最初にその女に感じたのは違和感だった。
行きつけの喫茶店で新しく雇われたらしいその女ははっきり云ってしまえば、頼りなく弱々しい印象を受けた。
だが、まるで世界から切り取られたように浮かび上がって映るその姿は強烈な違和感が残った。


ただそれだけで、あの時までは俺にはそれ以上の興味もわかなかった。


女が一人、橋の前を通り過ぎる。


ほのかに色づきはじめた夕日に照らされながら、ゆっくりと歩みを進めるその姿はまさに幻だった。

たとえるなら絵画に切り取られた夢のワンシーン。

あの程度の美人ならいくらでもいるが、その独特の雰囲気はそうはお目にかかれない。どころか、人間相手には初めて見た。

巨匠が己が才能と人生をかけて描いた美しい抒情画のような、それはまさしく完成された一つの世界として存在していると云っても過言ではなかった。

繊細でありながら、漂う神秘的な雰囲気は鮮烈なまでの印象を目に焼き付けるのに、それは此処に本当に存在しているのかと思わず確かめたくなるような、触れたら消えてしまうのではないかと思わせる何かがあった。

だから、その完成された女の世界に無粋にも声をかけ割り込んできた男に、そしてそれに不躾に触れようとしたあの男に、ただ腹が立った。
それは大事に展示されている美術品を不用意に荒らす輩に苛立つのと同じ感覚だ。他意はねえ。


だから、ただ一人の客としてではなく俺だけに向けて云われた言葉に胸がざわついたことは、目に焼き付いて離れない夕暮れに照らされた姿も、
――― きっと夕日が魅せた幻だ。



だが、それから時折、俺の視界に入ってくるソイツをつい目で追ってしまうようになった。

観察すると頼りねえと思った印象はどうやら顔色の悪さからきていたようだ。日に日に濃くなっている目の隈を無視できず、聞いてしまった理由は自分でもわからねえ。


自分でも妙だった。
何故今、俺はレコード店でわざわざあの女の為にCDを選んでんのか。
ただ行きつけの喫茶店の女店員でしかないあの女を、こんなにも気にかけてんのか。

(……アホらし)

思い直して、売り場から離れようとするが、目の隈を指摘した時の困った表情を思い浮かべると、踏みとどまり、結局買ってしまった。


――― らしくねえ。
あの女に逢ってからそんなことばかりだ。いや、正確にはあの夕暮れの日からおかしかった。



□■□■□■



あれからみょうじとは予想外に親しくなった。

意外と常識がなくて世情に疎いが、感性は悪くない。要するに趣味が合った。
紹介した音楽や映画に対する反応や好み、意見は中々に気が合い、此方とはまた違った見方も出てきて、みょうじとの会話は小気味よく弾む。


今では仕事で時間が空くと、ついあの喫茶店へと足を運んでしまっている。

それは仕事にも何のしがらみもなく付き合える奴で、気が合うからだ。
ただそれだけで ―― 

無意識にあいつの目元に触れたのも他意はねえ……はずだった。


「ああ!くそ」
喫茶店を出て思わず舌打ちをする。らしくねえ。

礼を云う、柔らかな照れた表情がまだ頭にこびりついている。
ついおざなりに返事をしたのは、うろたえてしまったからだ。
自分でも不思議なくらい、みょうじに対してわざわざCDを見繕ったことといい変に優しい、そしてせつない気持ちになる。


あいつに触れた右手が熱いと思うことも、
この男物の傘に妙に苛立つことも、

――― 全部、気の迷いには出来ないところまできていた。




染まりゆく筆先はとめられない



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