第四夜 キスをしましょう
病院へ行った数日後。戦々恐々としながら郵送されてきた手紙をくまなく目でさらう。紙の一番下部、文の末尾にぽつんと打たれた句読点をたっぷり十秒凝視し、私はずるずるとその場にへたりこんだ。『異常なし』という診断結果に安堵で力が抜けてしまった。自覚症状や心当たりが夢のお告げ以外皆無だった分、なにかあったら本当にどうしようかと。
やったねの気持ちで翌日の仕事帰りには、駅チカでちょっとお高いケーキを買った。前から気になっていたモンブランだ。トレーから零れるほどたっぷり重ねられたマロンクリームは錦糸のようで、指で軽く摘めるほどしっかりしている。クリームには砂糖が通常のモンブランの半分も使われていないらしく、少し口に含むだけで栗本来のまろやかな甘さと香りの濃厚さが伝わってきた。それだけだと和風な味わいだったが、中の生クリームや、さっくり焼きあがったしゅんわり溶けるような口当たりのメレンゲと一緒に食べると風味が一気に変わり、これまた美味しかった。ねえ、ところでなんだけどモンブランの栗っていつ食べればいいのか分からないよね。ショートケーキの苺は口の中をサッパリさせるためもあって最後に食べる一択なんだけど。皿に残ったツヤツヤ光沢のある丸っとした栗を口に運ぶ。シロップ漬けのもったり甘いそれをもごもご咀嚼しながら、途中で食べた方がもっと美味しかったかもと思った。味変的な。
いやぁ、とんでもない贅沢をしてしまった。贅沢すぎて胃が若干もたれているが。それでも満ち足りた心地で私はベットに入った。
はずだった。ふ、と目が覚め、瞬きをする。視界を占めるは真白い天井。そして隣に、人の気配。錆び付いた機械のような動きで首をぎこちなく動かす。
「……おはよ」
身動ぎの音で気が付いたのか、起き上がっていたどらどらちゃんがこちらを向く。絞り出された挨拶は、諦めたような声色をしていた。
「……なんで?」
異常なしって言ったじゃん。裏切られたような気持ちになり、挨拶も返さず愕然としてしまう。信じられなくて横になったまま零した呟きに、彼女は「私が聞きたい」と返した。疑念を隠さない目をじっとりと差し向けられながら、のろのろと身を起こす。
「VRCには行ったの?」
枕横に置いてあったカードの指示――『手を繋いだまま、見つめあいましょう』――を実行していれば、どらどらちゃんがそう聞いてきた。
「ブ、え、病院でしょ? 行ったよ、異常ないって検査結果だって今日きたし……」
ていうか私の脳なら知ってるだろう。ちゃんと有給とって検査を受けに行ったことも、結果無事健康体と分かったことも、ルンルンにモンブラン買ってそしてほくほくと眠りについたことも。「病院?」どらどらちゃんは訝しげに片眉を上げた。
「VRCじゃなくて? それじゃあ意味ないよ、異常なしって言われもするさ」
「え?」
「え?」
唐突に空気が止まる。なにかおかしい。いや、もうずっとおかしいけれど。彼女も異変に気が付いたのか、丸い瞳を線のように細めていた。
「……VRCってなに?」
「なにって……吸血鬼研究センター」
聞かぬは一時の恥。今更ながらではあるが尋ねてみたが、当たり前だろうと言いたげな困惑すら滲む声にちょっと脱力する。そうだった。この子、吸血鬼って設定のキャラなんだった。これは私の夢で、私が動かしているというのに、どうしてこう聞いたこともないような名称や設定がスラスラでてくるのだろう。溜息を吐きたい気持ちを堪え、とりあえずは彼女の世界観に合わせるかと言葉を探しながら口を開く。
