないが、引き攣った笑い声が溢れていく。
「ふ、アハ、あはは!」
「っ、おい!」
ロナルド君が声を荒らげて腕を掴む手に力を込めた。ミシ、と軋んだ音を立てた腕に、彼は慌てて力を緩めて「ごめん!」と謝罪する。別にいいのに、いたくなかったし。ケラケラ笑う私に、ロナルド君は怪我でもしたみたいに苦しそうに顔を歪めた。
「……ちょっと来て。俺の事務所、すぐそこだから」
「いかない」
「いいから来い」
逃げ出すと思われているのか、また腕の力が強くなる。そんなことしたって意味ないのに。だって行かないとは言ったけど、たいして抵抗する気もなかった。
事務所? の、さらに奥――生活感のある部屋だ――まで通され、暖房をつけた彼に靴を脱ぐように促される。でも、多分雨、靴の中まで染みてるんだよね。
「部屋汚したくないし、ここで立ったままじゃダメ?」
「……だめだ。汚れるとか、別に気にしねえよ」
「私が気になるんだよ。逃げたりしないからさぁ」
へらりと笑ってみせたのに、彼は頑なだった。「待ってろ」と奥へ姿を消したかと思うと、白いタオルを抱えてすぐ戻ってくる。ご丁寧にソファまで何枚も重ねてぴっちり敷いて、白い道を誂えた。
「ええ、いいよ、そんな――」
「いいから。しまいにゃ抱えんぞ」
わしゃわしゃとふわふわのタオルで拭かれながらそう凄まれて、口を尖らせる。こっちは気遣ってるのに。どうして素直に受け取ってくれないんだろ。
「昔から思い通りにいってくれないよね、きみも」
「……『も』?」
勘繰る視線を笑顔で拒絶し、靴を脱いでタオルの道に足を落とす。硬くなった足の裏には柔らかすぎて、平衡感覚が狂ってついよろけてしまった。驚いた声をあげたロナルド君が私の肩を支えてくれる。さっきまで意識が向かなかったけれど、肩を掴む彼の手が異様に熱い気がして風邪かなと思った。その状態のままソファまで介助され、強制的に座らせられる。
「ありがと。で、なに?」
「なにって……」
私から話すことはないと暗に伝えると、ロナルド君は悲しげに目を眇めた。悲しませて悪いけど、事実だ。彼に話してどうするっていうんだ。パッパラパーになった頭でも、誰かに相談することが無意味だということはちゃんと理解していた。落ち着けたばかりの腰をあげかけると、隣に座っていた彼に素早く腕を掴まれた。
「どこ行くつもりだよ」
「さあ。どこ行こうかな」
行き先なんて決めてない。ここにいても無駄ってことだけは分かるんだけど。
「離してくれない?」
「そんな状態のあんたを一人にさせられるわけないだろ」
「あはは、頭おかしい女は危険だから放置できない?」
「そんな理由なわけねえだろ!」
自分より遥かに体躯の良い男性に真正面から怒気を向けられ、さらには怒鳴られたというのに、今の私は全く恐怖を感じていなかった。ぜーんぜん怖くない。なんか、なんていうか、どうでもいい。
「やっと――数年ぶりに会えたってのに、なんだよ、あんた……どうしちまったんだよ!」
「数年ぶり? そうだね、数年ぶり! アハハ!」
きみにとってはそうなんだろうねと高らかに笑い上げれば、ロナルド君は失望した顔をした。だって、こんなの笑ったって仕方ないでしょう。私からすれば、最後に会ってからまだ一ヶ月も経っていないんだから!
「なあ、なにがあったんだよ」
「知らない」
「ふざけんな、俺は真面目に――」
「しらない!」
急に叫んだ私に、ロナルド君が息を飲んだ。彼が今どんな表情をしているのか、なぜか無性に見たくなくて顔を背ける。
「しらない、分からない。『なにが』って、私が聞きたいよそんなの。なんで私ばっかりこんな目にあうの? 普通に生きたい、ずっと普通でよかったのに――こんな世界、どうして?」
さむい、頭が痛い、くるしい、気持ち悪い。はきそうだった。もうなにもしたくない。呼吸するのも面倒だ。心臓の鼓動ですらひどく煩わしく感じる。そんな心底怠惰でいたいという心地なのに、口だけは止まってくれなかった。
「おい――」
「誰も私を覚えてない、ひとりぼっち、さみしい、つかれた、も、わたし、死に――」
はたと口を止め、指先で唇に触れる。いま、私、何を言った? なにを言おうとした? ロナルド君が焦った様子でもう一度「おい」と横から様子を伺ってくるが、その声を無視して、思考に耽った。
これまで死にたいなんて、思ったことはなかった。だからさっきのは完全に無意識で。しかし、そう――そうだ。死ねばいい。死ねばよかったんだ! こんな当然のことになぜ今まで気付けなかったんだろう? 最初からそうすればよかったのに! こんな世界でたった一人で真面目にがんばっちゃって、私ってばほんと、馬鹿みたいじゃないか?
