御神渡り穿つ春雷


 ドラルクさんは、今後は家事もやるし生活スタイルを私に合わせる、と言ってくれた。けれどそうなると、家事が終わったら暇を持て余してしまうんじゃだろうか。私物は身に付けていた衣類のみで、携帯すらないと言っていた。暇になったら昼寝とかするのかな。でもこう、娯楽的なものを渡しておいても、損は……ないのでは……。これでまた嫌味を言われるようならもう二度と関わりを持とうとはしません。絶対避けよ。決めた。
「あれ、どこだ……?」
 というわけで私は今、学生時代に使用していた教科書類を探していた。世界が違うというなら、歴史にも違いがあるんじゃないかと考えたからだ。椅子の上に立ち、クローゼットの上段へ適当にしまっていた過去の品々を半分しか見えない状態で探す。背伸びしてもギリギリだ。手が攣りそうだし椅子から落ちそう。
 指先に感じた本っぽい手触りのものを引っ張り出す。ラッキーなことに高校のときに使っていた日本史の教科書だった。あとは世界史と現社……小学生用が分かりやすいかな。いや、それこそバカにするなと怒られるか。
「った……箱?」
 この場所に日本史があったなら、と近辺にあった本も何冊か掴むと、その拍子に頭へなにか落ちてきた。カタンと床へ転がった見覚えのない木箱に目を見張る。手の中の教本達は都合良く目当ての物だったため、椅子から降り、落ちたものを手に取った。
「……ループタイ?」
  蓋を開け、中に入っていた物に困惑する。深紅の宝石で出来た菱形の金具から、黒い紐が二本伸びていた。シンプルな見た目だが、手の持ってみるとずっしり重たい。明らかにイミテーションの重さではない。怖くなってすぐに箱へと戻した。なぜこんな高そうな物を持ってる? 絶対私のじゃない。かといって家族のものとも思えなかった。こんな中世の貴族が身に付けるものと縁のあるような家庭ではない。発掘された奇妙な貴重品に首を傾げながらも、なんとなく木箱を机の端に置いた。
 ◆
 異邦人との同居が始まり、二週間弱が経った。ドラルクさんとの交流はほとんどない。休みの日は出掛けて平日のように家を開けているし、うっかり顔を合わせた際は最低限の挨拶だけして、キッチンで野暮用を済ませてすぐ自室に籠る……というのを繰り返している。もうリビングにはめっきり近付かなくなった。リビングを寝床として提供しているせいか、なんとなく彼の縄張りな気がしてしまい、近寄り難さを感じていたからだ。家主なのにね。あ、ちなみに購入した服は、脛半分近くの布が足らなかったくせに上はダボダボで、あまりにみっともなかったため、私から再購入を申し出ました。本人に選んでもらって通販した。「別に家からでないしいいのに……」とは言われたが、ちょっと同情を覚えるほどの酷さだった。
 お互い本意ではない始まりの共同生活。顔を合わせて数時間であんな口喧嘩をした相手と、仲良くなれるとは到底思えなかった。しかしドラルクさんのほうはそうでもないのか、なんだか積極的に交流を持とうとしてきている――ような気がする。
「いってらしゃい、気を付けてね」
「……はい、いってきます」
 ほら、こんなふうに。
 寝ていたって一向に構わないのに、彼は私に起床時間を合わせてくれていた。一度その旨をちゃんと伝えたが、こうして続けているということは、聞く気はないということなのだろう。頑固な人。でも、私とて別に嬉しくないわけではない。「おはよう」と「いってらしゃい」を言って見送ってくれる存在は新鮮で、毎朝ちょっと面映ゆい心地にはなってしまうけれど。彼のこの生真面目さは公務員だからだろうか。ド偏見です。
「……ねえ、あのさ」
 ドアノブに手をかけたまま振り返る。呼び止められたのは初めてのことだった。躊躇いを顕著に目を泳がせ、軽く息を吐いた。
「いいや、帰ったら言うから」
 なに、すごい勿体ぶるじゃん。こわ。帰りたくなくなる……。微妙な心境に陥っている私に気付いているのかいないのか、ドラルクさんは「今夜は雨が降るらしいから、早く帰っておいでよ」と言った。……えっ雨?
