偉大なる航路へ

 まず女部屋へと戻ったわたしは、ずぶ濡れで、しかも弾痕まである服を脱いでいた。血は全部体内に戻ったのか、服には全くついていなくてそこだけは心底安心した。流石に自分の血液だとしても見てて気分のいいものではないから。ナミに手当てと着替えをしてくるよう、念を押すように言われて着替えてるけど、改めて目の前でTシャツを広げて思う。まさか自分の人生の中で弾痕の穴の開いている服を見るなんて思わなかった……。わたしの服だけど。
 雨で濡れて冷えてしまった体をタオルで拭いて、服同様びっしょりと雨を含んで濡れている包帯も全て外して見た新しい肩の傷に、首の後ろがひやりと冷たいものが走る。

「う、わ……もう治りはじめてる……」

 アーロンパークの傷も温かい布団で寝て、サンジさんのこちらの体は気遣いつつも栄養満点の料理のおかげか、常人ではありえない早さで治り始めているけれど、まさかついさっき撃たれた傷まで通常ではありえない早さで治り始めていて、傷跡に触れた指先がじんっと痺れる。そもそも骨折してるという実感もいまだにわかない。
 いくら悪魔の実と言えど、ここまで体に変貌をもたらされる様をまざまざと見せつけられると、やっぱりまだ恐怖の方が安堵を上回る。この世界で無傷で居るのがどれだけ難しい事か知っているから、恐怖を覚えてはいけないとは思っているけれど、元の世界に帰った時、自分の体は他の人と同じで居られるのか……そんな恐怖がいつも小さく胸の底で暗く渦巻いている。
 もう一度撃たれた部位を見ながら、傷跡を覆っている血液を体内へと戻して、表面だけ消毒だけしてもう一度血液で傷跡を絆創膏のように覆って、一応能力者と一目では分からないように包帯を巻いてから服を着る。治りが早いとはいえ油断は禁物だ、致命傷を追えば死んでしまう……そこだけははき違えないようにしないと。怪我になれてしまって油断して死んでしまったらそれこそ事だ。
 途中で雨に濡れないように雨合羽をかぶりなら、皆さんが集まっているラウンジに向かう。自分の能力の便利さと、危機意識が薄くなる危険性を胸の内に留めながら、ラウンジのドアを叩いた。

「しつれいしまーす……」

 小さく声をかけながらラウンジへと入ると、ちょうどこれからの事に関して話していたのかもしれない、テーブルの上にある地図に注目するような形で、各々好きなところに立っている皆さんに、タイミングが悪かったかな? と不安になるけれど、声をかけてしまった手前今更女子部屋に帰るわけにもいかずに右往左往していると、ナミに「ヒノデ」と名前を呼ばれてナミの隣に向かう。

「話の途中じゃなかった?」
「大丈夫よ。ちゃんと怪我の治療してきた?」
「うん! ちゃんと治療してきたよ。治療とはいっても、消毒して包帯巻くくらいしかできないけど」
「それよね……一度ヒノデの傷も医者に診せたいし」

 考え込むように顎に手を当てるナミに、旅に余計な負担を増やしいる気がして、喉が締め付けられているみたいに苦しくなる。ドクター曰く、ちゃんと栄養と睡眠をとっていれば傷の治りは今よりももっと早くなるらしいから、今は旅の方を優先してほしい。

「ナミ、そんな気にしなくても大丈夫だよ? ココヤシ村で治療も受けたし、それにサンジさんの食事もすごく美味しくて栄養たっぷりで、前よりも傷の治りは早くなってるから」
「そう言ってもらえると嬉しいよヒノデちゃん」

 煙草を口から外しながら笑みを向けてくれるサンジさんに、わたしも小さく笑って返す。

「だからそんなに急がなくても大丈夫だよ。今は旅の方を優先してもらって、わたしの傷は時間があるときでいいよ」
「そういう問題じゃない。私が気にしているのは傷の治りもだけど、その傷跡が残ることもだから。女の子なのよ! もっと気にしなさい」

 鼻先に指を向けてきたナミに、うーんと考える。もう傷跡が残ることが確実なのが結構あるから諦めの方が強いんだよね。なによりわたし以上に皆さんの方が気にしていて、逆に変に冷静になっちゃてるんだよね。