「えー……と。つまりそこは『吸血鬼にとっての病院』ってことでしょ? 人間の私がそこに行っても意味はないと思うんだけど……?」
「絶妙にまったく全然違う。どうしてもあそこを病院扱いするなら『吸血鬼に関する病院』のが近いだろうし、そもそも吸血鬼は病気に罹ったりしない」
「はあ……」
何言ってるんだろう、この子。私のはっきりしない返事に、どらどらちゃんはますます目と眉の幅を険しく狭めた。繋がった手に少し力が加わる。
「……きみ、この前自分の周りには吸血鬼がいないと言っていたな」
「うん」
「じゃあ吸血鬼を見たことは?」
「ないよ」
「私みたいなのじゃなくてもだよ?」
「? ないけど……?」
「……いや。いやいやいや! 有り得ないでしょ、それは!」
頬を引き攣らせたどらどらちゃんにぐいっと距離を詰め寄られ思わず仰け反ってしまったが、彼女は気にも止めなかった。
「その辺を年中うようよしてるデカい蚊とか水場に住み着くスラミドロとか、吸血野菜とか、吸血鬼リンボーダンス各種派生を本当にただの一度も見たことないの?」
「なんて?」
冗談抜きでまじでひとっっっことも理解できなかった。心底からの困惑を示した私のシンプルな言葉を最後に沈黙が落ちる。目を見開いて石像のように硬直していたどらどらちゃんが「分かったぞ!」と急に指をパチンと響かせた。
「きみ、さては新横市民ではないな!」
「はあ?! そんなわけ――」
「オオゼンラニウム大行進、吸血鬼きみがえっちなことを考えると星を降らせるおじさん、野球拳大好き&Y談おじさんのイカレロYヤル!」
「ゼン、猥、えっ? は?」
「はいほらおかしい! 真の新横市民はそんなまともな反応はしない!」
我が意を得たりとばかりに勝ち誇った面持ちとなった彼女に「でも」と否定を口にする。だって私は生まれながら新横市民だ。小学校もこの土地だし、家族ぐるみで行きつけのお店だってあるし、地域外の友人には「ここは私の庭」と豪語してしまえるほどこの町を知っていた。それを伝えればどらどらちゃんは難しい顔つきになり、考え込むように口をへの字にひん曲げた。
「……じゃあアレだ。私ときみはそれぞれ別の世界線で存在しているんだな」
「……大丈夫かなぁ、私の頭」
「真面目に聞け!」
怒鳴られてしまったが、そっちこそ真面目に話してほしい。ラノベの読みすぎだ。……そんなの読んでないのに。
「これが一番しっくりくる説だろ。実際、烈さんが突然異世界転生してきたことだってあるんだぞ。それともなにか他の、もっと説得力のある推察が? 私の実体験に基づく説に勝るものが?」
「……これは私の夢で、今の状況は全部私の脳内で起こってることで……あなたは幻覚、とか」
「きみの頭大丈夫?」
美少女の憐れっぽい瞳は今までで一番心にきた。「どんな夢だ」という引き気味な追い討ちまで入れられ、つい項垂れたくなってしまった。が、一応まだミッションは継続中なため、寸前で耐える。
「まあここが夢の中なのはたしかにそうだろうさ。ただし片っぽの幻覚とかそんなんじゃなくて、これはお互いの夢だ。なんの因果かは分からんが、違う世界の住人である我々の夢が重なってしまったんだろう」
「お互いって、いや違う世界って……いやいやいや。そんなのあるわけないでしょ」
「……きみが幻覚説を曲げないつもりなら、私だってきみが私の幻覚説を推すからな」
「私は幻覚じゃないのに……」
「生憎ですが、それは私もですよ」
