名前さえいればいい。
隣で笑う愛しい人の姿に、何度そう思っただろう。
「なんか用?」
「おかえり」
「悪いけど、俺忙しいんだよね」
一つ仕事を終える度、おかえりと笑う名前の元に帰るのが楽しみだった。
しかし、今回は今までのように、ただ騙して終わったわけではない。
もしかすると、手に入れた情報を元に、すぐにでも動かなければならないかもしれない。
そうなれば、名前にも会えなくなる。
今までずっと、何より求めていた仇への手がかりを掴み、悩む俺の前に現れたその女に、苛立つ気持ちを抑えることが出来なかった。
「今日ね、苗字さんと話したよ」
「………」
「可愛い人だよね。アンタのこと、本当に好きなんだってよく分かった」
「だから?悪いけど、単なる好奇心なら、これ以上名前に近付かないでくれるかな」
「うらやましいって思ったの」
「は……?」
俺の言葉を無視して、勝手に話し続ける隣の住人に顔を向ける。
「そこまで思える人がいるのも、思ってくれる人がいるのも、凄いことだと思う」
「………」
「だから、その気持ちを否定したことも謝った」
名前はその謝罪に、許すとも許さないとも言わなかったらしい。
何故今、このタイミングで彼女が俺にそんな話をしたのかは分からない。
しかし、やりにくい事に変わりは無かった。
「吉川さんさ、やっぱりうちのアパート出てってくんない?」
「………」
「目障りでしょ。検事を目指してんのに、目の前を詐欺師がウロチョロしてちゃ」
出来れば、これ以上名前にも俺にも干渉してほしくない。
誰もいらないんだ。
彼女以外に、俺の世界に踏み込む人間など必要ない。
「正直ね、この世の中、正しさだけじゃ、全ての人を助けられないことは分かってる」
「………」
「でもわたしは、この道で頑張るしかない」
なんの話だ。
こちらの話も聞かず、一方的に語り出す目の前の彼女に、心底うんざりしたのは一瞬だった。
「あなたが理不尽な目に遭って、詐欺師になるって決めたのと同じ」
どうして。
何故、彼女がその話を知っているのかは分からない。
しかし、その事実を知ったからこそ、彼女は今こうしてここにいるのだろう。
「わたしは、あなたの詐欺を肯定出来ない」
「でももう……否定もしない」
言葉と同時に涙する姿は、俺のよく知る大切な彼女と似ていた。
『行かないでっ……』
『なんでもいいよ、っ黒崎くんが犯罪者でも、そんなのどうでもいいから、』
『いなくならないで……っ』
復讐の為、犯罪者になると決意した俺を否定せず、全力でそばにいることを選んでくれた大切な彼女。
世界で唯一、俺の為に涙してくれるその子は、きっと、俺がとんな決断を下したって、それを否定しない。
しかし、だからこそ苦しかった。
「彼女のこと、幸せにしてあげなよ」
「………言われなくても」
仇への復讐。
大切な彼女の未来。
例えば、もしこの先俺がいなくなったとして、
彼女は、笑って生きていってくれるだろうか。
「………くろさき、くん、……?」
物音一つしない静かな部屋で、彼の名前を呟いた。
「どしたの。目覚めた?」
「………」
「名前?」
視界がぼやけて、よく見えない。
今が朝なのか、夜なのかも分からなかったが、薄暗い部屋で、ぼんやりと月夜に照らされる影は、きっと、わたしの好きな人だと思った。
「ふふ、寝ぼけてんの?」
「ぅうん……黒崎くんいた、」
「何それ、ほんとかわいーね」
「……ん…」
「まだ寝てていいよ。疲れてんでしょ」
寝起きのわたしを気遣ってか。いつもより小さい声で話す彼からは、香水ではない石鹸の香りがした。
わたしが眠っている間に、シャワーでも浴びたのだろう。
そのまますぐにここへ来てくれたことが嬉しくて。
もう一度黒崎くん、と名前を呼べば、それに答えるように伸びてきた手が、わたしの頬を包んだ。
「名前……?また寝ちゃうの?」
「、ん……」
「聞こえてないか」
呟くと同時に、確かめるように頬を滑る手がくすぐったい。
しかし、それもほんの一瞬のことで。
すぐにその心地良い温度に、意識は遠く曖昧になった。
「名前」
夢の中でも、彼は優しく笑ってわたしの名前を呼んでくれる。
「名前は、どうしたい?」
不安そうに、揺れる瞳に笑顔を向ける。
一緒にいたい———。
呟くと、彼は悲しそうに微笑んで目を伏せた。