「そもそも、その傷は何? 誰にやれられたのよ」

 ついに一番聞かれたくないことを聞かれて、うっ……と口ごもる。助けを求めるようにゾロさんを横目で見るけれど、自業自得だと言わんばかりに顔を逸らされた。

「えっと……これは、う、撃たれた?」
「「「「撃たれたァ!!!!?」」」」

 ゾロさんを抜く三人から叫ぶように驚かれて、耳を両手で覆う。絶対今から追及される。怒られる。

「撃たれたって何よ!?」
「う、うーん……なんでだろう?」
「ふざけてるのヒノデ……!!」

 壊れそうな勢いで両手をダイニングテーブルに叩きつけながら、ナミが眉尻をあげて怒り狂っていた。何よって言われても本当に分からないんだよね。

「物捕りとかならまだしも、何の理由もなく撃たれるってことはないと思うよ」

 サンジさんが厳しい目つきで煙草の火を灰皿に押し付けながら言う。理由……理由か。あるとしたら、わたしが違う世界から来たって事だけだけど……。どうだろう。わたしがこの世界の人じゃないっていうことは、トウシンさん、そしてどこまで知っているかは分からないけど海軍の人達、そして生きているならトウシンさんと同じくお祖父ちゃんの海賊のお仲間の人達……お祖父ちゃんがお仲間の人達に事情を知っているならだけど。
 考え込み始めたわたしに皆さんの視線が突き刺さる。考えられるとしたらそれだけなんだけど……じゃあ、あの人は海軍? でもそんな感じはしなかった。あの人はもっと──そう言えばあの人誰かに。

「路地裏に誘い込まれて撃たれたみたいだぞ」

 もう少しで何か掴めそうだと、記憶の糸を引き手繰り寄せようとする前に、落ち着いた声が耳に入ってきて、捕まえようとした記憶の糸は煙のように形をなくしてしまった。声に導かれるように考え込んでいていつの間にか下を向いていた顔を上げると、さっきまで黙って様子を見ていたゾロさんがわたしを静かに見つめていた。

「だよな」
「う、はい。そうです……」

 促すように声をかけられて、小さく頷く。突然話に入ってきたゾロさんに、わたしに向いていた視線は今度はゾロさんに集中した。

「どういうことゾロ」
「こいつが襲われてる場面を見たからだよ」
「襲われたァ!!?」

 この世の終わりのような表情をしてサンジさんが上から下までわたしを見る。ハンカチがあるならハンカチを咥えて引きちぎりそうな勢いだ。なんでそんな顔して──待って、もしかして襲われたの意味勘違いしてる?
 慌てて両手を横に振って否定する。とんでもない勘違いをされていて、顔に熱が集まる。

「ち、ちがいます! 襲われたというのは、拳銃で撃たれたという意味で」
「そっちも問題だろ!」
「それは、そうなんだけど……」

 もっともなツッコミがウソップくんから入るけれど、まさか襲われたの意味を勘違いされてるとは思わなくて……ゾロさんも紛らわしい言い方しないでほしい。恨めがましくゾロさんを見るけど、おれは悪くないとでも言うように目を閉じられてしまった。無視しないでほしい。ゾロさんの言葉が発端なのに。

「ってことはちゃんと倒してきたんだろうな、ゾロ」

 倒してきて当然、と言う口ぶりでサンジさんがゾロさんに目を向けると、ゾロさんは所在なさげに頭をかいた。

「おい、お前まさか……」

 いつも喧嘩をしているが、倒せて当然という信頼を寄せていたんだと思う。サンジさんの表情が一気に険しくなる。

「逃がしたのか!?」
「仕方ねェだろ!! 爆発に巻き込まれたんだよ!!」
「あのサンジさん、ゾロさんはわたしの事を守ろうとして、わたしが足を引っ張って……それで仕方なく」

 どうどうと、サンジさんを落ち着かせようとするが、お二人の喧嘩はヒートアップするだけだった。もう他のみんなは慣れっこなのか、お二人の事を無視して話を続ける。

「爆発って、悪魔の実の能力者か何かだったのか?」
「ううん……そんな感じはなかったけど」
「ってことは……計画的かもな」

 名探偵よろしく、顎に手を当てながら推理するウソップくんにつられて、ルフィくんも顎に手を当てて考えていたけれど。

「う〜ん……考えても分かんねェな」
「あの、ごめんなさい……」

 皆さんの頭を悩ませていることに、謝ることしかできなくて、情けなくなって身が縮こまる。早速皆さんの旅に暗い影を落としているような気がして、胸の内を暗いものが支配し始めた時、ルフィくんの力強い手がわたしの背中を叩く。

