『いつか月に行ってみたいものね。』
「何で?」
満月の夜、優しい光を浴びながら言っていた彼女。
『だって、ロマンが溢れてるじゃない。』
そう言って笑った高校生の彼女。
それは今でも変わらない。
黄色に光る月のような君に
彼女は昔から変わったことを言う人だった。
『マグマって柔らかそう。触ってみたい。』
「溶けるからやめてね。」
『私も両生類だったら水中でも生きていけるのに。』
「カエルになった美月は見たくないな。」
『人魚は絶対にいるわ。』
「そんなわけないよ。」
『もう、京治って本当につまらない人間ね。人魚なんてロマンティックじゃない。この世界はね、ロマンで溢れてるわけ。信じないだけ損よ?』
ロマンティックと言う言葉をよく言う彼女は誰も思わないようなことをポンポンと当たり前のように言った。理解できないと突き放す人が多数で、もちろん俺も全てを理解していない。人魚、小人、オバケ…俺はそんなものいないと思っている。だけど、彼女はいると言い張るのだから、聞き流すようになった。
俺にとって彼女は変人で、彼女にとって俺は真面目。だけど、人生は不思議なもので、どうしても彼女から離れられない。それこそ、まるで見えない糸で繋がれているかのように。
『見えない糸?なにそれ!京治がそんなロマンティックなこと言うなんて思わなかったな。』
「でた、美月のロマンティック論。」
『ふふっ、この世界はロマンで溢れてる〜!』
離れられない理由は見えない糸なんかじゃなくて、本当は気持ちの問題。
彼女が好きだから離れられないなんてなんで気づいてしまったんだろう。
『みて、この落ち葉の集まり方!きっと小人の仕業よ!』
「風でしょ。」
『小人は風を操れるのよ。』
「小人強すぎない?」
そんな意味不明なやりとりが高校、大学と続いた。変わったことは社会人として職場がバラバラなこと。
俺は一般企業、彼女は大学の助教授。
彼女の職場は彼女に似た変わり者。いや、良き理解者が多いようで、楽しいと思った話は、よく報告される。
『あ、ごめんごめん。ちょっとそこに座ってて。』
「忙しそうだけど、どうしたの?」
『今度ね、本を出版するの。』
嬉しそうに差し出された本の見本。どんな変なことが書き連ねているかと思ったら、案の定、彼女のロマンティック論が炸裂していた。
『それ、京治にあげる。』
「え、いいよ。ちゃんと買うから。」
彼女は案外頑固で、買うと言った俺の意見なんかさらさら聞く気などないように、内容について聞いてきた。
『どうだった?』
「どうも何も…まだ全然読んでいないし。」
『最後まで、見てみてよ。』
微笑んだ彼女にため息をつく。これは読まなきゃ返してもらえないやつだ、なんて思いながら1ページずつ読み進めていく。最初の章は「この世界はロマンで溢れてる」と言う何度も何度も聞いた言葉だった。も事情で語られる言葉を読めば読むほど、彼女の嬉しそうに話す表情が頭に浮かぶ。
そして、どんどん進み、ようやく最後の章。
「月が綺麗ですね?」
『さすがね、もう最後の章まで読めたの?』
気づけば窓の外は真っ暗で、月が私たちを照らしている。
この本に書かれていることは全て彼女のロマンティック論であり、普通だったらありえないと思ってしまうようなこと。だけど、最後の最後で誰もが理解できる言葉になっていることに違和感を覚えた。
「最後だけ美月らしくないね。」
『そんなことないわ、だって月はロマンティックじゃない?あの優しい光はまるで魔力があるように見えるし、幻視的でしょ。お姫様がいたって昔の人が書いた気持ちがわかるもの。』
月を見つめながらそう言った彼女。
『夏目漱石が、愛してるを月が綺麗ですねと訳したくらいよ?とても素敵じゃない。一番素敵だと思うわ。』
そういえば、夏目漱石がそんな風に訳したと高校の時習ったなと思いながら、本に目線を落とした。そして驚いた。
「これ…」
『ふふっ、驚いた?』
「そりゃね、だってこれ、俺のことでしょ。」
黒髪の青年はいつだって私のそばにいてくれた。周りから理解されない私を見捨てることなく、ずっとそばにいてくれた。きっと、理解してもらったことはない。それでも、それを超えるものが確かにあった。例えるのならば、何がいいか。そう考えていたとき、彼は私との関係を「見えない糸で繋がっている。」と言った。なんて、ロマンティックなのだろう。そう思ったのは本心だ。だけど、今回はそんな曖昧なものは求めていなかったようで、つまり、どう言うこと?と自問自答を繰り返してきた。そしてわかった。
これは愛なのだと。だって、私はもう彼から離れられないから。
彼に何と伝えれば良いのだろうか。愛してるなんてストレートすぎて奥ゆかしさが足りない。だから私は夏目漱石の言葉を借りる。彼は気付くだろうか。私の気持ちを。
この本をそばにいてくれた黒髪の彼に。
「月がきれいですね。」
「長い告白だね。」
『私の思いを一言でなんて表せられないわ。』
「…ロマンティックだね。」
本を閉じ、彼女のそばへ歩み寄る。
そっと彼女の栗色の髪に触れて、こう伝えた。
「月がきれいですね。」
少し驚いたような表情をした彼女は少し頬を赤らめながら笑った。
『真似したわね。』
「奥ゆかしさを求めたからね。」
すると微笑みながら彼女はお返しの言葉をくれた。
『このまま時が止まればいい。』
月に照らされて、そう言った彼女はまるで月の都の姫のように幻想的で、吸い込まれそうだった。吸い込まれるように彼女を抱きしめる。
そんな彼女と俺の恋を知るのは、今はあの月だけ。
fin