週末の終末をあなたと
今まで考えたことはなかったけれど、ドラルクさんって吸血鬼が親族にいるのに吸血鬼を捕まえる仕事を生業にしているのか。
「なんで選んだのか聞いておけばよかった」
自然と零れてしまった言葉にハッとして周囲を見渡す。週末の駅前はごった返していたが、幸いなことにみんな隣の人とのお喋りや、携帯に夢中だ。いまの独り言を拾った人はいないようだった。安堵しつつ携帯を取り出す。十八時四十分。田中さんとの約束の時間まであと二十分である。今日一日暇だったため、早く来すぎてしまった。
ドラルクさんは今夜、元の世界へと帰る。夜にこうして予定があってよかったなと思う。もしお別れの瞬間に立ち会ってしまったら、きっと私は引き止めてしまうだろうという確信があった。それこそなりふり構わずに縋り付いていただろう。そんなことをしたらドラルクさんは、ドラルクさんは――。
「……どう、するのかな」
どうせ誰も聞いてないと開き直って押し出した疑問は、想定通り雑踏に消えていく。困るのか、怒るのか――それとも。彼がどう反応するのかは、もはや少しも見当がつかなかった。
私はこの数ヶ月で、ドラルクさんのことを知ったつもりになっていた。手先が器用で、ゲームが好きで、ジョンという名のアルマジロと暮らしていて、口が上手くて、紳士ぶっているけど少しつつけば嫌味を繰り出してくる。でもそのわりに根は世話焼きの人好きで、私のお気に入りのベージュのカーディガンが私よりも似合ってしまう人で、くしゃりとした笑みはあどけなく、年齢以上に幼く見える――とか。
でももう、今となってはよく分からない。真意の読めない“うそ”で傷付けてきたかと思ったら、存在を捻じ曲げてまで傍にいようとしてきて。彼は私を思わせぶり女と評したが、私はドラルクさんの方がよっぽどだと思う。責任なんて取ってくれないくせに、人の心にするりと入り込んで、好き勝手してくれて。あなたのせいで私の情緒はすっかりバカになってしまった。最悪だ。あなたこそタチが悪い。振り回されすぎて頭がこんがらがっていて、私はもはや自分がドラルクさんのことを本当に好きだったのかも、断言できずにいた。
「すみません、お待たせしました!」
「え――あ、いえ、大丈夫ですよ、まだ時間前なので」
走ってきたのか、田中さんは息を切らしていた。暗くなっていた画面を反応させ、時間を確認してから笑いかける。彼は安心したように目元を和らげた。
当然だけど田中さんはいつものスーパーのエプロンをつけていなくて、それがなんだか不思議な感じだった。その辺を歩いている普通の男性というか……今初めてちゃんと彼を彼と認識したような、そんな失礼な気さえしてくる。我ながらひどい感想だ。「行きましょうか」罪悪感を誤魔化すためにそう言って携帯を鞄にしまう。
「あ、はい。えと、ここからそんなに遠くはないんですよ」
「送ってくれたURL見ました。シチューも美味しそうだったけどアレ、コンフィも美味しそうでしたね」
「そうなんです! あれもほんとオススメで。鴨肉、お好きですか?」
「んー、あんまり食べたことないです。シェアしてくれません?」
もちろん、と彼は破顔したが、なぜかすぐに曇らせた。戸惑いを顕著に目を泳がせる。歩き出したばかりなのに足を止めてしまった彼に、私も困惑した。
「今日、本当によかったんですか?」
「え?」
やがて意を決したような面持ちでそう尋ねられる。質問の意図がよく分からなかったので、私は彼を見つめ返した。
「お付き合いしている人がいるんじゃないですか?」
「……はっ?! い、いません!」
「えっ?! え、でも、あれ……?」
「な、なんでそんなこと」
「前に男物の服屋の袋たくさん持って歩いてるところを見掛けて……あと先日も恋人と大喧嘩してきた、みたいな顔してたし……」
服も、友達へのプレゼントにしては多い量だったので。
自信なさげに付け加えられた言葉に愕然とした。買い物袋って、よく見ているというか……正直それだけで? という思いは否めない。……一瞬、ドラルクさんが見えていたのかと思ってしまった。安堵と落胆が入り交じったような形容しがたい気持ちを溜息で逃がす。
「恋人はいません」
「……じゃあ、好きな人はいるんですね」
鋭い指摘――というほどでもないか。私の失言だ。分かりやすく反応してしまったし。でも今ならまだ間に合うと、勘が告げている。今否定すれば、きっと彼は、思うところはあるかもしれないが、私の言葉を尊重してくれると思う。飲み込んでくれる。そして何事も無かったかのように、このままお店に連れて行ってくれる気がする。
「います」
けれど、気が付いたら口が動いていた。我ながら驚きつつ、ぎゅっとスカートを握り締める。肌触りのいいそれは、初夏にドラルクさんが選んでくれた中でも一番似合うと太鼓判を押してくれたものだった。
「好きな人は、います……ごめんなさい」
