帰るその時まで抗いなさい

 夢を見ている。幸せな夢を。
 テーブルの周りにはお父さんもお母さんもお祖父ちゃんもみんな居てお母さんが作ったご飯を食べてる。学校にはみーちゃんも居て、同級生も居てみんなで行った修学旅行の沖縄……凄く楽しかった。すごく綺麗な海だった、ココヤシ村と同じように……ココヤシ村? わたしの住んでいる所はココヤシ村と言う名前じゃない。
 場面は修学旅行から変わって、次は教室になっていた。学校机を挟んだ向かい側には担任の先生が難しい顔で座っている。ああ、これは……進路相談の時だ。わたしは何の仕事に着くんだろうか、わたしがなりたいのは、本当になりたいのは。
 目の前の先生が霧の様に歪み始めて、体が宙へ浮くような感覚に身を任せると、少しずつぼんやりとした風景が目に写る。頭は起きているのに、体はわたしの物じゃないかのように動かない。まだ完全には覚醒しきらない頭は、熱があるのか、ぼんやりとしていてまともに機能しない。夢か現実かすら認識できない頭で、ぼーと少し黄ばんだ色をした白い天井を見つめていると、徐々に今までの出来事が映画でも見ているかのように、次々と映像として流れ始める。全ての映像が流れ切った後、他人事のように見てきた映像が、わたしの身に起きた事なのだと認識した瞬間、言いようもない歓喜と恐怖が身体を駆け巡った。

「────生きてる……」

 生きてるんだ。死んでない。久しぶりに聞いた自分の声は、カスカスで酒焼けしたようなしゃがれ声になっていた。
 一度生きていると実感したら、あとはわたしの意思とは関係なしに、大粒の滴となって涙が流れるだけだった。止まることのない涙は、顔の輪郭を通り耳に溜まり始める。徐々に鎖でつながれたように動かない体の拘束が取れ始め、点滴の針が刺さってない、白い包帯で肌が見える部位が無い左腕で目元を隠す。
 嬉しさからくる涙なのか、安心感からくる涙なのか、それとも何故まだ生きているのだろうと言う、恐怖心からくる涙なのか、止めどなくあふれる涙の理由は自分でもわからない。
 生きたいと願ったのは嘘じゃない、なのに今こうして生きている事を実感すると、これが本当に正解だったのか分からなくなってくる。わたしはアーロン達から逃げたという事になってしまうんだろう。そしたらココヤシ村の人達は、ナミさんは、なによりわたしは一体どんな罰が待っているんだろう。
 考えれば考える程に嫌な事しか浮かんでこない。わたしはいつからこんなに後ろ向きな性格になってしまったんだろう。昔からポジティブとまでは言えなかったけれど、それでもここまで酷くは無かった。
 どうしていいかも分からないし、自分自身の感情のコントロールさえできない。暫く久しぶりに肌に感じる布団の温かさと、体を優しく包み込む掛布団の柔らかさに身を任せていると、慌ただしい足音が聞こえてきた。

「ヒノデッ……!!!」

 数か月ぶりに聞くその人の声は、わたしの感情の枷を外すのには十分過ぎるくらいだった。

「トウシンさんっ!!」

 起き上がろうとした体は、全身を稲妻のように駆け抜けた痛みのせいで、直ぐにベッドに沈んでしまった。起き上がることすらもできない体に、まるで自分の体が自分のものではないように思えて、指先から体が冷たくなっていく。
 力が入らない。
 駆け寄ってきたトウシンさんは、動けないわたしに気付いたのか、ゆっくりと衝撃を加えないようにわたしの体を起き上がらせてくれた。

「意識が戻ったんだな! 良かった……!!」
「トウ、シンさん……トウシンさんも無事でよかった……」

 上半身だけトウシンさんに支えられながら、トウシンさんの無事な姿を見て、自然と感情の波が、高く大きくなってわたしに襲い掛かる。津波のように押し寄せてきた感情の奔流に身を任せるように、馬鹿みたいに涙をぼろぼろ零しながら、弱々しい両手でトウシンさんの手を握りしめながら縋りつく。