「気にしても仕方ねェよ。またそいつが襲ってきたらおれ達が守ってやりゃいいじゃねェか! 仲間なんだからよ!」

 な! と、暗い気持ちを吹き飛ばす、空へ向かって伸びる向日葵のような元気あふれる笑みに、暗い気持ちが晴れるような気がして、ルフィくんの笑みにつられて頬が上がる。
 そういえばわたしルフィくん達の仲間になるってことだよね? なんと言うか自分でもその場の勢い感はあるんだけど……。ローグタウンでの一件はもちろん、さっき一緒に樽割っちゃったていうのもあるし。あらためて言った方がいいんだよね……? すでにルフィくんがわたしのこと仲間って言ってるけど。夢を叶えたいというのももちろん本心だけど、元の世界に帰りたいのも本音で……。どう伝えればいいか分からない。
 どうしよう……。仲間にしてください、と言っていいのかどうか、今更なのは分かっているけれど、色々な考えが浮かんでは消えて、仲間になっていいのかわからなくて気持ちにブレーキがかかる。
 自分の優柔不断さに自己嫌悪に襲われている間にも、今はまだ相手の目的が真意も分からないということで、また襲ってきたらその時はその時、と言うなんとも軽い決定がされてしまった。原因のわたしが言うのもなんだけどそんな軽い感じでいいのかな。

「だからヒノデも気にすんな」
「でも……」

 一切わたしを迷惑がってなさそうなルフィくんだからこそ、余計に負い目を感じて胸がキリキリと痛みを帯びる。皆さんと目を合わせることができないわたしにゾロさんの厳しい声が飛ぶ。

「全員がいいって言ってんだ、これ以上気にすんな。うっとうしい」
「おい、クソマリモ……そもそもはお前がちゃんと倒しとけば済んだ話だろうが!!」
「だから爆発に巻き込まれたって言っただろうが! もう忘れたのか? この素敵眉毛!!」
「誰が素敵眉毛だコラァ!!!」

 わたしそっちのけで再び喧嘩をし始めてしまったお二人に、さっきまでの暗い雰囲気は離散し、話題はどうやってグランドラインに入るかへと変わった。ゾロさんにその気はなかったのかもしれないけど、いつまでもうじうじと考え込んでしまうわたしには、ゾロさんの竹を割ったような言動がありがたかった。

「とりあえずヒノデが襲われた件は、今考えても仕方ないもんな。目の前の問題に集中しようぜ。それでナミ、船で山を登るってどういうことだよ」
「え……この船って山に登る機能が付いてるの?」

 物理法則を完全に無視しているような摩訶不思議なことを言うウソップくんに、呆れたような表情をしてたのかもしれない。「おれが言ったんじゃねェ!」と怒っているウソップくんに、ごめんね。と謝ってナミを見る。

「船で山を登るって……船に足とか生えるの?」
「気色悪いこと言わないでヒノデ。今説明するから」
「ごめん。でも……それくらいしか想像できなくて」
「どんな想像だよ」

 だってそれくらいしか山を登る想像できないだもん。ウソップくんの言葉にちょっとだけむっとしながら、ナミの指示通りにテーブルに広げられている海図に目を向ける。皆さんの中で一番知識が少ないわたしは一言も聞き漏らすことがないように、ナミの説明に耳を傾ける。覗き込むようにしてナミが指し示した海図の部分に視線を落とす。

