「あぁ、黒崎くん?いま上海」
「上海って、あの…?」
「そう。中国の上海」

彼から託されたクロの喉元を撫でながら、部屋を訪ねて来た吉川さんに微笑む。

「そんな急に……着いて行かなかったんですか」
「うん。置いていかれちゃったの」

可哀想でしょ。

呟いた言葉に、悲しそうな顔をして擦り寄って来たクロの体を撫でる彼女は、きっと、何を言っていいのか分からないのだろう。

下を向き、気まずそうに口を噤む姿を見て、こちらが申し訳なくなってしまった。


「吉川さんさ、好きな人いる?」
「え、」
「いないなら家族とか、大切な人でもいいんだけど。もしその大切な人が、危険を犯してでもやり遂げたい事の為に、死んでもいいと思ってたら、どうする?」

それだけの覚悟を持って戦っている人の為に、わたしには何が出来るだろう。

「本当はね、今すぐにでも全部忘れて、普通に生きてほしいって思ってる」
「………」
「けど、それじゃ彼の心が救われないの」
「………」
「わたしじゃ、黒崎くんの心は救えない」

例え、どんなにそばにいたって。

どんなに、彼の心に踏み込んだって。

結局、その根本にある悲しみは拭えない。


「それでも、きっと黒崎は、貴女のところに帰って来たいと思ってるはずです」

落ちていたメモに気が付いたのか。

それを拾い上げ、わたしの手に握らせた彼女が言葉を続ける。

「置いて行ったんじゃなくて、守りたかったんだと思います」
「うん………知ってる」

こうしている今も、彼はきっと遠い異国の地で戦っている。

わたしの知らないところで、いつ何が起こるか分からない危険と隣り合わせに生きている。

今までずっと、そんな彼をすぐ近くで見てきたからこそ、よく分かる。

「守りたいのは、わたしだって同じなのにね」

ニコリと笑って、手の中にあるメモを再びぐしゃりと握り潰した。


「あの、」
「吉川さん」
「はい」
「クロのこと、お願い出来るかな」
「え、」