皮肉っぽく口角を上げる彼女に、彼女と出会ってから初めて胸の奥が燻るような苛立ちを覚えた。悔しさから年甲斐もなくムッと唇が尖る。そんな子どものような反応をみせた私に、彼女はせせら笑いを引っ込め、宥めすかそうとするかのようにやんわり眉尻を落とした。瞬きひとつで纏う空気ががらりと変わる。
「世の中にはにわかに信じ難いことだってあるものだよ。人間の常識では――あるいは自分の頭ではおよそ考えられないようなことが、ある日突然その身に降り掛かってくる、なんてことがね」
やさしい物言いは諭されている気分にされた。気分というか、多分、十中八九諭されている。彼女は『素直にこの異常を受け止めろ』と、物腰柔らかに圧をかけていた。だって私を真っ直ぐ穿いてくる瞳はなによりも雄弁だ。しかし彼女の態度は威圧的というわけでは決してなく、むしろ波風ひとつない静謐なものだ。そのせいか、彼女の言い分に異を唱えようという気はすっかり失せてしまっていた。混乱から薄く開いていた口を、静かに結んで閉じる。
訳のわからないことばかりだ。目の前がぼんやりとしてくる。なんだかもう疲れてしまった。知らない部屋に知らない子に、知らない単語。意味が分からないと、いったい何度思ったことだろう。
「ね。もう認めてしまった方が、きっとずっと楽だよ」
心を読んだみたい。タイミングと耳触りのいい甘言にそんなことを思う。一度は我慢した溜息が喉元まで上がってきたのを感じたので、私はとうとう疲れと諦念を織り交ぜた息を深く吐いた。
「……わかった、認める」
正直、彼女の説をまるっと信じきることはできていない。ただ自分の脳が作り上げた『夢』と言い張るには些かの無理が生じてきていることには、薄々心のどこかで勘づいてはいた。
諦めた私に、どらどらちゃんはにっこりといい笑顔を浮かべる。ちらりと覗いた八重歯に、そういえば吸血鬼と言っていたっけと少しドキリとした。血色が良くないのも吸血鬼だからなのだろうか。耳先も、よく見たら。じゃあ目が爛々と紅いのも――。『現実として受け入れる』ことに頭が切り替わりだしたのか、急に納得できるような要素が多くあるように思えてきた。我ながら現金な造りをしている。
「ていうか夢夢いってたけど、明晰夢にしては噛み合わな過ぎない? とか思わなかったの?」
「思ったけど所詮夢だしそういうものなのかなって……」
「言わんとすることは分かるって気持ちと正気かきみという気持ち。まあそっちの世界には吸血鬼自体存在しないようだし仕方ないとも言えるか……」
そう言って軽く肩を竦めた彼女は、やっぱりまだ年端もいかない少女にしかみえなかった。 およそヒトとは考えられないほどの規格外な美しさだとは、たしかに常々ひしひしと感じてはいたが。しかし――え、ほんとに、ほんっとに二百八歳なの? 外見と年齢が釣り合ってなさすぎる。態度はともかく。あんまり聞くのも失礼だし聞かないけどさぁ……。ふと歳上なんだから頑張らなきゃと息巻いていた過去の自分を思い出し、羞恥心が込み上げてくる。彼女はこの空回り女をどんなふうに見ていたのだろう。どう思われていたとしても恥。特になんの感情もなかったのかな。それはそれで恥ずかしい上に虚しいな……。
「にしてもまた長いなぁ。もう結構経ったよね?」
「一度見つめ合うのやめてみる? もしかしたら前みたいにいつの間にか指示が増えてるのかも」
それもそうだなと彼女が頷いたのを確認し、視線を外してカードを手に取る。カードには案の定文が増えていて目を眇めてしまった。睨むように文字列を目でなぞり――そのあまりにもな内容のせいで、私は二の句を継げることができなくなってしまった。なん、なんだこれ、ふざけ――はっ?