「"導きの灯"が差してたのは間違いなくここ“赤い土の大陸レッドライン”にあるリヴァース・マウンテン」

 地図には小さくわたし達が立ち寄った島、ローグタウンが載っていて、ローグタウンを少し進むと、地図を半分に割るように赤い土の大陸──レッドラインと書かれた太い線のようなものがある。トウシンさんが天まで届きそうな高さの大陸があると言っていたけれど、この海図に描かれているのがそのレッドラインかな。元の世界で言う赤道に近いんだとおもうけど……でも赤道は地図上に書かれた線でしかないのに、この世界では地図上の線ではなく、世界を一周して真っ二つに分けるような塀のような大陸になっているらしい。この世界で自分の常識がいかに矮小か思い知らされる。この世界は元の世界とは違うとは思っていたけど、改めてココヤシ村を出て世界の違いを自覚する。この世界は元の世界以上に海が世界の全てであり、この世界を支配する絶対的存在なんだと思い知らされる。そもそもわたしの世界の地球と同じ大きさなのかも疑わしい。元の世界も海が七割を占めているけれど、この世界は海が七割と言うレベルすら超えている気がする。
 更には地図にはわたし達が今から入ろうとしているグランドラインが、レッドラインを跨ぐようにして十字路のように描かれている。不思議だ、改めて見ても元の世界と全然世界の構造が違う。語彙力が無いにも程があるけど、不思議としか言いようがない。こんなに海が世界の大半を占めているとは地図を見るまで思わなかった。好奇心よりも恐怖の方が遥かに大きい。こんなに海ばかりでこの世界は大丈夫なんだろうか。
 様々な疑問が浮かぶけれど、今はどうやってグランドラインに入るかが問題だった。

「何だ、山へぶつかれってのか?」
「船が大破する未来しか見えないですね……」
「むしろそれ以外の未来はねェよ」
「いいから聞きなさい。ここに運河があるでしょ」

 再びナミが指し示した場所をゾロさんと一緒に見ると、確かにレッドラインとグランドラインの境目に運河が描いてある。分かりづらくはあるけど運河は確かに描いてあった。だけど運河が描かれているは言え――。

「運河!? バカ言え、運河があろうと船が山を登れるわきゃねぇだろ!!」

 そう、運河で山は登れないはず。
 ウソップくんの当然ともいえる言葉に続くようにそれぞれ意見を出し始める。

「だってそう描いてあんだもん」
「そうだぞお前ら、ナミさんの言うことに間違いなんてあるかァ!!」
「そりゃバギーから貰った海図だろ!? 当てになるかよ」
「この海図そんなに信憑性の低い人から貰った海図なんですか? ゾロさん」
「そうだな。海賊から貰ったのだしな」
「へ、へぇー……」
「山登んのか船で!! おもろーっ!!! "不思議山"か」

 貰ったって本当かな? 海賊が海賊に海図なんかくれるかな? 海賊世界の事はよくわからないけれど、ゾロさんの発言も失礼ながら信憑性が薄い。わたしを含めて、皆さんが皆さん好き勝手に運河を登ると言う、摩訶不思議な現象について意見を出しあう。

「だいたい何でわざわざ"入口"へ向かう必要があるんだ。南へ下ればどっからでも入れるんじゃねェのか?」
「確かにそうですね……入口っていう事は検問とかもありそうですし」

 入口から入る事などないと言うゾロさんの意見に賛同する。グランドラインに入るのに、わざわざ山を船で登るなんて言う非現実的な事をしなくても、グランドライン自体には左右にレッドラインのような遮る大陸があるわけではないのだから、別にレッドラインをわざわざ越えなくても、横からグランドラインに突入してもいいような気がするんだけど。

「それは違うぞお前らっ!!」
「そう、ちゃんとわけがあんのよ」

 こちらを指差しながら、ナミの言っているレッドラインを越えなければならない理由が分かっているのか、ルフィくんが少し怒りながら声を上げる。
 やっぱり船長だからナミの言っている事の理由が分かるんだと、尊敬の念を抱いていたら、ルフィくんの口から出てきたのは全然そんな理由じゃなかった。

「入口から入った方が気持ちいいだろうが!!!」
「違うっ!!」
「そっち!?」

 気持ちがいいからと言う感情論に吃驚する。確かに入口から入った方が気分はいいかもしれないけど、バカかお前ってルフィくんは言ってるけど、わたし達とそんなに変わらいと思う。だって気持ちいいからと言う理由なんだもん。
 多分ルフィくんは自分の言っている事を理解してくれたと思っていたんだろう、期待を裏切られたからなのか、それともナミによる頬を一発殴られるという暴力的すぎるツッコミもどきのせいなのか。あの、ルフィくん船長なのにそんな扱いでいいの? 海賊ってもっと殺伐しているようなものなんじゃ。

「おい!! あれっ!? 嵐が突然止んだぞ」
「本当だ、静かになってるね」

 わたし達が意見を出し合っている時に、外の様子を見ていてくれていたウソップくんとサンジさんの言葉に耳を澄ましてみると、確かにさっきまで煩かった外の雨風が全然聞こえなくなっている。窓まで寄っていてウソップくんの隣から外を覗いてみると、聞こえ来なくなった風の通り、やっぱり嵐は止んでいた。

