最後の審判を下すのは
あの夜以降、出掛けたりして余暇をともに過ごすことはなくなった。どころか、会話すらほとんどしない日々が続いている。私があの後昂る感情に任せて『しばらく食事は大丈夫です』と伝えてしまったことも、こうして拗れた要因の一つだと思う。朝は必要以上に早起きしてこそこそと支度を済ませ、寝たフリをしているであろうドラルクさんを残し、カーテンが閉じ切ったままの薄暗い部屋をあとにする。そんな、同居開始当初のような生活に関係値もそのまま逆戻りしていた。いや、関係値だけに着目すればむしろマイナスかもしれない。
喧嘩したままお別れはいやだ。けれどあの夜言われたことや抉られた傷を綺麗さっぱりなかったことにするのも、また不可能だ。そこまで割り切れるほど、私は大人になることはできない。
しかしなんにせよ、そろそろどうにか――話し合いとかをしなくちゃいけないだろう。『まだ帰らない』とはいっていたけど、帰る方法が分かっているのにいつまでも引き止めてはおけないのだから。
でも私から謝るの? えっ私なにか悪いことしたかな。たしかに最初おちょくるようなことは言ってしまったけど、それは押し倒された時点で差し引きゼロになったでしょう。なら、他の悪いところって――好きになってしまったこと? そんな、それだって本当は別に言うつもりなかったし、ちゃんと諦めようとしてたのに。それでもだめなの? 好きになっただけなのに、そんなにいけないことだったの?
「……えっ」
『やっほ』
ドラルクさんのおじいさんと邂逅したのは、そんな鬱屈とした晴れない気持ちを抱えてから早二週間が経とうとしていた時だった。洗顔を終わらせて顔を上げると、鏡が鏡じゃなくなっていた。タオルを持ったまま硬直する私に、おじいさんは『おはよ』とふりふりと小さく手を振る。相変わらず、クマのような巨大な体躯に反して非常に可愛らしい仕草をする人だ。アンバランスさにちょっと脳がバグりそうになる。私は会うの二度目だけど、もしかしてこうして頻繁に訪れていたのだろうか。うーん、タイミング。がっつり寝起きの顔見られるのやだな……と思いながらも会釈をした。
「お久しぶりです」
『うん、久しぶり。大きくなったね』
「なってないです」
たった数週間会わなかっただけなのに何を言っているんだこの人。人外特有の時間感覚のズレだろうか。即座に否定すると、おじいさんは立派な髭をもしゃもしゃさせ、『……そう?』と、不思議そうに小首を傾げた。
「そうですよ。ドラルクさん、呼んできます?」
『どっちでも。伝えておいてくれるなら、呼ばなくてもいいよ』
「……いいですよ、伝えます」
一瞬言葉を詰まらせてしまったが、承諾する。これを機に仲直りできるかもしれないと思ったからだ。『ありがとう』おじいさんは感情の読めない相貌で口を開いた。
『そろそろ帰らなきゃいけないよ』
「え……」
『と、伝えてくれる?』
「……わ、かりました」
そうだ、この人は、元から迎えに来たのだった。唐突にそんな事実を思い出す。あんまりフランクなノリだから、電話会議みたいな感覚で話してしまっていたけれど。掠れ声ながらも返事をすれば、おじいさんは少しだけ顔を傾けた。
『ドラルクのこと、どこまで聞いてる?』
「えっ……いや、具体的なことはほとんど聞いてないかと」
『仕事中に怪我をしたからきみの元にやってきたことは?』
「怪我……?! し、仕事って吸血鬼のおまわりさん、でしたよね?」
おじいさんはこっくりと頷く。鏡の反射か、つぶらな瞳が赤々と煌めいた。怪我なんて、そんなの一言も聞いていない。吸血鬼ってそんなに危険な生き物なのだろうか。何度か尋ねてみたことはあるが、『吸血鬼なんて無駄に長生きしたせいで頭すっからかんになったトンチキでボケナスな輩しかおらんわ』とやさぐれた口ぶりの返事ばかりだったから、普通の人間とそこまで大差ないのかと思っていた。急に目の前に立つ男が恐ろしくなる。
『でも吸血鬼は関係ない。倒壊した建物の瓦礫に巻き込まれた』
「あ、そうですか……」
『生死に関わるような大怪我だったから、現実の――こちらの世界のドラルクは、もうずっと眠ったまま』
「まさか……四ヶ月も?」
ここにいた期間がそのまま反映されるなら正確には四ヶ月以上だが、とにかくそういうことになる。拍子抜けしたのも束の間、信じられないという気持ちをそのまま音にした。それなのにおじいさんは肯定とばかりに緩慢な瞬きを一つ落とす。
『このまま目を覚まさずそちらの世界に留まっていたら、ドラルクの“在り方”が変わってしまう』
「在り方……」
『分かりやすくいうと――“吸血鬼”になってしまう』