好きか分からないとついさっき思ったばかりなのに、どうして口が止まらないんだろう。迷いや戸惑いが胸に渦巻いたが、それでも吐き出した言葉に対する後悔は少しもなく、尚更田中さんに対する後ろめたさが募った。咎める心に従い謝罪を紡ぐと、彼は眉尻を下げて微笑んだ。
「謝らないでください。隠したってよかったのに、教えてくれてありがとうございます」
彼の言うとおりだ。言わなきゃよかったのに。好きだった事実なんて、なかったことにしてしまえばよかったのに。この期に及んで私は、過去形にすることさえできないらしい。呆れるやら悲しくなるやら――ほんのちょっと嬉しいやら。複雑な心境だ。
「あの、告白とかは……」
「一応してないです。……けど、フラれちゃいました」
「一緒ですね」
意外と言うなぁ、この人。気負いさせないような爽やか笑顔でさっぱり言い切った田中さんに苦笑する。メッセージも、そうだ、こんな感じでぽんぽん返してくれるから話しやすかったんだった。この人こそ普通の友達になりたい人だったなと、残酷なことを今更思った。
「……その人が、何を考えてるか分からないんです」
こんな往来で立ち止まって、私たちはいったいなにを話しているんだろう。そんな至極真っ当な考えが頭を過ぎったが、これまで誰にも相談してこなかった反動が今来てしまっていた。
「私は彼を知ったような気になっていただけで、本当は何も見ていなかったのかもしれなくて」
「だったら、直接聞いてみればいいじゃないですか」
フッてきた女からの恋愛相談なのに、田中さんは嫌な顔を少しも覗かせず、励ますようにガッツポーズをした。けれど私は首を横に振った。どうにも今は心が弱っていて、彼の優しさに甘えてしまう。
「聞けません。二度と会えないような遠いところに行ってしまう人なので」
「……もういないんですか?」
「いや……今はまだいます、多分」
また携帯を取り出して時間を見る。夜って、まあもう夜だけど。でも多分まだいるんじゃないかな。いまいち判然としない私の返事に、田中さんは難しい顔をした。
「時間は少ない感じですかね……じゃあ今すぐ行かなきゃ」
「えっ行くってド、その人のところへってことですか? 今すぐ?」
「そうです。だって好きな人と会えなくなりそうなのに、僕なんかと過ごしてる時間はないでしょう?」
威勢のいい自虐はさすがに肯定しづらくて頬が引き攣る。けれど無言の微笑みに圧され、つい「じゃあ帰ります」と口にしてしまった。
「あの……今日はすみませんでした」
「いいんです。……でも最後に一つ聞いてもいいですか?」
最後、と前置きされて断れる人はいないだろう。なにが飛び出してくるか読めず若干の不安はあったが、私は頷いた。
「お相手の方って、いつも電話してた人ですか?」
「……そうです」
「やっぱり」
保たれていた田中さんの笑顔が、初めて少し歪んだ。
「僕の好きになった素敵な笑顔は、その人が作ってたんですね」
「……ありがとうございます」
絞り出したお礼は、きっと正しい意味では伝わっていなかったと思う。それでも言わずにはいられなかった。
誰かの心を動かせるほどの笑顔を彼は私に作らせてくれていたのだという事実のおかげで、背中を押されたような気持ちになってしまったから。
やっぱり私、あの人のことがちゃんと好きだったんだ。
◆
マンションの廊下を滑るように走る。ガチャガチャと粗暴な動作で鍵を回して乱暴に扉を開け放つと、ちょうど洗面所に足を踏み入れようとしていたドラルクさんがビクリと一瞬浮いたかと思うほど飛び跳ねた。
「えっはやくない? まだ二十時前……」
ドラルクさんは初日以降見ていなかった白いスーツを纏って、髪もきちっとあげていた。帰る準備を完璧に整えている彼へ、廊下の床を抜くんじゃないかというくらい踏みつけて乱暴な大股で近付き、両腕を掴む。
「っ、わ、わた――わたし……!」
駅からここまで一度も止まることなく全力で走ってきたせいで、口内には鉄の風味が広がっていた。心臓が膨らんでいて息がしづらい。吹き出る汗が不快だなと思考の隅で考えつつ、荒い呼吸の合間に言葉を紡ぐ。
「ま、まって、あの、あの――」
「待つ、待つから! ちょっと落ち着きなさい」
腕を掴まれたまま、ドラルクさんはぽんぽんと私の脇腹あたりを軽く叩く。温情に甘え、足元を見つめながら呼吸を整え――そのままドラルクさんの方へと倒れ込んだ。汗臭いかなと不安になったが、今だけは忘れることにする。少しでも隙間をなくすようにとぴったりくっつき、広い背中へ手をがっちり回した。触れ合った箇所が熱いのは、私の体温のせいだけではない気がする。
「ちょ、えっ、な、なに――……まさか田中になにかされたのか?」
裏返っていた声が、急にがらりと調子を変えて硬くなった。どうしてここで彼の名前をだされるのか分からなかったし、見当違いも甚だしいし、すぐさま答える理由もないなと思ったので無言で首のあたりへ顔を寄せる。クリーニング屋特有の衣服の芳香に、うちのボディソープが混ざったような不思議な香りがした。
