お迎えに上がりました グランドラインへ入る。そう言い残しわたしの前を去ったナミさんが牢屋に来なくなって、おそらく数日が経ったと思う。ここを訪れる中でわたしに日付やどれくらい日数が経ったかを教えたくれていたのはナミさんだけだったから。 相変わらず待遇が良くなることもなく、むしろナミさんと言うストッパーがいなくなったせいでより酷くなり、体調は悪化の一途を辿っていた。 「おいっ!! 今日のノルマが終わってねぇとはどういう事だ!!」 「す、すみま……せん……」 牢屋のコンクリートの壁すら壊しそうなくらいの勢いで怒鳴られる、わたしの様子を見に来た魚人の人に頭を下げて謝るけど、前髪を遠慮無しに掴まれて、無理矢理顔をあげさせられた。掴まれた前髪からはぶちぶちと髪が切れているのかそれとも抜けているのか、嫌な音が耳に届いた。ただでさえ艶もハリ失った髪はさぞかし切れやすいだろう。 「謝れば済む問題じゃ無いんだよ。お前なんかを生かしてるのは、その刀鍛冶としての腕があるからだ。それが無けりゃあ、お前なんて生かしておく理由は無いんだよっ!!!」 「ゥグッ……!!」 今度は頭ごと、ヒレのついた大きな手で掴まれて、壁へと叩き付けられた。 叩き付けられた衝撃は、背中から徐々に苦痛を全身へと広がり、最後には肺を圧迫する。 「ゲッホ、ウェ……」 「きたねぇっ!! コイツ吐きやがった」 胃の中から喉元までせり上がった異物は、独特の酸っぱい匂いと味を織り交ぜ、口の中から外へと吐き出された。牢屋全体に吐瀉物の匂いが充満する。口の中に溜まっている胃液が、舌と鼻を刺激し、喉元は不自然に大きく開閉している。 わたしが吐くとは思わなかったんだろう。魚人の人達は数歩後ずさり、気持ち悪い虫でも見るような目でわたしを見てきた。そんな目で見るなら暴力を振るわないでほしい。暫く気持ち悪そうにわたしを見続けた後、自分で言うのも嫌だけれど、わたしと言う名の虫を見ているのも飽きたのだろう。踵を返し牢屋の出口へと向かった。 「とにかく、今日のノルマは終わらせとけよ。今日は大事な客が来る日なんだからよ」 (客?) 口の中に纏わりつく胃液のせいで、言葉にすることは出来なかったけど、去りゆく魚人達の大事な客と言う言葉だけが、妙に耳に残ったのだった。 ◇◇◇ 四方八方をコンクリートの壁で覆われた、窓すらない牢屋は、昼なのか夜なのか判別は全くつかず、時計すらないせいで、自分でも自覚するほどに私の体内時計は狂い始めていると思う。 負傷した身体の痛みを、なんとか動かして刀を打つ。時折、葡萄が潰れたように、手の豆の潰れる感触が気持ち悪い。痛みも同じくらいあるけど、直ぐに悪魔の実が傷口をすぐに塞いでくれるおかげなのか、元の世界よりも明らかに傷の治りが早い。だとしても、すぐに新たな傷が出来るから、あまり意味がないとも言える。 これきっとあと残るだろうな。付き合ってる人もいなければ、結婚する予定もないけれど、一応嫁入り前の体なんだけどな。 絶え間なく不調を訴える体を叱咤しながら、目の前の刀を造る専用の玉鋼に槌を振るう。 今、わたしがやるべき事は刀を打つことしかない。ここでわたしが刀を打つ事を止めたら、アーロン達はわたしに村の人達に危害を加えると、脅しをかけてくるに決まってる。 「ナミさん……」 悪い方へと思考が行きかけるたびに思い出すのは、元の世界の事と、グランドラインへと向かったナミさんの事だけだった。 グランドラインと言うのは本でしか読んだことは無いけれど、海賊の墓場とも言われている所らしい。そんな所にナミさんが行って、無事で帰って来れる保証なんて無い。今ナミさんは何をしているだろうか、ちゃんとご飯は食べているんだろうか? まるで母親のような事を考えてしまう自分に苦笑いが零れる。 