「よか、ほんとうに、よかった……っ! わたし、わたしっ!」

 考えも言いたいことも纏められなくて、自分でも何を言っているのか分からないけど、それでもただただ、トウシンさんの無事な姿をまた見られたことが嬉しくて堪らなかった。もう二度と会えないんじゃないかと思っていたから。
 壊れたラジオのように、暫く会話にもならない単語を言い続け、トウシンさんに縋りついたまま泣き続けたわたしは、傍から見たらさぞかし滑稽に映っただろう。

「すみま、すみません……トウシンさん」
「いや、いいんだ。この四か月近くよく耐えてくれた。だから、もういいんだ、ナミとヒノデは自由になっていいんだ」
「自由?」

 自由になっていいというトウシンさんの真意がつかめず、熱に浮かされた体で必死にトウシンさんの言った言葉を理解しようと、頭が働き始める前に、突然押し付けられるようにわたしがこの世界に持ってきた唯一の、学生鞄代わりのリュックを渡された、と同時に、少しだけ色の剥げた茶色いトランクも渡される。

「ヒノデ、お前が初めてこの島に来た時に居た場所に小型だが、船を用意してある。ナミもこの島に帰ってきてる。それにナミは海の事もよく知っているし、女のナミとヒノデ二人なら乗れる。それと──」
「ちょ、ちょっと待ってください!! 船って、ナミさんとって……一体」

 心の奥底を虫が這っているかのようにざわざわと、不快で、それでいて不穏な予感が、じわじわと体を侵食していく。

「──……ワシらはアーロンと戦う事にしたんだ。奴ら最初からワシらを解放する気も、ナミのことを手放す気もなかったんだ」
「あの、それってどういう……」

 体を蝕む痛さも忘れて、トウシンさんの言葉に聞き入ってしまう。当たってほしくない予感が、ふつふつとマグマのように湧き上がってくる。牢屋での記憶が蘇ってくる。まさか、いやでも。
 膿のように浮いて出てくる嫌な予感はきっと当たっているんだろう。嫌な予感ほどよく当たるとは先人の方たちもよく言ったものだと思う。きっと魚人達と海軍の人達で手を組み、ナミさんに何かをしたのだ。
 問うべきかどうか迷っている間にも、トウシンさんは悲痛な面持ちで話を続ける。

「すまないヒノデ、ワシらは知っていたんだ。ナミがアーロンの一味となった理由を。このココヤシ村を一億ベリーで買おうとしていたことも」
「……知ってたって……ならなんで!!」

 ナミさんに対してあんな態度だったんですか。喉元まで出かかった言葉は、トウシンさんの悲壮感漂う表情を見て、つばを飲み込むように奥へと引っ込んだ。

「ああ、すべて知っていたんだ。ナミがワシらの為にアーロンの仲間になったことも、独り孤独に戦っていたことも。だからこそわしらも耐え忍ぶ戦いををしようと思った。生きるために。なにより、ワシらを助けようとしてくれているナミの為に。村の皆がナミにあんな態度をとっていたのは、ナミにワシらの期待を気付かせてはならないと思った。そして……あんな態度をとっておいたほうが、ナミが逃げたいと心から思った時に、ワシらの事なんか考えずに逃げられると思ったんだ」

 初めて明かされる、トウシンさん達の今日までに至る八年の苦悩に、後悔と懺悔が雪崩となってわたしを飲み込もうとする。何も、何も知らなかった。わたしはこの村の表面しか見ていなかったんだ。なのに、あんな、あんな、ナミさんを追い込むような真似……。
 壊れるくらいに脈打つ心臓は、わたしをより一層攻め立てる刃となる。

「だけどこれ以上は我慢できん。ナミを騙すアーロン達も、海賊に味方する海軍にも……だからナミとヒノデだけは逃げてくれ、逃げるんだ……。二人はよく頑張った。これ以上苦しむことはない。リュックの中はヒノデがこちらに来た時に持ってきたものを全て入れておいた。トランクの中には海での旅に必要なものと、お金を少しだけだが入れておいた。ワシはこれから村の者たちとアーロンパークに行ってくる、なに安心しろ、病気で体も筋肉ももろくなっているとはいえ、ワシも元は海賊のはしくれだ」
「そんな、まって、待ってください……」