「なにか怖い目にあわされたのか?」
「……ちがいます、全然違いますよ」
顔を覗き込みたいのか離れようとする素振りをみせたので、そんなんじゃないと仕方なく答える。田中さんは関係ない――いや、ある意味ではあるかもしれないけれど。
「ならなぜこんなこと……しかもこんなに早く帰ってきて……」
「どうしてもドラルクさんにお願いしたいことがあって」
まだ心拍は少し走っていたが、それでもマシになった。私の方から少しだけ離れ、至近距離からドラルクさんを見上げる。ドラルクさんは逃げようとするみたいに顎を引いて視線をずらした。
「帰るの、朝にしてくれませんか」
「えっなんで?」
「帰る前に抱いてほしいからです」
きょとんと開かれていた瞳が静かに凍りつき、痛いほどの空白が生まれて時間が止まる。交わした視線は逸らさない。本気だというのが伝わるよう、一心にぶつけた。
「溜まってるって言ってましたよね。それならどうぞ私を使ってください」
「言っ、た――けど。……でも、帰ったらそんなの――」
「だめ。今私に向けて。私で発散してから帰って」
「……どうして」
「ドラルクさんが好きなので、最後の思い出がほしいからです」
図星を指され動転して、結局有耶無耶になっていた。そんなあの夜のやり直しだとばかりに、とっくに露見していたであろう気持ちを間髪入れずに答えれば、ドラルクさんは言葉を詰まらせてぐっと歯を食い縛る。犬のような歯が少し覗いた。
「……その話はてっきりなかったことにするのかと思ってたんだが」
「そうしようかと思ってたんですけど、やっぱりやめました。ちゃんと伝えないままお別れしたら後悔しそうだったので」
「はは、あんなことを言われてまだ好きでいられるとは。きみの度量の深さには恐れ入るよ」
「そうですね。最初はひどいことを言われたって傷付きました。一方的なことばかりで……でもやっぱり変ですよあれ。ドラルクさん、自分が演技そんなに上手じゃないって知らないでしょう」
あの夜の貼り付けたような笑顔と少し高い作り声は、思い返せばあまりにも嘘くさかった。だから彼が嘘を吐いているというのは、早い段階で気付いていた。ただなぜそんな嘘を吐かれたのかが分からなかったため、色々と悩んでしまったのだが。
しかしドラルクさんは――私の好きになった人は、あんなことを本心から言えるような人ではない。それが、私が走りながら考え出した結論だった。
「私はあなたが本当に好きでした――うそ、今も好き、大好き。あなただけが好きです」
あなたは違うんですか?
自身の存在が揺るぐような危険があると知っていて尚ここに残ってくれていたのは、私が理由なんじゃないんですか?
私が好意を寄せていると知って、突き放すためにあえて偽悪的な振る舞いをしたんじゃないんですか?
手を繋ぐ必要がないと分かったのに繋ぐのを拒まなかったのも、つまりはそういうことじゃないんですか?
聞いてしまいたい気持ちを堪える。明確な答えは喉から手が出るほどに欲しかったけれど、同時に、この人は絶対に決定的な言葉は口にしないだろうなという確信があったからだ。私の知るドラルクさんは、そういう人だった。
「ドラルクさんが好きです」
だからかわりに私が言う。想いを無責任に言葉にしない、その場限りのやさしさをみせない、不器用なうそを選ぶ彼に代わって、何度だって口にする。
「たとえあなたが帰ったとしても、それで私を忘れてしまうとしても、あなたを想う気持ちは変わりません」
叩いてしまった頬へ恐る恐る手を伸ばす。避けられるかと思ったけれど、ドラルクさんは意外にも大人しく私の手を受け入れた。私の手汗か分からないが、触れた皮膚はややじっとりしている。角張った頬骨を撫でながら、私はいつの間にか腰へ手が回されていることに気が付いた。
「……だからせめて、最後に抱いてください」
それも、できる限りひどく。
私が言い終えるや否や、ドラルクさんは、薄い唇を血が出るのではないかと思うほどきつく噛み締めた。眉間に深い皺が刻まれる。どうしてそんな傷付けられたみたいな顔をするのだろう。傷付けてほしいだけで、傷付いてほしいわけじゃないのに。
困ったなと思いながら、あげた前髪に指を差し込んで少し崩す。パラパラと乱れた黒い前髪が、琥珀色の瞳を陰らす。そうやって遊ばれても、ドラルクさんは微動だにせず、私を見つめたままだった。
「お願いです、ドラルクさん」
どうかあなたを、私の心と体に刻みこんで。
どれだけ時間が経とうと、忘れられないくらい深く。
なんて懇願が終わるより早く息が止まるほど強い力で抱き締められ、なかなか情熱的な始まりだな、と都合のいいことを思って少し笑った。
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