「さっきまで凄かったのに何で急に」

 驚いている間にも、ルフィくん達は気分よく甲板に出ていく。なんで? どうして? と部屋の中で考えていても答えは見つからないので、慌ててルフィくん達を追ってラウンジから甲板下に繋がる階段が付いているルーフバルコニーに出ると、さっきまでの激しい嵐はすっかり鳴りを潜め、風一つすら吹いていない。海が凪いでいるとは言うけれど、まさにその通りだった。

「おーっいい天気だーっ!!
「どういうこったこりゃー」
「はっはっはっはっはっはっ!!」
「こんな事ってあるの……?」

 ルフィくん達が楽しそうにしている声を背に、どうなっているのか状況を把握しようと船尾の方にも向かうと、まるで空を一直線に線引きで引くようにして、わたし達が居る側と、元々わたし達が船で進んでいた側で真っ二つになるように天候が変わっていた。

「……不思議。こんなことがあるなんて」

 もう本当に不思議としか言いようがない。これ以上の言葉が見つからないくらいにこの世界は未知と疑問で溢れている。元の世界に居たら一生経験できない物だっただろう。
 感心するようにこちらと全く正反対の天気の地平線を眺めていると、甲板の方からナミの焦った声が聞こえてきて急いで船尾から踵を返して甲板に向かう。

「どうしたのナミ!!」
「ヒノデ! 私達“凪の帯カームベルト"に入っちゃったのよ!! 早く嵐の軌道に戻さなくちゃ!」
「“凪の帯カームベルト”??」 
「何あわててんだよお前、漕ぐってこれ帆船だぞ」
「何でまたわざわざ嵐の中へ」
「いいから言うこと聞け!!!」
「ナミちょっと落ち着いて! どうして嵐の中に戻るの?」
「そうだぞ、せっかくこんなに晴れてるのに」
「あ、ゾロさん」

 大慌てで怒る姿に皆さんと一緒に当然ともいえる疑問をなげかける。そのあいだにもナミは苛立ちと焦りを滲ませながら、わたし達とは別のもっと、なにか恐ろしいものが見えているようだった。後から甲板に出てきたゾロさんがルフィくんやウソップくん、わたしの意見に賛同してくれた事で、火に油どころか、ガソリンを注ぎ込む形になったようで、ゾロさんを指差しながら、いつまでも暢気なことを言っているわたし達でも理解できるようにナミは分かりやすく説明してくれた。

「今この船はあんたがさっき言った通り、南へ流れちゃったの!!」
「へェ、じゃあ“偉大なる航路グランドライン"に入ったのか?」
「それができたら誰でもやってるわよ!!! “偉大なる航路グランドライン”はさらに二本の海域にはさみ込まれて流れてるの!! それがこの無風の海域“凪の帯カームベルト"!!!」

 カームベルトと言う言葉の名に恥じないレベルで、波は優しく水面の上を撫でているだけで、船の揺れも少なくて足を踏ん張って歩かなくてもいいくらいだ。 ただ風が一切吹いていないのは、ゴーイングメリー号的にはまずいんじゃないのかな。この船当然だけどモーターとかついてないよね。慌てた様子でルフィくん達の居る一階の甲板に降りるゾロさんとナミを追うように階段を駆け降りるけれど、降り立ったと同時に、ドオオオンと言う爆音と共に船を大きな揺れが襲う。

「うわっ! 何だ地震か!!」
「バカここは海だぞ」
「噴火とかじゃないよね……!?」

 地震かとも思ったけれど、確かに今わたし達が居るのは海の上、波が左右に揺れる事はあっても、上に突き上げるような振動が来るはずはない。それこそ海底火山の噴火とかでなければ。
 慌てて甲板の真ん中に建っているメインマストにしがみ付いていると、音と揺れの原因が姿を現して、全員言葉を失くす。

「でか………!!!」

 かろうじて声を出したルフィくんの口を塞ぎたくなる衝動を抑え、悲鳴を上げそうになった自分の口を両手で塞いで、喉から出かけた悲鳴を喉の奥に押し込む。
 姿を現したのは、東京ドーム何個分ですか? とでも問いたくなるような、色とりどりの巨大な生き物達だった。

