「………あれ、……」

彼の言葉に、少しだけ泣いて眠りについたところまでは覚えている。

しかし、いつの間にこうなったのか。

気付けばわたしは、自室のベッドで眠っていた。


「黒崎くん、?」

呼んでも返事はない。

静かな室内を見渡しても、物音一つしないところを見ると、彼は自分の部屋に帰ったのだろうか。

ベッドから降り、残されたスマホの存在に安心していると、不意にガタンという大きな物音がした。


「……なに……」

まるで、扉に何かぶつかったような大きな音。

普通ではあり得ないレベルの物音に首をかしげていると、直後、先ほどの音とは違う人の声が聞こえた。


「じゃあ被害届出せよ、黒崎」

「逆にお前を洗いざらい調べて、逮捕してやる」


耳を疑った。

逮捕という言葉と、黒崎という本名。

おそらく、この扉一枚隔てた壁の向こうには警察がいる。

それは、要するに彼の存在がバレているということ。


「ハッ…つまり、そうでもしなきゃ逮捕出来ないってわけだ?ねぇ大丈夫?それって警察が無能って告白してるようなもんだけど」

挑発するような彼の言葉に、続く衝撃音。

その後すぐに彼の苦しそうな声が聞こえて、さすがに黙っていられなかった。


「大家さんッ?!」
「………」
「何してるんですか!」

やはり、相手は刑事だろう。

突然出てきたわたしの存在を確認し、振り上げた拳を仕方なく下ろす姿に息を呑んだ。


「家族の仇だから、許されると思ってんのか?」
「………」
「お前は必ず、俺が逮捕する」

その言葉に、ニヤリと口角を上げた彼は、余裕そうに目の前の刑事を睨み付けていた。


「黒崎くん、」
「……いってぇ、」
「大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃないかも、」
「来て。手当てしよう」

倒れ込む彼の肩に手を貸し、自分の部屋の扉を開けた。





「っ、」
「ごめん、痛いよね」
「かなり、」

酷い傷だ。

ぱっくり切れた傷口の血を拭いながら、痛みに顔を歪める彼の前髪をかき上げた。

「怪我はここだけ?」
「うん、そんだけ」

言葉通り、口元とこめかみ以外は綺麗な顔にホッとする。

しかし、そんな安堵もつかの間。

すぐに真剣な表情で床を見つめる彼の姿に胸騒ぎがした。

「あいつ、」
「うん」
「刑事だって言ってた」
「うん、」
「ここにきて俺に接触してきたのは、俺がやってることも全部承知の上だからだと思う」
「それは……事件のことも、だよね」
「あぁ、多分知ってる」

知った上で、あんな身勝手な宣戦布告をしに来たのか。

「名前」
「ん、?」
「また怖い顔してる」

下から顔をのぞき込まれ、無意識に強張っていたであろう顔を優しくつままれた。

「キスしていい?」
「それより話が先」
「話ってなんの」
「誤魔化さないで」

わざとおどけた様子で言う彼はいつも通りだが、その目に浮かぶ不安そうな表情は隠せていない。

「黒崎くん、」
「俺、名前を自分の事情に巻き込むことだけは絶対にしたくないんだよね」
「うん、知ってる」
「これから言うことは愛だから、許してくれる?」
「うん、」

言葉と同時に、わたしの頭へ手を伸ばした彼が、そのままわたしを自分の方へ引き寄せた。

「少し、離れよ」

相手は警察だから。

自分との関係を疑れないよう、彼がそう言ったことは分かっている。


名前だけは絶対に巻き込まない。

何を言っても、その信念だけは曲げなかった彼らしい残酷な優しさだと思った。


「次の仕事は?」
「さぁ、明日にでも行こうとは思ってるけど」
「そっか。じゃあその顔なんとかしないとね」

手当てだけではどうにもならない、痛々しく残る跡もどうにかしてあげなければ。

話を終えて、立ち上がろうとするわたしに構わず、グッと引き寄せられた体が、彼の香りに包まれた。


「やだ」
「え、?」
「そんな聞き分け良い子にならないでよ」
「……黒崎くんから言ったのに?」
「ばか!そんなのやだ!って、もっと泣かれると思ってた」
「泣いてるよ」
「え、」
「泣いてるけど、そんなの見られたくないから隠してる」
「……ふはっ、そっか」

離れるのが最善だということは分かっている。

彼がそう言った以上、結果も覆らない。

だからこそ、見栄を張ってでも受け入れるしかないという本音は、もう彼にもバレていると思った。


「ごめんね」
「………」
「もし俺があの時名前のこと好きにならなかったら……」
「わたしから好きになってたかな」
「……ふはっ、そういうとこね」
「黒崎くんしか好きじゃないもん」
「すっげー殺し文句、」
「帰って来てね」
「ん、」

今はそれだけでいい。

例えしばらく会えなくなったとしても、彼が無事に帰って来てくれるなら十分だ。

「死なないでね」
「大袈裟だわ」
「あと、浮気もやだ」
「絶対ねーわ」

ふはっと軽く笑う彼の声に、ぎゅっと背中へ回したていた腕に力を込めた。