疲労と体の不調を誤魔化したいがために動いているような思考は、様々な事を思い出す。 特に元の世界での日々は、今となっては、幻の中にでも居たかのような錯覚すら覚える。 現実と夢の狭間で揺れながら、無心に槌を振るい、火にくべていると、カツンカツンと言う、固いコンクリートの床を歩くときに鳴る、革靴やヒールなどの、底の固い靴特有の音が聞こえてきた。 魚人達は基本皆柔らかい素材のサンダルだったはず……。魚人じゃ無い。 いつもとは違う人の気配に、一旦作業を止めて、鉄格子の向こうへと神経を研ぎ澄ます。自分の心臓の音だけが耳に響く中、現れたのは意外な人物だった。 「なんで」 現れたのは青と白を貴重とした、清廉潔白を現したような真っ白なコートを肩にかけた海の番人だった。 「海軍の方が……」 予想すらしていなかった人物の登場に、驚きを隠せない。本で見たけど、私の世界同様こちらの海軍にも地位が存在し、普通の海兵ならセーラー服を模したもの。だけど今目の前に居る海兵の方は、それこそ正義と言う汚れない重みのある文字が書かれたコートを羽織っていた。この人はある程度高い地位にいる海兵の方だ。 だけど何故だろう……この人からは、正義とは真逆の雰囲気を感じた。 「ほう、これがあのかの有名なアカツキ・イッセンの孫娘か」 呆気にとられて、目の前の海兵の方を見上げる事しかできないわたしの耳に届いたのは、耳も疑うような言葉だった。 「なんでわたしの事……」 海兵の人達がわたしの事を知っている筈がないんだ。この世界で戸籍──この世界に戸籍という物が存在するかは謎だけれど、少なくともこの島から出たことのない、わたしの素性を知っているのは、トウシンさんとナミさん……そしてアーロン一味しか知らない。もしこの海兵の方が知っているなら、それは────。 「知っているとも。アーロン達から聞いたからなぁ」 チチチと言うネズミが鳴くような笑い声を発した海兵の方の言葉に、絶望が全身から力を奪って行った。わたしの世界で言うなら正義を司る警察と、善良な市民を脅かす犯罪者が繋がっていたようなものだ。 この海兵には助は求められないどころか、わたし達の助けは握りつぶされる。 牢屋にはひどく不快な笑い声だけが木霊し始める。 「チチチ! 哀れなもんだなお前も、一億五千万ベリーを集めている女も」 絶望に支配され、考えることを放棄し始めた頭は、一億五千万ベリーを集めている女と言う聞き捨てならない言葉にだけは、頭と体をすぐさま覚醒させた。瞬間湯沸かし器のように、怒りが一気に頂点まで達し、疲労と痛みで限界を迎え始めた足は、自分でも驚くほどの勢いで鉄格子まで迫り、鉄格子の間から腕を伸ばし海兵の方の襟首を掴んだ。 「この……外道っ!! ナミさんに……ナミさんに何するつもりですかっ!!」 掴みあげた手をそのままに、激昂する。自分の中にこんなにも怒れる感情があるだなんて思わなかった、それくらい目の前の人が許せなかった。 何も知らないくせに、ナミさんがどれだけ優しくて、ココヤシ村の人達がどれだけナミさんを大事にしているか、何も知らないくせに!! だけど、目の前の海────いや、こんな人海兵なんかじゃない。目の前のネズミのような人は、汚らしい物でも見るように忌々しげにわたしの事を見ると、器用にわたしが襟首を掴んだと同様に鉄格子の間から足を伸ばし、わたしの腹を蹴りつけてきた。 こういう所は流石海兵と言うべきか、強く腹を蹴りつけられて、襟元の手は無理矢理離された体は床に激突する。つい数時間前に胃の内容物を吐き出したおかげか、吐くことは無かったけれど、腹部の引き攣るような痛みは治まる事は無い。 少しでも痛みを和らげようと腹部に両手を置き、カメのように丸まる。その間にも魚人達とネズミ帽子の人達の会話は続く。 