「海王類の……………巣なの、大型のね……」
「なるほど……だから慌ててたんだね……」

 蛇なのか、魚なのか、それともわたし達の世界の有名な怪獣映画のような風貌の生物まで居て、魚に属するのかどうかも疑わしい。ここに来てやっとナミがどうしてあんなに慌てていたのかが理解できた。数秒前まで暢気に何故レッドラインを越え無ければならないのかなんて言っていた自分を怒りたい。
 立ち上がることも出来ず、ナミと共にメインマストにしがみ付いている間に、ルフィくん達は巨大なオールを構えていた。あれで漕ぐ気なんだろうか、こんな大きな船を人力で。そもそも帆船とは人の手で漕げるのかどうかすら分からないし、わたしが一緒に漕ぐと言っても足を引っ張る気しかしないから、これ以上邪魔にならないように、ジッと貝のように動かないでいる事が一番みんなの邪魔にならない方法だろう。
 いつ漕ぎ始めるんだろうかと身構えていると、船体が突然前方に少し傾いたと思ったら、白黒模様の怪獣のような海王類が鼻先にゴーイングメリー号を乗せていた。そのうえタイミング悪く、その巨体を前方に揺らしながらくしゃみをした。してしまった。
 くしゃみはくしゃみだが、くしゃみしているのはゴーイングメリー号の数十倍の大きさの海王類なわけで……。

「なにいいい〜〜〜〜〜〜っ!!!?」

 くしゃみの勢いでゴーイングメリー号は青空へと舞い上がり、船に乗っているわたし達は船から体が離れて更に上へと舞い上がった。今度こそ悲鳴が口から出るのを抑える事を出来ずに、無様にも悲鳴を上げながら宙を舞う。だけど、いつまでも悲鳴を上げたままではいられない。急いで何かをつかまろうと、独特の浮遊感に恐怖で目を瞑りたい衝動にかられながらもシュラウドを掴もうとするけれど、空中に浮いているという状況で思ったように体を動かせるわけもなく、シュラウドの紐を掴もうとした手は無常にも空を切った。
 慌てて両手を使って空中で藻掻くけれど、シュラウドには指先すら触れることができない。焦っている間にも、体は徐々に船から遠ざかって下には海王類と、群青色の陽の光を浴びて輝く海面が口を開けて待っているような錯覚を覚える。
 あ、これ、駄目だ。半ば諦めが脳裏をかすめた時、力強く右手首を引かれて、引かれた方を見るとゾロさんが必死そうな表情で腕をつかんでいた。

「ボケっとしてんな!!」
「ゾロさん!!」

 船に引き戻すように手首を引っ張られた。手首を引っ張られた勢いのままに、そのまま片腕が背中に回って雨でぬれた冷たい体に抱きとめられる。

「捕まってろ!!!」

 合羽のフードが脱げて、ゾロさんの濡れた服越しに焦りを帯びた心臓の音を微かに聞き、力強い両腕に抱きしめられたまま殆どぶつかるような形で再び甲板に着地する。わたしに衝撃が来ないようにゾロさんが背中から甲板にぶつかったのが、抱きしめられた体ごしに振動として伝わり、頭上で聞こえてきた呻き声に、慌ててゾロさんの顔を覗き込む。

「ゾロさんすみません……!! 怪我は──」
「怪我はねェ、それよりマストにしがみ付いてろ!!」

 片手を掴まれてマストにしがみ付くように導かれて、これ以上迷惑をかけないように慌ててメインマストに両手でしがみ付く。顔を上げるとカームベルトはわたし達を休ませる気はないのか、今度は船を飲み込めるくらいの大きさのカエルが口を大きく開けたままこちらに飛んで来ていた。

「わ!! カエルが飛んできたぞ!!」
「ふり落されるなァ!!!」
「ウソップが落ちたァーーっ!!」
「ウソップくん!!」

 振り落とされないように恐怖に震えている間にも、カエルは誰を食べるか目星をつけたのか、船からふり落とされたウソップくんをその大きな口の中へと導こうとしていた。寒気が首筋から背中へと駆けおりた。

