「それで、まだ結婚しないの?」
「結婚は、まぁ……」
「タイミング?」
「う〜ん、」
「でも高校生の時から付き合ってれば別れる心配はないか。相変わらず仲良いの?」
運ばれて来たパスタにチーズをかけながら、楽しそうに聞いてくる年上の友人に微笑んだ。
「この間ね、わたしが食べたがってたお菓子買って来てくれたの」
「急に?」
「うん。見てたでしょって」
「さすが。相変わらず優しいね、黒崎くん」
彼の本当の名前を知る、数少ない知人。
あの日。ベッドから落ちたわたしではなく、病室を去った彼のことを追いかけてくれた新人の看護婦さんは、そのことを上司からこっぴどく叱られたらしい。
退院後、数年経ってからその話をしてくれた時も、彼女は今と同じように優しく笑っていた。
「結婚、決まったら一番に教えてね」
「うん」
人並みの幸せは諦めていると、いつかわたしに呟いた彼の横顔を思い出す。
「名前ちゃん」
「ん?」
「携帯光ってる。黒崎くんじゃない?」
彼が新しい仕事を始めて数日。
事が済むまでは連絡してこない彼からの着信に、戸惑いながらも席を立った。
「もしもし、黒崎くん?」
「おー」
「ん?どうしたの」
態度は普通。
けれど、なんだか落ち着かない様子の声色に首をかしげた。
「いま外?」
「うん、ご飯食べてたの」
「ごめん、邪魔しちゃった」
「ううん、黒崎くんなら出ておいでって」
「××さんか」
穏やかな声で、優しく呟く彼の後ろ。
きっと雨のせいであろう雑音が聞こえ、心配になった。
「黒崎くん、傘持ってる?」
「持ってないけど」
「雨降ってるでしょ」
「うん」
「濡れちゃうよ」
「うん」
「風邪引いちゃう」
「うん」
「黒崎くん」
どうしたの。
聞いてしまえば、なんでもないと電話を切られてしまうような気がして、何も言えなかった。
「名前」
「ん?」
「もっと声聞きたい」
「わたしの?」
「うん」
足音が止み、電話の向こうから聞こえる雨音は激しくなる。
「なんか、甘いことでも言った方がいい?」
「ふはっ、例えばどんな?」
「大好きだよーとか」
「誰が誰を?」
「わたしが黒崎くんを」
「そうなんだ。それは光栄です」
「黒崎くんは?」
「ん?何?」
「ズルイなぁ、わたしにだけ言わせるの?」
「勝手に言ったのはそっちでしょ。ご馳走様」
コツコツと、再び革靴が地面に当たる音が聞こえ、名前を呼ばれた。
「名前」
「ん?」
「気付けて帰りなよ」
「うん、ありがとう」
会いたいけど、会えない。
電話の向こうから聞こえる雨音に胸騒ぎを感じながらも、彼の口からまだ聞けない"終わったよ"の言葉に、会いたいの一言を飲み込んだ。