この世界に来てからの私の生活範囲は、この職場と居候先ぐらいだ。必要最低限の買い物以外は休みの日も出掛けない。

元の世界へ帰る手段を探すのは太宰さんに任せきりになっているが、
この世界の事も知らない、特別な力もない私では何の手がかりすら掴めないだろう。
なるべく彼に迷惑を掛けないようにこの世界での生活を成り立たせる為、私が此処で働く時間はまちまちだが比較的長い。
慣れない接客に四苦八苦するが、最近ようやく板についてきた。それに働いていると気が紛れていい。

小さいお店なので常連客の顔以外にも、いつも注文するメニューも覚えてきた。


見慣れた常連客に声を掛け、注文を確認する。


「いつもの、ですよね?少々お待ちください」

中原様は短く返事をして、いつもの席に座る。

「手前、目の隈ひどくなってねえか?元々顔色は良くねえが……」

彼はあの出来事以来、気にしてくれているのか、話掛けてくることが多くなった。


「その、……最近、眠れなくて、……」

正確にはこの世界に来てから、寝つきも眠りも悪くなっている。自覚はしているが、如何しようもない。
太宰さんの家は決して狭くはない。その家にずっと一人きりでいるのはなかなか堪えた。見知らぬ旅先で急に一人で泊まることになったような不安感がまだぬぐえないのだ。



「……そうか、あんま無理すんなよ」

「ええ、お気遣いありがとうございます」

その日はそこで会話は終わり、あまり気にもしていなかった。



□■□■□■




「えっと?……これは、CD、でしょうか?」

当たり前だろ、と呆れたように云いながら中原様は珈琲に口をつける。
見た目からして音楽CDなのだろうが、いきなり差し出され、困惑する。


「前に眠れねえ、って云ってただろ。……そいつは手前にやるよ」


思わずきょとん、としてしまう。遅れて彼がこの間の会話を覚えていた上に気にしてくれていたことに驚く。
じわじわと、むず痒いような、照れくさいような、気持ちが湧き上がってくる。

この人は本当に ――

「ありがとうございます。早速、今日聞いてみます」

おう、と返事をした彼はもう新聞を読み始めていた。
小さく会釈をしてカウンターに戻る。あの夕暮れ時と同じで心が軽くなるのを感じた。帰るのが楽しみなのは元の世界に居た時以来かもしれない。


急ぎ足で帰った家で、いつもより早めに寝床についた。

中原様がくれたのはどうやらオムニバスCDのようだ。ゆったりとしたバラードが優しく私の耳を打つ。


(……眠れるような曲を選んでくれたんだ)

通う喫茶店の一店員でしかない私にこんな気遣いをしてくれたことに胸が温かくなるのを感じる。
眠る時に考えるのはいつも元の世界のことばかりだったが、
ぽっかりと胸に穴があいたような寂しさを、耳を傾けたバラードが埋めていってくれるような不思議な感覚に身を任せた。

だんだんと、いつもより早く訪れる、優しいまどろみに、


―――― 何故か涙がこぼれた気がした。



夜明けへの処方箋



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