わたしには、彼の本当の辛さは分からない。

いくら理解しようとしたところで、所詮は他人である彼の苦しみは、彼にしか分からないから。


「黒崎くん……」
「ねぇ、ちゃんと上着着てこいって言ったよね」

顔を合わせるなり、そう言って自分の着ていた上着を脱ごうとする彼の背中に腕を回した。

「、名前?」
「離れたくない」
「………」
「やだよ……もう一人でただ待つのは」
「名前……」
「一緒なら、死んだっていい」

一人で生きる未来に、意味なんて無いから。

「いかないで、」


いつもならすぐに背中へ回される腕が、ピクリとも動かなかった。


やっぱり、こんなことを言われたって彼は困るだけだ。

その優しさ故、ずっとわたしのことを考え、守ってくれていた。

例えそれが遠回しなやり方だったとしても、今までわたしがなんの危険にも晒されず、ここまで生きてきたことがその証拠だ。


「ごめんなさい……黒崎くんが、ずっとわたしの為を思ってくれてたことは分かってる。………ただ、」
「もう無理だわ、」
「え……」

言葉の途中で、そう言って自嘲気味に笑う彼にゾッとした。

「名前」

名前を呼ばれ、それまで強く彼の服を掴んでいた手から力が抜ける。


怖い。

もう、これで終わるかもしれない。


冷たい沈黙の中、微かに聞こえる波の音に、ぎゅっと目を閉じた。


「しんどい、」
「え……」
「カッコつけて頑張るの、ちょっとだけ疲れた……」

小さく呟き、ゆっくりと回された手に力がこもる。



ずっと、言ってはいけない言葉だと思っていた。

その甘えは、これまで彼がわたしにくれた優しさの全てを、否定することだと思っていたから。

しかし、それでも一緒にいたかった。

一番近くて、彼を支えて生きたかった。


「頼ってよ……もっと」
「………」
「全部分けてくれなくてもいい。話したくないことなら、一生何も聞かないいから……」

ただ、疲れた時に、張り詰めていた何かを少しでも軽く出来るなら、わたしがその手助けをしたい。


「黒崎くん」

名前を呼んで、肩口に顔を埋める彼の頭を抱きしめた。


言葉は無い。

こんな時、その腕から伝わる力の強さで、彼の心が全て分かればいいのに。


「ありがとう」

掠れた声で、小さく呟く彼の言葉は震えていた。