「クロ、ご主人様は?」

仕事帰りに買った猫用のオヤツを差し出しながら聞くと、にゃーと可愛らしく鳴いたクロが、部屋の奥に視線を向けた。

「そっか。お仕事か」

きちんと閉まった部屋の扉を開けると、等間隔に並んだジャケットの中に不自然な空間。

そして、空きのある小物入れ。

新しい仕事を始めたなら、しばらくはゆっくりご飯も食べれないなと、静かな部屋を後にしながら空を見上げた。




真っ暗闇の中、ぼんやりと光る月明かりは、あの頃と同じ。

大好きな彼の腕の中、気が遠くなるほどの痛みに耐えながら、差し込む月明かりに泣いたことを覚えている。



『黒崎くん』
『ん?』
『大丈夫?』


数年前の夏。

明るく、誰にでも優しかった恋人の顔から笑顔が消えた。

まだ高校生で、なんの力も無かったわたしには、そんなありきたりな言葉で彼を気遣うことしか出来なくて。

それでも、わたしの問いかけに一瞬小さく唇を噛んだ彼は、苦しそうに話してくれた。


父親が騙されたこと。
そのせいで全財産が消えたこと。

仲の良かった両親は、毎日喧嘩をするようになって。
家には居場所がなくなった。

大好きな場所なのに、もう帰りたくなくないと、最後まで涙を堪えて話してくれた彼の背中を、わたしは、ただ抱きしめることしか出来なかった。


『黒崎くん』
『……っ』

後にも先にも、彼が泣いているところを見たのはその一回きり。

震えながら小さくわたしの名前を呼ぶ声は、今でも耳に焼き付いている。


どうして、なんの罪も無いこんなにも優しい人が、苦しまなくちゃいけないんだろう。

怒りと、それ以上に自分には何も出来ないという悔しさに唇を噛んだ。



支えたかった。
ただ、そばにいることしか出来なくても。

それでも、せめてその悲しみや怒りを分けてほしいと思った。



あれから数年。
今も気持ちは変わらないのに、彼は変わってしまった。

———いや、変わるしかなかったのだ。


『名前』
『ん?』
『俺、詐欺師になる』
『え、』

ごめん。

そう言って病室のベッドに座っていたわたしの頬に手を添えた彼は、唇を重ねて立ち上がった。

『黒崎くん……待って、』

離れようとする彼を引き止めようにも、片足が上手く動かない。

『黒崎くん、っ!』

待って。
行かないで。

何度呼んでも、振り向いてくれない彼に必死だった。


心肺停止が数分続いたことによる後遺症。

奇跡的に一命は取りとめたものの、しばらくは歩くにもリハビリが必要だと説明を受けたことも、その時は忘れていた。


『苗字さん?!何してるんですか!』
『黒崎くんが、!』
『え?』
『早く行かないとっ、黒崎くんが…!』

床を這いずり、泣き出すわたしに状況を察した看護婦さんが走ってくれた。


離れるなんて出来ない。
一生そばにいると誓った。

サヨナラなんて耐えられない。


『!?名前っ……』
『っ、……』

焦った様子で戻って来た彼に、力の限り抱き付いた。

『行かないでっ……』
『……』
『なんでもいいよ、っ黒崎くんが犯罪者でも、そんなのどうでもいいから、』
『名前……』
『いなくならないで……っ』


巻き込んでごめん。

目が覚めてすぐ、そう言ってわたしに頭を下げた彼が、罪悪感で潰れそうなのは知っていた。

けれど、それを理由に離れることを許容出来るほど、あの頃のわたしは、大人ではなかったのだ。