「ウソップーーーーっ!!!」

 間一髪、ルフィくんの腕が食べられる寸前だったウソップくんの体を掴んで船に引きずり戻す。
 ゴーイングメリー号は海王類のくしゃみの勢いのままに海王類の背中を滑り台みたいに滑り落ち、加速した勢いのままに凪の帯から抜けて、元の嵐の中へと戻ることが出来た。あの場から抜け出せたのは運がいいとしか言いようがない……。最悪、グランドラインに入る前に海王類の餌になって全滅になっていた。
 合羽を着ているにもかかわらず、再び濡れねずみに逆戻りしながら、皆さんと同じように地面にへたり込む。

「……よかった……ただの嵐に戻った……」
「これでわかった? 入口から入る訳」
「ああ……わかった……」
「うん……分かった……ごめんね、理解できてなくて」

 未だに体の震えが止まらない、雨のせいだけではなく冷や汗で体がびっしょり濡れている。こんな体たらくでよく一人でグランドラインに入るなんて言えたと思う。想像力も知識も何もかも足りなさすぎる。
 風と雨が体を激しく打ち付ける中、呼吸を整えていると、ナミが何か閃いたのか声を上げる。

「やっぱり山を登るんだわ」
「まだいってんのか、お前そんな事」
「ゾロさんの言う通り山を登るのも危険だと思うんだけど……」

 カームベルトであれなのだ、山を登るなんてもっと怖いに決まってる。またあの恐怖を好みで体験するのかと思って指先がじんっと冷たくなる。

「海流よ、四つの海の大きな海流が全て、あの山に向かってるとしたら。四つの海流は運河をかけ登って頂上でぶつかり“偉大なる航路グランドライン”へ流れ出る!!! もう、この船はその海流に乗っちゃってるからあとは舵次第」
「なるほど……じゃあ、“偉大なる航路グランドライン”に入ろうとする船はみんな一つの入り口からスタートするしかないんだ。つまり途中から“偉大なる航路グランドライン”に入って、道を短縮することは出来ないってこと……?」
「そう!」

 確かにそうだ、もしグランドラインに入るのにわざわざレッドラインを登らないで良いのなら、世界を一周しようとする船で進むべき航路の長さに差が出てしまう。上手くできているというか何というか、一筋縄では進ませないという事か。
 グランドラインと言う名前に相応しい難易度と言うか、意地の悪さだった。

「リヴァース・マウンテンは“冬島"だからぶつかった海流は表層から深層へもぐる。誤って運河に入り損なえば船は大破――海の藻屑ってわけ…分かる?」
「ははーん! 要するに“不思議山”なんだな?」
「……凄く危険と言うのだけは、なんとか」
「まあ、わかんないでしょうけど…」
「ナミさんすげーぜ!」
「何も分からなくてごめんね」

 呆れたように言うナミに、謝罪の言葉をしか出てこない。正直トウシンさんの所で航海術の本は読んだけれど、全編英語のせいで元の世界から持ってきた辞書と英語の教科書で日本語に訳しながらだったから、専門的な言葉も多くて苦労した記憶が蘇る。苦労しただけで殆ど理解できなかったけど、

「聞いたことねェよ。船で山越えなんて」
「おれは、少しあるぞ」
「サンジさん知ってるんですか?」
「まあね」
「不思議山の話か?」

 ゾロさんの質問にサンジさんは口元に少し笑みを浮かべ、意地悪そうな口調で言葉を続ける。その表情からいい話ではないだろうな……と身震いする。

「いや……“偉大なる航路グランドライン"ってのァ……入る前に半分死ぬと聞いた。簡単には入れねェとわかってた」
「そういえばトウシンさんもそんなこと言ってました……やっぱり半分はその、亡くなっってしまうんですね」
「そうみてェだ。入るだけで命がけってわけさ」

 トウシンさんに聞いた時も思ったけど、二分の一の確率で死ぬって一体どんな入口なんだろう。船が山を登るという時点で凄くおかしい現象だとは思うけど。
 これからの旅に胸の底がひんやりと冷たくなった気がした。不安を落ち着かせようと胸元を握り締めて気持ちを落ち着かせようとしている間にも、船は“赤い土の大陸”へと進んでいく。ルフィくんの嬉しそうな声と、さっきのカエル事件で気絶したままのウソップくんが目を覚ましたのは同時だった。