「クソ! 汚い手で触りやがって。アカツキ・イッセンの孫だからと言って遠路はるばる来たと言うのに、なんだこの小汚い餓鬼は!」 「すみませんね。まだ躾が行き届いていないもんで」 「さっさっと言う事を聞くようにしておけ。ただでさえ海軍ではヒノデ・イッセンの血縁は何故か極秘扱いされている。このおれでさえ見つけ次第即刻保護と言われているくらいだ。それだけこいつには何かしら隠された秘密があるはずだ。まあおれは、そんな金になる価値があるか分からないような秘密より、目先のこの餓鬼が造る刀の方がいいけどな。チチチ」 ネズミ帽子の人の言葉は、意識を保っているのが辛いほどの痛みの中で、聞き漏らさないように努めていた耳にしっかり入り、さらなる絶望の中へとわたしを攫って行く。 海軍がわたしを狙っている。馬鹿なわたしでも分かる。わたしが違う世界から────お祖父ちゃんが違う世界から来たという事を知っているんだ。 布に垂らされた墨汁が広がるように、わたしの心は真っ暗になった。 いつの間に帰ったのか、わたし以外の誰も居なくなった牢屋は、夜の帳を思わせるような静けさで、殊更わたしに孤独を植えつけた。一切の音を消し去った牢屋で響くのは、情けない自分自身から発せられる嗚咽だけだった。 「なんで……」 帰りたい帰りたいと願っても、叶えてくれる神様なんて居なくて、嗚咽だけが響く牢屋の中で夜は更けていった。 異変が起きたのはその日の朝だった。異常とも言えるほどに体がだるくて、体の内側が鍋が沸騰するように熱い。体はまともに力が入らず、指先一本すら動かすのがキツイくらいなのに、じっとしている事自体が辛いから、少しでも痛みを和らげようと体を揺する。 「おい! いつまで寝てんだ、仕事の時間だ。とっとと起きろ!」 恐ろしい魚人の声が聞こえるけど、応える気力さえない。ぼんやりした頭は、自分が何をしているかすら分からず、考える事を全て投げ捨てていた。 いつまでも寝たままのわたしに痺れを切らしたのか、怒りに任せるように牢屋の扉を開けて中に入ってくるけれど、床で燻っているわたしを見て溜息を吐いたのが聞こえた。 「こりゃダメだな」 ダメとはなんの事だろう。今度こそわたしは死ぬんだろうか。それならそれでと思うあたり、本当に終わりなのかもしれない。 一通りわたしを見た後、何も言わず静かに出ていった魚人を見ることも出来ず、体のだるさに促されるように静かに目を閉じた。 その後は一度食事を運ばれたけど、寝たまま食事もしないわたしに、食事を持ってきてくれることもなくなった。もっとも、あれを人が食べる食事とは言いたくないし、食事をする気力も体力ももう残ってない。 日に日に起きてる時間の方が短くなり、段々と体の動かせる部位が少なくなる。特に死という終わりが迫っているのが明確な形となり始めたのは、体の痛みが無くなり始めたことだった。 もう少しで死んでしまうかもしれないというのに、頭は変に冷静で、怖いくらいだった。あれほど生きたいと思ったのに、諦めるときは何とも呆気ないものらしい。 冷たい床の上で、じっと、あと数日で訪れるであろう死を待っていた私のもとに訪れたのは、天使でも、はたまた死神でもなかった。 「お────しっ────……おい! しっかりしろ!」 (だれ……?) 聞こえてきたのは、芯の強い男性の低い落ち着く声だった。 一瞬、わたしの迎えは映画のような可愛い天使ではなかったのか……なんて、どうでもいいことを考えたけれど、わたしの体を抱く、生きている人独特の温かさと、体を掴む痛いくらいの力強さに、わたしはまだ死んでいないのだと分からせられた。 「聞こえてんのか! おいっ!」 わたしを抱いている人が必死に声をかけてくれるけれど、返事を返す体力も無かった。相手の声が段々切羽詰まってきているのが分かる。