宝物は手の届くところへ

「…だからあれ程鍛えろと忠告したのじゃ。やはり、其方たちはまだまだ弱すぎる。」

バッと飛び起きるように目覚める。呼吸が荒く、額から頬へ汗が流れ落ちた。まだ朝日は顔を出していないような頃だった。あたりはしんとしていて、この薄暗い空間に飲み込まれてしまうかと錯覚するくらいに、何故か怖くなった。
眠りにつくことはできそうにないと悟り、羽織を持ち、襖を開けて廊下に出る。誰も起きないよう、注意をしながら歩む。
暫くすると、立派な縁側に座る二つの影。

「ん?深雪まで起きてきたのか。」
『目が覚めちゃって…』
「同じですね。兄上も私もさっき起きたんです。」
『起きるにしてはちょっと早すぎる時間だけどね。』

月は優しく微笑みかけるように私たち三人を照らす。千寿郎くんの隣に腰掛け、沈もうとしている月を眺めた。こんな穏やかな夜なのに、どうしてもあの夢が頭から離れてはくれない。

「兄上も深雪さんも…明日から暫く任務ですね。」

真横にいた私たちよりひと回り小さい千寿郎くんがそう言った。いつもより、沈んだように。寂しげに。

「帰ったら、千寿郎のご飯をたくさん食べたいな。」
『私も。たくさん美味しいご飯が食べたいな。』

千寿郎くんを私が抱きしめると、私ごと千寿郎くんを杏寿郎さんは抱きしめた。優しい温もりに千寿郎くんは涙をこぼした。
不甲斐ないのだろう。悔しいのだろう。どれだけ練習しても、日輪刀の色は変わらず、千寿郎くんのお父さんはあの調子だ。私も挨拶したが、門前払いのような状態でまともに話したことはない。
つまり、この広い家でこの子は一人きりと言っても過言ではない。煉獄という名を背負い、私たちの帰りを待つしかない。無事を祈るしかない。
それはどんなに辛いことか。

『私、家族がいないから…帰ってくると千寿郎くんがおかえりなさいって迎え入れてくれてすごく嬉しいんだ。千寿郎くん、私にとっては弟のようなものだよ。』
「深雪さん…」
『千寿郎くんがいつの間にか私の帰る家を作ってくれてたんだね。ありがとう。』
「俺もだ。千寿郎。千寿郎がいるから、迷わずにここへ戻って来られる。」

大粒の涙を一筋流し、袖でゴシゴシと拭く。そして、満面の笑みで千寿郎くんは言った。

「お二人のおかえりを待ってますね。」


『寝ちゃいましたね。』
「うむ。朝までまだ長い。ゆっくり眠ればいい。」

眠ってしまった千寿郎くんを抱き抱え、部屋へ連れて行き寝かせる。

「うむ。今回は少し長くなりそうだな。」
『被害が拡大していますもんね。』
「あぁ、おそらく下弦以上の仕業だろう。」
『あの鬼もいるのでしょうか…』
「…それは考えにくいな。」
『なぜ?』

考え込むように俯き、そしてゆっくりと私の方を見た。月明かりに優しく照らされていても、燃えるような瞳は私を射抜くようにみる。

「あの鬼が妙でな。お館様にも話し、内々に調査をした。そこで分かったことがある。あの時姫という鬼は、罪人しか人を食べてはいないそうだ。」
『え…』
「よもや、疑いたくなる事実ではあるが…となると、俺たちにとどめを刺さなかったのも納得がいく。しかも理性が効くようで、他の人間とも交流していた。そこで、罪人の情報を集め食べていたのだろう。」
『じゃあ…あの時食べられていた女の人は…』
「あの女は人を騙して金を取っていたそうだ。被害にあった人は皆口を揃えて、天罰を受けたのだと言っていた。」
『そんな…でも…』
「うむ…しかし、君の弟弟子の妹のこともある。俄には信じられないことが起こっていてもおかしくはないだろう。それに…あれは俺たちに忠告をしていた。もっと強くなれと。それも引っかかるな。」

息をついて月を見上げる。いつの間にか月は先程よりも地上へ向かって歩みを進めていたようだ。この月が沈みきれば、今隣にいる人とは離れ離れになる。単独の任務は何度もあったのに、愛してしまったら、愛されてしまったら…こんなにも離れ難い。

「…何て顔をしているんだ。」

困ったように笑いながら、私の左頬を彼の右手で包み込まれる。以前ならば、困らせてしまったと思っただろうに、どうしてだろう。そんなふうには思えない。むしろ、この瞬間さえも愛してくれているように感じる。

『杏寿郎さんのせいですよ。私がこうなったのは。』
「む、それはすまなかったな。」
『本当ですよ。杏寿郎さんの側じゃないとだめなんて…責任取ってくださいよ。』
「よもや!きみがそう言ってくれるようになるとはな!」
『前の方がよかったですか?』
「いいや。今の深雪がいいな。」

ゆっくりと細められていく瞳をなぞる様に、私の瞳も細められる。
柔らかい温もりが唇から感じれば、私は離れたくないと言わんばかりに、彼の羽織を強く握った。
だけど、名残惜しいように離れていく唇。そんな唇から言葉が溢れた。

『杏寿郎さん、私あなたに会えて本当によかった。もう一度誰かを愛せて……本当によかった。』

大きな目がさらに大きく見開かれた。そして杏寿郎さんは片手で顔を隠しながら大きく息を吐いた。

「それは俺もだ。深雪。こんな世でも愛する人ができたこと、俺は嬉しく思う。任務に行くのに気が進まなくなるほどに、君に夢中だ!」

そっと手を握られる。大きく温かく包み込む手を私はギュッと握り返した。

「…深雪。」
『はい。』
「任務が終わったら…祝言をあげよう。」

聞き間違いじゃないかと思った。その言葉は私には最も遠い言葉だと思っていたから。

『本当に、私でいいのですか。』
『今更だな。言っただろう。俺はもう君に夢中だと。君が隣にいない未来など考えられない!』

真っ直ぐに届くその言葉に嘘はない。だから、こんなにも私を私の心を溶かし続ける。彼と一緒にこの先の未来を見ていきたいと思う。どんなことがあろうと、一緒に歩み続けたいと思うのだ。

『杏寿郎さん、ありがとうございます。私をあなたのお嫁さんにして下さい。』

そう言うと、私をギュッと抱きしめる。
ふわふわな髪を撫でながら、もう片方の手は彼の背中に伸ばした。
このまま時が止まってくれれば良いのにと思えば思うほど、月は歩むことをやめない。そしていつしか、優しく輝いていた月が私たちに別れを告げ、明るく照らす太陽を連れてきた。

「さて、行かなければならないな。」
『そう…ですね。』
「大丈夫だ!必ず鬼はこの俺が殲滅する!」

高らかに笑いながらそう言った彼は紛れもなく柱に相応しい人だった。だから、私はすっかり安心してしまった。忘れてしまっていた。なぜ自分が起きてしまったのかを。あの忠告の夢を。