「不思議山が見えたぞ!!! バカでけェ!!!」

 楽しそうな声に促されるようにして前方に目を向けると、眼前に広がったのは正に偉大と言う言葉が似合う、赤い土で出来た巨大な壁とも言うべき大陸だった。その偉大さは逆にこの先の海がどれだけ過酷であるものかという事を、偉大さと威烈さをもって証明しているようだった。
 喜んでいるルフィくんの言葉とは裏腹に、わたしの胸の内を巣食ったのは、驚喜や感嘆以上の恐怖と畏怖だった。
 だけど怖いから、恐ろしいからと言って立ち止まっている余裕も時間もない。きっと一度でも足を止めてしまったら、その場からわたしは動けなくなってしまうから。

「本当に海が山を登ってやがる…」

 レッドラインの方に意識が向いていた視線を、ゾロさんが見ている方向へ向けると非現実的な光景が眼前に現れた。

「運河の入口だァ!!!」
「凄い……本当に海が“赤い土の大陸レッドライン”を登ってる」

 例えるならネズミのキャラクターが看板を張っている、夢の国の最後に水を被るジェットコースターのようなものなのだろうか。あっちは水の下にレールが敷いてあってそこをモーターで走っているようなものだけれど、こちらは違う──人の手が一切加えられていない正真正銘の天然ものだ。元の世界にあったのなら確実に世界遺産の一つとして登録されていただろう。
 恐怖と畏怖の気持ちをごまかすように、目の前の自然が生み出す光景への感動で上書きしようとしていると、ルフィくんの焦った声が耳を突く。

「ずれてるぞ! もう、ちょっと右!!! 右!!」

 よく見るとルフィくんの言うように船は右に進路が少しずれ始めているみたいで、グランドラインに入る船乗り達を歓迎しているかのような、十本ほどある精巧な模様が彫られた年季の入った門に向かって船は突き進んでいた。
 操舵室に走っていき、舵を操っているウソップくんとサンジさんの方を見ると、丁度船の進行方向を操る要の舵が二人の力に耐えきれずに、半分に折れてしまっていた。あれって折れちゃダメな物なんじゃないのかな。

「ぶつかるーーーーーっ!!!」

 眼前に迫った門になすすべなく、船が大破して海に放り出されるか、船が大破したとき泣きこまれて死ぬのを待つしかないかと思って、どうしていいのかわからなくて身構えていたら、さっきまで近くに居たルフィくんが船の外に飛び出していた。

「ルフィくん!? 海に出たら……!!!」

 吃驚してデッキの手摺に向かおうとすると、ルフィくんのトレードマークの麦わら帽子を投げ渡されたゾロさんに二の腕を掴まれて止められる。

「大丈夫だ」

 でも! と反論しようとした時、ルフィくんの威勢のいい声が聞こえてくる。

「ゴムゴムの……風船っ!!!」

 船外に飛び出したルフィくんの胴体は、その言葉通り大きく風船のように膨らんで、船と門の間に挟み込まれてしまったけれど、そんな事気にしないかのように船が門とぶつかるのを防ぐクッションとして回転しながら回避してくれたあと、なんと船を元の海流へと押し戻してしまった。
 凄い、あんな悪魔の実の使い方があるんだ……。

「ルフィ掴まれ!!!」

 船外に取り残されたままのルフィくんの手を掴んで、ゾロさんが船へと引っ張り戻す。いくらの悪魔の実の力があるとはいえ、船の外へと一切怖がることもせず飛び出していったルフィくんに尊敬と畏怖を感じてしまう。それだけゾロさんや皆さんの事を信頼しているからこそできることなのかもしれないけれど、信頼していたとしても同じ立場になったとき、わたしに同じことができるとは思えない。ルフィくんとわたしを比べること自体、おこがましいとは思うけれど。
 けれど、これで本当に誰一人欠けることなくわたし達は──。

「入ったァーーーーっ!!!」

 ──偉大なる航路へと入ったのだ。
 レッドラインの頂上に到達したゴーイングメリー号は勿論その後はグランドラインへ入る道を下るだけだ。

「おお…おお…」

 船首によじ登ったルフィくんの嬉しそうな、期待に満ちた声に船の前方に向かう。

「おお見えたぞ“偉大なる航路グランドライン"!!!」

 ゴーイングメリー号の進む先にある、この世界で最も偉大な海に足元からせり上がってくるのが、興奮なのか恐怖なのか分からないまま、ただ感動に身を焦がすことしか今のわたしには出来なかった。


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