目が霞んでよく視えないけど、わたしを助けに来てくれた人なのかもしれない。でもきっと、わたしに生きる力はもうない。 水を飲ませてくれようとしているのか、口元に冷たい物を添えられて、薄く開いた口に水が少しずつ注ぎこまれるけど、それすらも飲む力も残ってない。喉を通らず口の中に溢れかえった水が、だらしなくも口の隙間から重力に従って流れ落ちる。 「クソッ! ダメか……っ!」 もういいです。もういいです。わたしの事は見捨てて下さい。 心の中で、私のことを必死に助けてくれようとしている人に心の底から謝罪する。本当にもういい……ここで助かったとしてもアーロン達からの支配からは逃れられない。そして元の世界に帰ることもできない。本当わたしはなにをしてるんだろう。 きっとわたしを助けてくれようとしている人も諦めるだろう。そう思って、再び暗い意識の海に思考を投げ出そうとした時────、 「んんっ……!!」 口の中に無理矢理流し込むように入ってきた大量の水に、投げ出しかけた意識は、無理矢理現実へと繋ぎとめられた。 さっきとは違い、今度は水が零れないように、口全体を何か生暖かい柔らかい物で塞がれ、後頭部も力強く押さえつけられているせいで、水を吐き出すことも出来ない。体に力も入らないせいで、抵抗することも出来ない。水筒でも口に直接突っ込まれているのかとも思ったけど、だったらこの口を覆う温かい物はなんだろうか。考える事すら放棄し始めていた鈍った思考では、考えなんて纏まる事は無く、ただされるがままに口の中に注ぎ込まれる水を、少しずつ飲み込むことしかできなかった。水を飲むこと自体数日ぶりだった体は、枯れ切った砂漠に、久しぶりの雨が降るかのように体の奥底まで浸透し、ほんの少しだけわたしの体を癒してくれた。 「────ッよし。今ここから連れ出して病院に連れてってやる。あと少しだけ踏ん張れ」 遥か彼方から聞こえてくるような声に返事を返すことは出来ない。相手も返事が返ってくることは期待していなかったのか、返事を待つこともなくわたしを横向きのまま抱き上げた。突然の浮遊感に、ここ数日まともに動けなかった体は気持ち悪さを訴えたが、吐くものを全て吐き尽くした体は、特に何の反応も示さなかったけれど、ナミさんの事がココヤシ村の事が、トウシンさんの事が思い出される。 やめて 降ろして ナミさんがみんなが殺される やめて わたしを ────助けないで 声にもなっていないかもしれない、必死に動かした手は男の人の服を触るくらいしかできなかった。わたしを抱えている人は歩みを止めないどころか、更に歩みが早くなった気さえする。 牢屋から出ちゃいけないとか、助かっちゃいけないとか、色々な事はアーロンパークから外に出てきた時に静かに溶け落ちてしまった。 人工の光ではない太陽の、目が焼かれるんじゃないかと言うくらい強い光、そして荒みきった肌の上を踊るように過ぎていく潮風、鼻孔を擽る海の匂いに乗って、一緒に訪れる人が居る事を示す様々な匂い。 わたしはまだ生きている。 強く実感すると同時に、さっきまで背後に迫っていた死が怖くなり、目の前にぼんやりと佇む『生』にどうしようもなく縋り付きたくなった。 嫌だ、やっぱりまだ死にたくない、死にたくない。わたしの気持ちが届いている筈がないのに、まるでわたしの想いに応えるように、牢屋から連れ出してくれた人は、わたしを抱く腕に力を籠め、急き立てられるように走り始めた。 生きたいと願っても、自分の意思とは反して重い瞼を止める術は無く、最後にわたしを助けてくれた人を記憶に焼き付けたいと思って、靄がかかったようなぼやけた視界の中で見えたのは、太陽の逆光の中でも鮮やかな色を身に着ける、緑色の不思議な髪色だった。 【 章一覧|TOP 】 |