閑話休題


 抱き締められてからどのくらい経っただろう。ドラルクさんは依然として何も発さないし、こちらの動きを一切認めないといった力加減を緩和する気配はない。なんだろうこの状況。結局抱いてくれるのかくれないのか。躊躇っているとドラルクさんの肩越しに、すっかり茹で蛸状態な鏡の自分と目が合った。な、情けな。なんだその顔。見たくなくて顔を伏せるために身動ぎをした瞬間だった。ジジ、という音が背中から響く。何事かと思う前に、ひんやりとした外気が素肌を撫でた。そして次いでパチンと、小気味よい音。胸元が抑圧から解放され呼吸が一気に楽になる――が、ちょっと待て。
「なにしてる?!」
 私からも回していた腕を解き制止の意味を込めて片手で肩を押して隙間を作ると、胸元がふわっと浮いたので慌てて空いた手で抑える。廊下だぞここ! しかも目の前にはいつ人が現れるか分からない鏡。……えっ文字にするとすごく怖いな。今まで気にしたことがなかったけど突然異常性に気付きゾッとしてしまった。
「いや……きみが逃げないようにと思って」
「に、逃げませんよ」
「ごめんうそ。気が急いて、つい」
 挑戦的に顎を突き出した直後に殊勝な様をみせられ、宙ぶらりんな気持ちになる。チキンレースで一人崖からマジで落ちた、みたいな。とにかく勢いが萎んだ。
「きみの部屋がいいんだけど」
「エッッッ、あっ、あー……えーっと……あの……ちょ、ちょっと汚い、かも。……うそです、汚い」
 恐らく彼が初めて入った時と大差ない。だって特に片付けとかしてないし。リビングのドラルクさんの布団じゃダメかと聞けば、ドラルクさんは「それでもいいけど」と言いつつ、諦めきれない様子で私の部屋の扉を見る。ちょっと絆されそうになるが、最後の最後で『いやこいつほんと生活力ねえな』と引かれるのも嫌だったので、心を鬼にして彼をリビングへと誘導した。
 リビングへつくなり、ドラルクさんがジャケットを脱いでソファに投げた。布団が手早く敷かれていくのを見ながら、直撃する冷房の風に身震いする。かいていた汗が冷やされて少し寒い。
「……シャワー浴びたい」
「ごめん、我慢して」
 ですよね。ひどくしてと頼んだのは私だし、ダメ元のお願いだった。……いや、ひどくってそういう意味じゃないんだけど、という気持ちは否めないが、まあゴタゴタ言ってやめられても困るし。納得していれば、布団の真ん中に腰を落ち着け、困り顔をしたドラルクさんが手を差し伸べてくる。こう? と思いながら自身の手を重ねるとグッと引っ張られ、倒れ込む。うなじに唇を押し当てられる感触がして、思わず身が強ばる。
「なんにも気にならないし、むしろきみの匂い、落ち着くから……」
「……だからって嗅ぐのはやめてください」
 ふ、と眠りに落ちたかのようにぷつりと声が途絶え、やがて聞こえてくるのは息遣いだけとなった。……から、なに、とは言ってくれないんだな。とことん律儀で頑固な人だ。そういうところを好きになった。でもやっぱり寂しい。ちくりとした痛みを感じながらも、不機嫌を装って彼を押し返す。吸われるような仕草が恥ずかしかったのも事実だ。「残念」ドラルクさんはそう言って立ち上がった。そのまま背を向けて歩き出してしまったので、えっ怒った? やっぱやめるの? と布団の上で一人硬直する。けれどドラルクさんは固定電話の前で足を止めた。その隣に置いていた小物入れに用があったらしい。なにかをとって、すぐに戻ってきた。彼が手にする小さな物――避妊具に「は?」と低い声が洩れる。
「なんでそんなもの持ってるんですか?」
「きみのなんだが」
「そんなわけ……あっ」
 そういえば、恋人がいた頃、箱ごと置いていたような。別れたあともあの辺に放置していたような。そしてこの家のことを今や私より把握しているのは、家事担当のドラルクさんだったような。詰るようにじっとり睨まれ、たまらず目線を逸らす。いやあの、別れるちょっと前に買ったものだったから、未開封のままで。使う予定もないけどなんとなく捨てるのもったいないないなあ、って……。
「昔の男の物なんぞを使うのは癪に障るが、背に腹はかえられんからな。……コラそこ、『なくてもいいのに』みたいな顔すな」
「いたっ」
 心を読まれたかと思ったらデコピンされた。たいして痛くもなかったが、弾かれた額を抑える。
「それに、ひどくするってそういう意味じゃないだろ」
「……そうですね」
 いやそうなのか? 雰囲気に流されてつい同意したけど、あれ、そういうことなんじゃ?
「はい脱がせるよー」
「あ、はい――ぅぉわギャッ、ッムード!」
「ひどくしてほしいって言ったのはきみだろう」
 幼稚園の先生みたいは声掛け、と思ったら一瞬にして裸にされる。パンツしか身につけたものがない状態で悲鳴を上げ、自分で自分を抱き締めた。いや言ったけど、でもひどいって、やっぱさっきからなんかちょっと違くない?! しれっとした顔でネクタイを引っ張って緩めるドラルクさんを睨みつける。あっでもかっこいいなその仕草……。ドラルクさんは手際よくYシャツのボタンを外し、脱いだそれもまた適当にソファへと放った。晒された上体を見て、場違いながらも笑いが込み上げてくる。
「なに笑って――」
「ふ、細い……ていうか薄い?」
 浮き出た肋骨の溝へ指先を滑らせる。骨と皮ばかりという言葉がこれほど相応しい人もいないだろう。がりっがりじゃん。あー、これは重体にもなる……瓦礫なんかもう触れただけでペシャンコになっちゃうだろう。向こうでの彼はずっと眠ってるらしいけど、それなら頭に怪我を負ったのかな。こうして見たところ、体にも傷はないみたいだし。しかしこんなに細い上にくびれてるって……羨ましいを越えて心配だ。やっぱり私のことバカにできる食生活じゃないでしょ、この人。脇腹のささやかな曲線を撫でると、窪んだ腹が一瞬だけさらに凹んだ。そこも触ろうとしたが、手を捕えられたので顔を上げる。ドラルクさんが、顰め面の目元を赤くしていた。
「もういいでしょ」
「……もう、ちょっとだけ」
「だめ」
 往生際の悪さを咎めるように枝のような指がぴったり絡まる。にこりともしないままもう片方の手も掴まれ、ゆっくり押し倒された。
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