「昨日見たときはそんな予報なかったですけど……」
「そうなの? でもさっきニュースでやっていたが」
「えっ、そ、それ、強いんですか?」
「うん? ああ、落雷を伴う激しい豪雨になると言っていたよ」
「らくっ……な、なにがあっても雨が降る前に帰宅します!」
「あ、はい。ぜひそうしていただいて……」
 力んで断言した私に、ドラルクさんは怪訝な面持ちをしていた。
 ◆
 一刻も早く帰りたい。
 しかしそういう日に限って残業を頼まれ、飛び乗った電車は車両点検のため大幅に遅延したりするのだ。乱れゆくものは全て乱れる。これぞマーフィーの法則。ふざけろくそが。
「帰りましたァ!」
「うわびっくりした死ぬかと思っ、びしょ濡れじゃないか!」
 半ギレのヤケクソ笑いでドアを開け放つ。なぜか玄関にいたドラルクさんは、私の姿に軽く飛び上がってから洗面所へ駆け込み、タオルを抱えて戻ってきた。
「傘は?!」
「駅出てすぐ折れました……」
 ひっくり返って無残な姿になったビニール傘は外にかけてある。ふわふわのタオルで軽く髪を拭きながらしゅんと答えれば、ドラルクさんは哀れみいっぱいの顔をした。
「風も酷くなってきたしね……停電する前にお風呂入っておいで」
 気遣わしげな声に従い、パジャマを持って風呂場に向かった。せっかく貯めてくれたお湯だが、入浴中に停電しても困るので、浸かるのもそこそこにして上がる。タオルを軽く被ったままリビングに入ってきた私に、ソファに座って牛乳を飲んでいたドラルクさんは「随分早かったな」と目を丸くした。
「ドライヤーしてないの?」
「今日はもうオイルだけでいいかなって」
「一日サボるだけでひどいことになるぞ」
 やれやれとした声色の脅しを聞き流し、冷蔵庫を開け、いつものようにタンブラーへ烏龍茶を注いだ。ソファの後ろに立って烏龍茶を飲みながら、流れているクイズ番組をぼんやり眺める。A、いやB――……じゃない、早く部屋戻らなきゃ。
「じゃ、おやすみなさい」
「こら、待ちたまえ。話があると出掛けに言ったろう」
「……あー」
 言ってたかも。不機嫌に机へと置かれた空のコップがカンと音を立てた。非難を滲ませる彼にちょっと考え込む。話、いやでも……。
「すみません、今日はちょっと。また明日でお願いします」
「だめだ。今聞いてもらう」
 ドラルクさんはパッと素早く立ち上がり、長い脚のコンパスを存分に活かした歩幅で、廊下に繋がる戸口へ立ち塞がった。唯一の通路を通せんぼされ、目を細めて彼を見据える。
「ちょっと、退いてください」
「いやだね」
「退いてくれないなら押し退けることになりますけど、いいんですか? 許可なく触らないって約束しましたよね?」
「ああ、触らないとも。私からはね。私はただたまたまここに立ってるだけだが、なにか問題でも?」
 飄々と返してくる彼に歯噛みした。ごうごう強い雨風の音に気が急いて目を眇める。苛立ちを抑えるために胸の前で腕を組んだ。
「もう、話なら明日絶対ちゃんと聞くって約束――」
 突き上げる地鳴りのような轟音に、声を遮られる。途端に心臓がドクンと大きく膨らみ、一瞬のうちに体温が一気に下がるのが分かった。「うわっ」ドラルクさんがつぶやいたのが合図かのように、部屋の明かりがふっと落ち、真っ暗闇に包まれる。
「停電か……音から察するに、かなり近くに落ちたみたいだな」
 身体の震えを少しでも軽減させたくて、二の腕をきつく握り締める。激しい脈動に痛みすら感じてしまっていた。
「私ブレーカー見てくるよ。玄関にあるよね?」
「……」
「……ちょっと?」
 名前を呼ばれた。呼ばれた? こたえなきゃ。「そ、ですね」わけも分からないままカラカラの喉で無理やり捻りだした声は、掠れていた。
「……大丈夫?」
 心臓の音がうるさかった。耳のすぐ横で鳴っているようだ。本当にうるさい。いっそ止まってくれ。
 カーテンの向こう側からの眩い光が、室内をカッと照らす。反射的に息を呑み、凍りつく。光った、って、ことは――。
「えっ」
 ヒュッという私の短い呼吸音を、雷鳴が呑み込んだ。空気を切り裂く二度目の地鳴り。膝から力が抜け、首元のタオルが滑り落ちる。床に座り込んで、胎児のように身を縮めて小さくし、蹲った。こんなに寒いのに、汗が噴き出して止まらない。際限なく溢れる恐怖で、身体がバラバラになってしまいそうな気がした。抱き締めてちゃんと留めておきたいのに、全身の筋肉が強ばっていて、指にうまく力が入らない。私はいま、なにをしているのだろう。暗く判然としない視界が、自分の存在の不明瞭さを助長させていた。
「……ごめんね」
――『ごめんね』
 なぜか二重にブレた謝罪の言葉が、間近で鼓膜を揺らす。控えめに肩を押され、折り畳んでいた身体を起こされた。頭の付け根、うなじあたりを覆うように手が回り、引き寄せられ――ぬくもりにすっぽり包まれる。
「あとで怒っていいから」
 押し当てられた耳から、心臓がトクトクと一定の音を刻んでいるのが伝わってくる。いつの間にか背中に回っていた手も、心音に沿ってゆったりとしたリズムをとっていた。依然後頭部に添えられた手も、頭を撫で摩っている。
「怖くないよ」
 真上からあやすような声がした。また世界が光ったと思えば、音が轟くよりも早く、身体に回った手の力が強まる。心音だけでなく、ザァという血潮の流れていく音まで聴こえてきた。
「大丈夫だよ」
 怖くないから、大丈夫だよ。
 海のように穏やかで低い声は、そんな言葉を幾度も丁寧に紡いだ。繰り返される度に走っていた鼓動が緩やかに失速し、緊張が解け、氷が溶けるようにじわりじわりと力が抜けていく。
「ゆっくり息を吸って――吐いて」
 言われた通りに何度か反覆すると、胸のつかえが消え、呼吸が楽になった。
「上手」
 慈しむような優しい声と、普段の――私の知っている彼がうまく結び付かない。いったい今、ドラルクさんはどんな顔をしているのだろう。恐怖が薄くなり余裕を取り戻しつつある頭が余計なことを考える――けれど。
 私はそんな好奇心に蓋をし、濡れる瞼をそっとおろす。ぬくもりの方へ、少しだけ頭を預けた。
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