「ロナルド君」
「……なんだよ」
「手、離して」
私を見下ろす彼は、とてもショックを受けているようだった。目元が細かくひくついている。薄く開いた口から見え隠れする歯は、音がなりそうなほどきつく噛み締められていた。
「いやだ」
重たい沈黙を挟んでやっと紡がれた言葉は、想像の範囲内だった。これ見よがしにため息を吐けば、掴まれた腕からちいさな震えが伝わってくる。それでも離されない――むしろ意志を持って強くなった。私は彼を睨むように見上げたが、彼のほうもまた私を睨んでいた。
「誰も覚えてないって、なに?」
予想外の質問に息を止める。話すかどうか僅かに逡巡した。
「……そのままの意味だよ。私、違う世界の人間だから」
「は……?」
まあいっか。どうせこれで終わるんだし。彼と会うことも、二度とないのだ。
「吸血鬼なんて存在しない世界から来たの。来たくて来たわけじゃないよ、なぜかある日突然来てた。私にとってここは、家族も友達も、大事な人なんて一人もいない、知らない人しかいない世界」
信じてくれなくても別に構わなかった。そんな期待はもとよりしていない。しかし吐き出すにつれ、心が少しずつ軽くなっていくような気がした。
「私の時間だけ、もうずっとめちゃくちゃなの。夏が来て春に飛んで今度は梅雨でって。だから私だけ歳を取らない」
もしかして私、さっきからやけくそ――というかある種のランナーズハイみたいなものなのかもしれない。再びさっき感じていた、笑い転げたいような気持ちになっていた。
「だから、みーんな私を忘れちゃうの!」
堪えきれず、最後は噴き出してしまった。満面の笑みの私を、ロナルド君は静かに見据えている。その顔からは、彼の感情は掴めなかった。
「うそだな」
「ああ、やっぱり?」
そう思うよね、普通は。分かっていた結果だ。しかし彼からの拒絶を予想できていた――覚悟できていたはずなのに、私は今、どうしてか、胸に穴が空いたような感覚に襲われている。やっぱり心のどこかで期待してしまっていたらしい。ダメだな、生きてるって厄介だ。頭の冷静な部分が、そう他人事のようにぼんやり考えていた。
「おい」
苛立った声、二の腕まで上がってきた熱い両手が、思考の底に沈んでいた意識を掬い上げる。
「勝手に失望すんな」
「え……」
「あんたの話は信じるよ。異世界って、たしか前も言ってくれたよな」
だから信じる。
あっけらかんと、まるでそれが当然みたいに言う彼に、今度は私が「うそだ」と言う番だった。「なんでだようそじゃねーわ」ムッとした顔で即座に否定される。
「俺が『うそ』って言ったのは、『みんな忘れる』ってとこだよ」
「え、う、うそじゃない、わすれる、みんな、もういない……」
「いる」
「いない! 誰も――私のことなんか、もう誰もおぼえて――」
「俺が!」
苦しげに吐き出された短い声は、そこまで大きくはなかった。けれど、反論を躊躇わせる声音に、思わず肩が跳ねる。ロナルド君は、やり切れない感情を逃がそうとするように、目を閉じ、小さく息を吐いた。揺らぐ海面がゆっくりと覗く。
「おれが、覚えてる。……おれがいるだろ」
腕の拘束がまた強くなった。存在を確かめようとしているみたいだった。すこし、いたい。
「あんたのことを忘れたことなんて、一度もねえよ。初めて会ってから、ずっと」
腕が痛いからだろうか。目の奥がじわりと熱くなって、彼がぼやける。
「なんであんたの『みんな』に、おれは含まれてないんだよ」
「だ、って」
咄嗟にそう口にしたけれど、結局続きは思い浮かばなかった。子どもじみた中途半端な言い訳が、宙ぶらりんになって冷たい部屋を廻る。だって、ロナルド君、ロナルド君は――なんなんだろうか。どうして彼だけおぼえていてくれるんだろう。この世界で、なぜ彼だけが。
喉奥から急速に震えが込み上げてくる。なけなしの理性が働いて、咄嗟に下唇を噛んだ。血の味がする。
「だから、なあ、頼むから……死にたいとか、言わないでくれ」
言ってない、まだ。辛うじて最後まで口にはしていなかった。でもそっか、バレちゃうよな、あんなの。だってもう彼は子どもじゃないんだから。
ぎこちなく後頭部に手が回り、そうっと抱き締められる。先程まで腕を千切るかのように掴んでいた人とは思えないほどの、焦れったくなるくらい柔い力加減だった。
生きることを諦めるなら、このぬくもりを受け入れてはいけない。そう分かっているのに、体が動かせない。彼から離れることを拒否していた。熱を持った目蓋が重たい。少しだけ力を抜いて肩口に寄り掛かると、彼の速い脈が聞こえてきた。
◆
目を覚ますと、見知らぬ天井が視界を占めた。たしかあのあと、彼の服を渡されて着替えて……空き部屋に案内されたような……朧気ながらそんな記憶がある。やけに片手が熱い気がしてそちらを見ると、私の手を握り締めたロナルド君が、自身の腕を枕にしてベッドに突っ伏して寝こけていた。体勢辛そう。一晩中こうしていたのだろうか。毛布をかけてあげたかったが、どう頑張ってもがっしり握られた手を離すことができず、結局なにもできなかった。本当に寝てるのか疑いたくなる力の強さだ。
外はすっかり晴れているようで、カーテンの隙間から、明るい日差しが伸びていた。きっといい天気なんだろう。そう考えながら何気なく吐いた息が震えていて、ハッとする。慌てて空いてる手で顔を触ると、頬が濡れていた。やだ、泣いてる。目を擦って涙を拭うが、意識しだすと胸が苦しくなってきた。止めなきゃと思うと、嗚咽が急に止まらなくなる。なにこの体。不便。生きるってやっぱり厄介だ。そう思った瞬間、身動ぎが鬱陶しかったのか、握られた手の熱が増した。
「ンン……」
ぴくぴくと眉が動き、やがて銀の睫毛が音もなく持ち上がる。少なくとも涙はもう大丈夫だ。よかった、見られなくて。咳をして、さりげなく声の調子を整える。
「おはよう、ロナルド君」
「……はよ」
そうやわらかく破顔した彼は、カーテンも開いていないのに、眩しそうに私を見上げていた。