おじいさんの言葉が呼び水となり、ドラルクさんから説明してもらった時のことが思い出される。ドラルクさんは、『ダンピールが自然的に吸血鬼となることはない』と、たしかにそう言っていた。
『世界を跨ぐというのは、ある程度のリスクを伴うことだから』
「……だから記憶もなくなるんですか?」
おじいさんが表情を変えないまま、また頷く。私は息を長く吐いて数秒目を瞑り、瞼を持ち上げる。
「……この話、ドラルクさんは知ってるんですか?」
返事はない。おじいさんは、ただ私をじっと見詰めていた。
質問の答えとしては、それだけで充分だった。
◆
服よし、化粧良し、鞄よし。出勤準備を終わらせ、リビングへ向かう。ドラルクさんが眠っている布団の傍らに佇んで、枕元に両膝をつけ、まじまじ見下ろした。外から車の走行音にまじり、蝉の鳴き声がする。きっと今日もうんざりするほど暑いのだろう。しかし寒いくらい冷房がきくこの部屋にいると、日照る世界が恋しく思えてくる。きっとすぐ戻りたくなるだろうとは分かっていても、早く飛び出していきたい気持ちに駆られた。
布団に包まっていたドラルクさんが、不意にぎゅっと瞼に力を入れた。瞼を数度震わせ、「なに……?」としょぼしょぼ目を開く。その白々しさにちょっと笑いそうになる。演技がド下手くそ。せめて私が声かけるまで待てばよかったのに。
「おはようございます」
「……はよ」
狸寝入りがバレていたことに気が付いているらしく、ドラルクさんはむっつりとした、やや気まずそうな顔をしている。彼はのそのそと布団から抜け出すと胡座をかいて私に向き直ったが、落ち着かない素振りで寝癖のついた髪をしきりに手で整えていた。
「お話があります」
「いま? 会社は?」
「まだ大丈夫です。とはいえ、のんびりもできないので単刀直入に」
一度言葉を切った私を、ドラルクさんは、首を傾けて下から胡乱げに見遣った。不審に思われない程度にさりげない深呼吸をする。もったいぶったわけじゃなく、ただ平然と一息で言い切る勇気がなかっただけだった。
「ドラルクさん、元の世界に帰ってください」
「……は」
「元々この家から出られないから仕方なく置いていたんです。でもお迎えだって来たことですし、なによりあんな提案をしてくる人とはもう一緒にいたくないというか。……だからもう、さっさと帰ってくれません?」
「……随分はっきりと物を言うね」
「もういなくなるという人に遠慮もいらないかなと」
悪びれた様子を見せず言いのけてみせる。ドラルクさんは「それもそうだ」と軽く笑ったが、その口角は、次第に下がっていった。完全に口を結んだ彼は顔をやや俯けて、垂れた前髪をくしゃりとかきあげる。
「――分かった」
少しの沈黙を挟み、ドラルクさんはやっとそう紡いだ。なんの揺らぎもない、いつも以上にいつも通りの落ち着き払った声音だった。
「じゃあ、明日の夜にでもお暇させてもらおうかな!」
「えっ明日……」
「まさか今すぐ出てけって言うつもり?」
パッと顔を上げた彼の溌剌さに、私の方が呆気に取られた。言い出したのは自分のくせに、『そんな急に』、なんて、言えるわけない。不自然に黙った私にドラルクさんも訝しく思ったのか、ひょいと片眉を上げた。慌てて「そういうわけじゃないです」と手を胸の前でパタパタと交差させて否定する。
「ふぅん? ま、なんでもいいけど。帰る前に作り置きをいくつかしてあげようと思ってね」
「あ、だから明日の夜……」
「そ。きみ、生活力ゼロだから」
「ゼロでもなんとかなってたからいいんです」
そう言って浮かべられたニンマリとした笑みは、久しぶりに見るものだった。懐かしさで緩みそうになる頬をなんとか抑え、あえてムッとした顔を作る。
「無理やりなんとかしてただけじゃないか」
「ドラルクさんだって大概不健康な生活してそうなくせに……それで家事万能はもはや詐欺では」
「なにをぅ。ほんときみ、とことん失敬だな」
「ドラルクさんに言われたくないです。……でも、作り置きは楽しみです。嬉しい」
この和やかな空気を壊してしまうかもしれないと分かりつつ、じんわりと言葉の端に思いの丈を滲ませる。しかしドラルクさんが途端ぎくりとしたように瞠目したので、ギリギリと胸を締め付ける痛みを押し込めて「あっ!」とわざとらしく声を張り上げた。
「な、なに?」
「でもすみません、私明日は夕飯いらないんです」
「……ああ、そ。明日『は』じゃなくて明日『も』だろ」
別にいいけどね、と続けられた揶揄に「そうですね」と微笑みを返す。
「じゃ、帰りは買い物頼むよ。ちょっとメモするから待ってて」
「了解です」
何故いらないのかは、ついぞ聞かれなかった。
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