 口からこぼれる落ちる声は、なんとも情けない色を含んでいた。
 止めるべきなのに、トウシンさんの覚悟を決めた眼を見ると何も言えなくなってしまう。死を覚悟した人の目というものは、こんなにも濁り一つない湖のように澄んでいて、儚く美しいものなんだろうか。
 何も口にすることの出来ない哀れなわたしを、トウシンさんは優しく抱きしめてくれた。

「ヒノデ……たった数か月だったがヒノデと過ごせてよかった。血は繋がっていなくてもヒノデはワシの大事な家族だ。海に出ても元気にやるんだぞ」

 最後に惜しむように強く私を抱きしめたトウシンさんは、名残惜しそうに背中に回していた腕をゆっくりと離し、一度わたしと向き合うと、立ち上がり背を向けてしまう。その背中は言葉にしなくても分かるくらいに、わたしを突き放していた。

「負けるんじゃないぞ、ヒノデ」
「まって!! まってくださいトウシンさんっ!!!」

 久しぶりに上げた大声は、想像以上にわたしの喉に負担を強いたのか、咽込んでしまった喉は、口の中へと血を吐き出した。広がる血独特の鉄分の味に、吐き気がこみ上げてくる。
 わたしが一人咽込んでいる間にも、トウシンさんはアーロンたちのほうに向かったのか、姿が見えなかった。まるで掴むことの出来ない霧のように、わたしの前から姿を消してしまったトウシンさんは、もう二度と会うことも、言葉を交わすこともできなくなるようで、昔味わった一番悲しい記憶がリンクして、わたしの胸の内をどろどろに溶かしていく。

「い、や……いやだっ……トウシンさん……どうし、よう……」

 助けに行かなければ、止めなければ、早くしろともう一人の自分がわたしに叫ぶ。なのにわたしの体は動くことすらできない。動くことが出来ないのか、それとも動くことを拒んでいるのか──もしかしたら最低なことに、わたしは内心ほっとしているのかもしれない。逃げることを許されたことに。もう二度とあんな怖くて痛くて惨めな思いをしなくてもいいことに。だって今のわたしには何もできない、歩くのがやっとかもしれないわたしに戦う事なんて到底できやしない。
 次から次へと浮かんでくる、逃げることを肯定しようとする言い訳は、止めなくてはいけないという良心と、逃げてもいいという邪心が、ミキサーに入れられたようにぐちゃぐちゃに混ざり合って、気が触れそうになる。

「なんで、どうして、こうなるの……!!」

 自分の声すら聴きたくなくて、布団の上で頭を抱えて蹲る。その時布団の上に置いてあるリュックについている緑色のお守りが目に入る。

「これ……」

 緑色のお守りは神社のお祭りの時に受験を控えているからって、みんなで買ったんだ。人から受け取ったお守りが良いとかなんとか聞いて、それでみんなで別々のお守りを買って渡し合ったんだ。わたしのお守りはみーちゃんが選んでくれた。
 あの日常が忘れられない、忘れるなんて出来ない。ここで逃げ出すのが一番だという事も分かってる。その方がまだ元の世界に帰れる確率は高い。
 でも本当にそれでいいの? このまま逃げ出したとしてその後 トウシンさんの事、ココヤシ村の人達の事、なにより、わたしの事まで背負わせたナミさんの事を忘れて生活していける? 笑って生きていける? 
 このまま壊れてしまうのではないかというくらい脈打つ心臓部分の服を握りしめた。逃げても地獄、戦っても地獄、待っているのはきっと、どちらも地獄だ。噛み締めた口から嗚咽が漏れる。誰かに教えてほしい、どうすればいいのか、答えを教えてほしい。
 こんな決断できない、重すぎる。わたしにはこんなの選べない。

