腰が重い。
全身が酷い倦怠感で、ベッドから起き上がることさえ出来なかった。
目を凝らせば、テーブルには一枚のメモ。
彼はもう帰ったのだろうか。
きちんと片付けられた部屋とテーブルの上を見て、再び重くなる瞼に抵抗を諦めた時だった。
にゃー。
「………ぇ、」
わたしの部屋では、聞こえるはずのない声。
「……クロ、?」
不思議に思って体を起こすと、そこには、やはり今ここにいるはずのない子猫の姿。
「クロ……ご主人様は……?」
黒崎くんは、どこに行ったの?
寝起きの頭で、可愛らしく擦り寄ってくるクロに問いかけた。
ここからでは、テーブルに置かれたメモの中身は見えない。
おそらく、それを確認すれば、今この状況の全てに説明がつくのだろう。
数日前から異様に甘かった彼の態度。
毎日、必要以上に求められた体。
今もなお、この身に残るたくさんの跡。
「……黒崎、くん……」
募る不安で、異様に速くなる鼓動を抑えながら、なんとか小さく名前を呼んだ。
もちろん、返事は無い。
恐る恐るテーブルに置かれたそのメモを手に取り、メッセージに目を通した。
「………」
"行ってきます"
ただ一言。
それだけ書かれたメモに、下手くそなネコのイラスト。
いつ。どこに、なんて。もちろん書かれていない。
「………なんで……」
「、っ…何でよっ………」
残されたその紙切れがクシャクシャになるまで、力の限り握り締めた。
あんなに伝えたのに。
あんなに離れたくないと願ったのに。
どうして、彼は今ここにいないのだろう。
「…っ……」
頼ってほしかった。
甘えてほしかった。
ずっとそばにいたのに、気付けなかった悔しさに、涙があふれて止まらなかった。
「初めまして。東京中央署の神志名と申します」
「前に、大家さんと……」
「お見苦しいところをお見せして申し訳ありませんでした。もし良ければ、その黒崎のことについて、話を伺いたいのですが」
彼がいなくなったことに気付いてから数時間。
そう言って、突然部屋を訪ねて来たあの時の刑事に、作り慣れた愛想笑いを向けた。
「知りませんよ。何も」
だって、彼はもうここにいない。
「なるほど。そう簡単には話していただけないんですね」
「話さないも何も、わたしは、」
「これ、あなたですよね」
話を遮り、目の前に出されたのは一枚の写真。
「ここ数日、黒崎は何度もあなたの家を訪れている」
「お隣さんですし、大家さんですからね。確かによく食事はご馳走してます。あの人、お忙しいみたいなので」
おそらく、ここ数日彼を張っていたのだろう。
わたしの部屋に入っていく彼の写真を見せながら、ジッとこちらを見下ろす視線に口を噤んだ。
警察なら、何か知っているかもしれない。
以前のやり取りからして、彼に執着していると思われるこの刑事なら、その居場所を知っているはずだ。
よぎる可能性に、グッと拳を握り締め、あふれそうになる気持ちを抑えた。
「先日、御木本という男を逮捕しました」
「………」
「その現場に居合わせたのが黒崎です」
しかし、その御木本という男への被害届は取り下げられ、彼は保釈された。
言われて、ジッと黙り込むわたしの反応を伺っているのか。
それ以上何も言わない刑事に、仕方なく口を開いた。
「黒崎は、もうここにはいませんよ」
「どこにいる」
「警察の方ならご存知でしょう」
「御木本のところか」
「………」
「そうなんだな」
最後の問いかけに、イエスもノーも言わないわたしを無視して、彼はアパートの階段を降りて行く。
「やはり上海です。はい。知っていました。 ………はい。それは今いいでしょう。はい」
「上海かぁ……」
ポツリと呟き、アパートの廊下から、興奮気味に電話する刑事のことを見下ろした。
おそらく、彼はこのまま二人を追いかけ、上海に飛ぶのだろう。
これで、もう警察には、わたし達がただの隣人だという主張は通らない。
手に入れた情報と引き換えに、今までずっと彼が守ってくれていた平穏は消えてしまいそうだか、後悔は無かった。