「……なに? どうしたの?」
「あっ――」
絶句しながら、見ていればまた内容が変化したりしないだろうかなんて馬鹿なことを考えていれば、手の中からカードが抜き取られる。カードを取り去ったどらどらちゃんは、文面を見て私と同じように顔を凍りつかせた。口の端がひくついて青筋が立っている。
「ついに来たなコノヤロー……」
「ついに?」
「なんでもないです」
とんでも指示は『キスをしましょう』。予想がついていたかのような呟きに眉をひそめて聞き返せば、彼女はぶんぶん首を横に振った。
「……なんか、注文の多い料理店みたい」
「! そ、そう、そういうこと、まさしくそれ! 私もそれが言いたかった!」
恋人、手繋ぎ、見つめ合い、そしてキス。指示がどんどんエスカレートしていっている気がする。抱いた既視感をぽつりと零せば、どらどらちゃんが相貌を輝かせる。世界が違くても伝わるんだ、これ。思いがけず見つかった共通点に自然と口元が綻んだ。
「もしかしたら最後は食べられちゃうのかも」
「食べ、あの、アレックス部屋でその言葉選びはちょっとあの、いや、えっと……あっ、う…………」
ブラックジョークのつもりでお話になぞらえて言ったのだが、どうしてか彼女は不自然に言葉を詰まらせた。もごもごとなにか言いかけてはやめ、を繰り返し、やがて目を逸らして「ソウカモネ」と蚊の鳴くような声を絞りだす。なにその反応。首を傾げる私を疲れたようにチラ見した彼女は、重々しい息を吐き出した。
「……もういいや、今のは全部忘れてください。とりあえずこれやろうか」
「え……え?! や、やるの? これって、これ――え?!」
「え? うん。だってこなさないといつまでも起きられないし。じゃ――」
「待っ、いやでもキ、え、きす、えだってキス、キスだよ?! キス、え、どらどらちゃん知ってるかなキスって!」
「知ってるが……?」
純朴無垢な顔には『何言ってんだ』と如実に書かれていた。平然としすぎている彼女に思わず言葉を失くす。ぁ、そうだった二百八歳……い、や。いやでもえっキスはさすがに――。
出し抜けに、右手が持ち上がるふわりとした感覚がした。見ればどらどらちゃんの手によって指先をやさしく包まれている。いきなりなんだと呆ける私の手を自身の口元まで運んだ彼女は、なんの躊躇いもない流れるような動作で手の甲へと唇を落とした。
「……あー、やっぱり私だけがやるんじゃダメなのか」
それは、息遣いを感じる暇さえないほどあっという間の出来事で。軽いリップ音を鳴らしたあと唇は直ぐに離れ、握られていた手も静かに放された。
「場所の指定もなかったし、位置は問題ないと思うんだが」
しかしそれでも、一秒にも満たない短いリップ音は過剰なほど私の鼓膜へとこびりついていて、音の余韻がぐわんぐわんと脳内で反響しているような気がした。いまな、え、なにえ、この子、私、えっ。え? え??
「……あの、大丈夫?」
「ッ、ァ、え?! うん、ジョブ、だい、へいき!」
「だめそう」
突然目の前に現れたひらひら動く手に驚いて、キョンシーのように上がりっぱなしだった右手がビュンと大きく跳ねた。跳ねた勢いのままその手を顔の横で待機させ、目を見開いて肩で息をする。予期せぬ衝撃のせいで呼吸を止めてしまっていた。心臓が喉まできている、苦しい、痛い、耳がキンとする。
「だめそうなところ大変心苦しいんだけど、多分きみからもしてもらわないとダメだと思うんだよね。……お願いできる?」
「えっいやむりアッうそちがわかっ、わかっかっかっ、カッ、あ、う――ッオッケーまかせて!!」
「だめそう」
顔のすぐ目の前に差し出された彼女の手を、震える両手でそっと支える。口をギュッと固く引き結んで歯を力強く食い縛り、一瞬――本当に一瞬だけ、彼女の手の甲へ唇をつけた。すぐに首を後ろに折る勢いで素早く顔を離し、触れていた手も放り投げるようにして放す。適当された自身の手を、どらどらちゃんがちらりと横目で見る。乱暴してごめん、ごめんでもあの、ちょっともうほんと限界なので。
ゴリゴリに削れた精神を自分で慰めていれば、どらどらちゃんが口元を手で覆い、「ふぁ」と控えめに欠伸をした。
「ん、どうやら無事達成できたようだね、よかった」
「う、うん、ね、よかった……私もちょっとねむくなってきた、かな……」
「うん……ところで、つかぬ事をお伺いしますが」
「はい」
「きみ、恋人いたことある?」
「…………おやすみなさい」
「はい、おやすみ」
都合のいいタイミングでやってきた眠気を有難く思いながら、瞼を下ろす。返ってきた含み笑い混じりの声に色々と察されたことを察してしまい、目を閉じたまま口内を軽く食んだ。きみの十分の一程度しか生きてないんだから別にいいでしょう、いたことなくったって。
目を覚まし現実に戻ってきてもそんな不貞腐れた気持ちはしっかり残っていて、とてもいい目覚めとは言えなかった。
back
>>HOME