「黒崎くん」
「ん?」
「そこのファイルに入ってる小田倉商事の、」
「はいどうぞ」
これでしょ。
ニコリと笑って、分厚いファイルの束を手渡してくれた彼にお礼を言う。
「なーんか、いいよねこういうの」
「ん?」
「一緒に仕事してるって感じで」
私物のパソコンを開くわたしの目の前。
そう言って嬉しそうに頬杖をつく彼は、すっかりいつもの調子を取り戻したようだった。
「それ、あとどれくらいで終わりそう?」
「もうすぐ」
「え、マジで言ってる?」
「うん」
「俺結構な量渡したと思うんだけど」
「頑張ったもん」
身を乗り出し、驚く彼の視線に耐えながら、なんとか区切りの良いところまで文字の入力を終わらせる。
彼の仕事に、直接関わることは出来ない。
それでも、遠回しなサポートだけならと許されたのが、今行っている御木本側の詐欺を立証する為の資料作成だった。
「さすが名前さん。お仕事が早いですね」
「なにそれ。どういうキャラ」
「可愛い上司に憧れてる後輩のつもり」
「ちょっと……後輩はこんなことしないでしょ」
「ん?」
わざとらしい笑みを浮かべながら、器用にシャツの裾を捲り上げる手を押さた。
「ねぇ黒崎くん」
「ん?」
今回の件が済んだら、全て終わる?
「………」
「名前?」
聞いたところで、答えが返ってこないことは分かっている。
わたしが必死に泣き付いたから。
彼は、自分に出来うるギリギリの妥協点を探してくれただけ。
一緒にいたって、その全てを知ることは出来ない。
「名前」
「ごめん、これすぐに終わらせるね」
ジッとこちらを見つめて、何か言いたそうにわたしの名前を呟いた彼から視線を逸らした。
やましいことがあるわけではない。
しかし、広がった沈黙に動揺していたのか。
置いてあったコーヒーを飲もうとする腕を掴まれた瞬間。思わず、その腕を振り解いてしまった。
「っ、ごめん、黒崎く……」
咄嗟に謝るも、衝撃で倒れたカップからはコーヒーが溢れ、彼は、すぐに汚れたわたしの体を抱き上げた。
「っ…ちょ、…」
「黙ってろ」
「待って黒崎く……」
「ほんと黙って」
乱暴にバスルームの扉を開けた彼が、わたしをバスタブの縁に座らせる。
おそらく、火傷をしたと思われているんだろう。
有無を言わさず履いていたショートパンツを脱がされ、コーヒーのかかった太ももに冷水が当てられた。
「っ……」
「ごめん。少し痛いかもしれないけど我慢して」
「ん、」
幸い熱湯ではなかったが、少し赤くなった肌に当たる冷水は、それなりにキツかった。
「……ごめん」
「何で黒崎くんが謝るの。これは、」
「違う」
「え、」
「ちゃんと、色々分かってる。名前が不安がってることも、俺のこと考えてくれてるのも……分かってるけど……」
数秒の沈黙。
そして、流れるシャワーを気にすることもなく、目の前にしゃがみ込んでいた彼が、わたしのお腹に抱き付いた。
「ごめん……」
珍しい。
冷たいシャワーを止めながら、必死に言葉を繋ぐ彼の頭に手を乗せた。
「なんでも許すよ、?」
「………」
「黒崎くんだけは特別」
だから、どこにも行かないで。
言えない言葉を飲み込み、その柔らかい髪を撫でた。
「名前……」
「ん?」
不安そうに、こちらを見上げて揺れる瞳に笑みを返す。
けれど、そのままジッと見つめられると恥ずかしくて。
思わずふふっと笑ってしまうわたしに、彼はグッと顔を近付けた。
「……してもいい?」
「なにを?」
「キスだよ」
自分の頬に触れていたわたしの手を取り、呟く彼にうなずいた。
「好きだよ、名前」
「ん……わたしも、」
重なる唇はいつもと同じ。
優しく、触れるだけのキスから、角度を変えて噛み付くようなキスまで。
段々と激しくなるそれに、きゅっと目の前にある彼のパーカーを握り締めれば、その瞬間、ゆっくりと唇を離した彼と目が合う。
「名前……」
「ん、」
好き。
最後にもう一度囁かれたその言葉に、返事を返すことは出来なかった。