「だれか、たすけて……」

 両手を握りしめた祈りながら言った、自分の言葉に、ふとナミさんの顔が浮かび上がる。そう言えば、ナミさんがわたしみたいな弱音を吐いている所は見た事ない。初めて会った時も、海で助けて持った時も、アーロンパークの時も、ナミさんは一度たりとも弱音は当然ながら『助けて』なんて言葉一度も聞いたことなかった。いつも、いつも、わたしの事を気にかけてくれて、優しかった。きっとナミさんはこの島から出ないはずだ、それどころか多分……いや、絶対もう一度アーロン達の下に戻ってココヤシ村を救うために頑張る──頑張ってしまうはずだ、短い付き合いでもわかるナミさんはそんな優しい人なんだ。
 ナミさんもココヤシ村の人達も、トウシンさんもみんな優しい人たちだ、その人たちを見捨てて一人でのうのうと生きていけいない、生きていけたとしても二度と笑うことなんて出来ない。

「しっかりしろ、助けるって決めたでしょ」

 恐怖で震える両手を離して、ガーゼと包帯塗れの自分の顔を軽く叩く、痛みが手にも顔にも走ったけれど、意識を保つにも覚悟を決めるにも丁度良い。中も外もボロボロのわたしだけれど、多分このまま逃げたら絶対後悔する。ナミさんを一人にはさせられない。
覚悟は決めた。あとは──能力を使うだけ。
大丈夫、大丈夫と、何度も自分に言い聞かせ、左腕に刺さっている点滴の針をあまりに視ないようにしてゆっくり引き抜く。針を吹いた場所からは血がにじみ出ていた。意識を左腕の針の痕に集中させる、そこから血管の中へ、そして血液に遺伝子全てに願う。

(お願い、使えて)

 ゆっくりと、だが確実に小さな針の後から血液が少しずつ流れ出てくる。

(いける……こい!!!)

 体全体に力を籠めると、ゆっくり流れ出てた血液は勢いよく小さな針の後から飛び出し、わたしの前で集まり、ふよふよと水の様に漂いながら形を変えている。

「お願い、わたしと一緒に頑張って」

 祈るように、両掌を差し出すと、血液はゆっくり形を変えてわたしの両手に武骨な形の紅い剣へと姿を変える。

「ありがとう」

 正直まだ自分の力と言う気がしなくて、人の力だと思ってしまう。いつか自分の力のように使える日が来るのかすら分からない。でも、今はとりあえずこれでいい。

「行こう。せめて、最後は皆と居なくちゃ……」

 点滴のおかげか少しだけ体が軽い、プラシーボ効果の可能性が高いけど、少しずつゆっくりと、体を動かし病院の床に足を降ろす。
 立てるか……。
 ずっと寝たきりも同然の体が立ち上がってくれるかは分からない、ベッドのふちに剣を持っていない方の片手をかけて、慎重に立ち上がる。床の形をかみしめるように立ち上がった体は、久しぶりに立つ地面に痛みが走り、うまく自分の事を支えきれず、右側に倒れそうになったけれど、床に剣を突き刺すことでなんとか転ぶことだけは回避する。床に傷をつけたのがドクターに申し訳ない、あとで謝らないと。
 壁に立てかけられていた松葉杖を左腕で使い、亀の様に遅い足取りだけれど一歩一歩足を踏み出す。その度に痛みが走る。だけどわたしなんかよりもナミさんの方が今絶対痛いはずだ。

「ナミさんを一人にはさせられない」

 病院から出るだけでフラフラだし、体の熱に、痛みに、今すぐにでも座り込みたい、なんだったら意識だって飛ばしたい、だけど地面を這いつくばってでも進んで見せる。見届けなくちゃ、行かなくちゃいけない、わたしだってここの村の住人なんだ。
 なにより、わたしはナミさんの友達だ。
 それにこんな所で逃げ出すようじゃ元の世界になんて帰れない、この世界はきっとそういう世界だ、泥水を啜ることになったとしても、どれだけ惨めな思いを味わったとしても、元の世界に帰るその日まで、足掻き続けてみせる。
 歯を食いしばり、一歩一歩お祖父ちゃんがわたしに与えてくれた能力の力を借りて、わたしはアーロンパークに歩を進めたのだった。


prev|-11/31-|next

章一覧TOP

ALICE+