「初めまして」
「どうも。初めまして」
遠い上海まで数時間。
指示された繁華街のホテルに入ってすぐ、わたしを待ち受けていたであろう人物と顔を合わせた。
「桂木さんから話は聞いてるわ。本当にいいの?」
「はい」
ここまで来たら、もう後には引けない。
「分かった。早瀬よ」
「苗字名前です」
同性ながら見惚れてしまうほど綺麗に弧を描く口元は、事前に確認していた写真と全く同じだった。
物腰柔らかな笑顔に、ようやくそれまで張り詰めていた緊張が緩む。
「それにしても、凄い度胸ね」
合流から数分。
簡単な食事をしながら、広げていた資料を確認した早瀬さんが視線を上げる。
「普通、恋人の為にここまでする?」
「はい。大好きなんで」
「なるほど。バカほど惚れてんのはお互い様ね」
呆れた様子で、仕方なさそうに笑う早瀬さんは、きっと、わたしの知らない彼のこともたくさん知っているはずだ。
あの日から、ずっと詐欺師として生きてきた彼のことは、もしかしたら、わたしよりずっと詳しいかもしれないと、よぎる可能性に、少しだけ寂しくなる。
すると、そんなわたしに気が付いたのか。
良いこと教えようか、と切り出した彼女は、楽しそうに笑いながら頬杖をついた。
「黒崎ね、仕事以外のことは、ほとんど貴女の話しかしないの」
「え、」
「意外?ほんっとしつこいのよ」
鬱陶しそうに顔は歪むが、その表情は優しげだった。
「前日のご飯の話とか、こういうところが好きだとか。聞いてないのに、いつも勝手にぺちゃくちゃ喋って……。おかげで、こっちは初めて会った気がしないの」
「ふふ、そうなんですね。ちょっと嬉しいです」
「思った通り、良い子そうで安心した。その分、ちょっと心配だけどね」
今まで、詐欺はおろか犯罪には一切関わりを持たなかったわたしを気遣ってのことだろう。
優しく笑って眉を下げる早瀬さんの姿に、わたしも同じように笑みを返した。
「黒崎くんの為なら、なんでもします」
彼が、唯一絶対の仇であるあの男に対してそうであるように。
わたしは、わたしにとってただ一人の大切な人の為に。出来ることなら、なんでもすると決めてきた。
「そうね。もう野暮なことは言わない。お仕事の話をしましょうか」
「はい」
うなずくと同時に、彼女のスマホから着信を知らせる大きな音が響いた。
「黒崎は今、キングタイガーに取引を持ち掛けてる」
「レッドドラゴンと対立している上海のマフィアですね」
「そう。目的は御木本を嵌めて、アイツに渡った金をこちらで回収することだけど、相手はマフィア。万が一があれば殺される」
「………」
「貴女の出番がないことを祈るわ」
わたしの役目は、その万が一を防ぎ、彼を救うこと。
情報の提供と引き換えに彼の居場所を聞き出し、ここまで来たのだ。
覚悟して来たとは言え、初めて見る目の前の光景に、足がすくんだ。
「《彼を始末するなら、交渉の場は与えない》」
「………」
「………ぇ…」
薄暗い路地の奥。
倒れ込む彼を囲っている集団の後ろから、声を掛けた。
ボロボロの体を押さえつけられ、身動き一つとれないであろう彼の姿は、想像していたよりずっと酷い。
油断すれば、今にも震えて動かなくなってしまいそうな体を、なんとか動かし微笑んだ。
「《女、交渉の件は話がついていただろ》」
「《その男はわたしの知人よ。これ以上傷付ければ、貴女達が求めていた役人との接見は叶わない。話を聞きなさい》」
突然現れたわたしに、呆然とした顔で黙り込む彼は、きっとこの状況が何も分かっていない。
元々命掛けの作戦だ。
必要無ければ姿を現すことも無かったわたしの存在は、何も話していない。
聞きたいことは山程あるだろうが、今だけは大人しくしていてという意味も込め、その傷だらけの顔を見つめ返した時だった。
♪〜
鳴り響く着信に、彼が声を上げる。
「この電話っ……電話に出れば、御木本があんた達を裏切ってるってことが分かるから、!」
「………」
「《もう一度言う。彼をこれ以上傷付ければ、貴方との取引には応じない》」
その言葉を最後に、拘束されていた彼の体に自由が戻る。
「遅いよ、!」
『ごめんごめん、もうすぐだよ』
ここまで来れば、後は予定通り。
何も知らない御木本を裏切り者に仕立て上げ、わたし達は、それに怒った森馬の動きを見守るだけ。
結末など、容易に分かる。
これで、本当に御木本は終わりだ。
「黒崎くん、」
「………」
わたし達の策略を信じ、この場を去った森馬一行を見送ると、すぐに苦しそうに顔を歪め、こちらを見つめる彼と目が合った。
「痛いよね……怪我、すぐに手当てするから、」
「そんなことどうでもいい」
「黒崎くん、」
「何でこんなとこまで来てんだよ!」
姿を見せれば、こうなることは分かっていた。
困らせることも、文句を言われることも承知の上。
しかし、わたしにだって譲れないものがある。
「言ったでしょ。死なないでって」
ただ一つ。
それだけはどうしても譲れなかった。
「だからって、俺の為に名前まで危険にさらされたら、!」
「同じ気持ちだよ。黒崎くんがわたしのことを思ってくれてるのと同じくらい、わたしだって黒崎くんが傷付くところは見たくない」
本当は、さっきだって、こんなにボロボロになってしまう前に、姿を現して助けになりたかった。
彼が連れて行かれたと知った時点で、わたしから御木本のことを話してやりたかった。
「守らせてよ、わたしにも。黒崎くんのこと」
「…名前……」
「黒崎くんの為なら、わたし、死んだっていいんだよ」
例え家族ではなくても。
この世に一人でも、自分のことより貴方のことを思う人間がいると知ってほしい。
「黒崎くん」
名前を呼べば、苦しそうに顔を歪めた彼が、わたしの両手を包んだ。
「そんなカッコイイこと言って………震えてんじゃん」
「、……」
「しかもめちゃくちゃ冷たいし……」
「……」
「………ごめん、怖かったよな、」
辛そうに、今にも消えそうな声で呟いた彼が、わたしの体を抱きしめた。
「怖い思いさせてごめん、」
「ううん……」
「大丈夫だから」
「…うん……」
「ちゃんと、俺はここにいるから」
「うん、っ……」
「名前、ありがとう」
たった数秒とはいえ、命を掛けたやり取りをしていたのだ。
知らずのうちに硬直しきった体を、ぎゅうっと力強く抱きしめられ、視界が歪んだ。
「……っ、怖かった、」
「うん、」
「黒崎くん…っ……殺されるかもしれないって、」
「うん……」
「失敗したら、もう、二度とこうやって話せないかもって……っ」
「うん……」
「黒崎くんがっ……いなくなっちゃったら、…っ……」
わたしは、きっと生きていけない。
「っ、黒崎くん……」
「ん、」
「黒崎くんっ……」
「……うん」
「くろさきくん、っ……」
生きていて良かった。
会いたかった。
心配で仕方なかった。
本当は、こんなところで泣いている場合ではない。
分かってはいても、身を切られるような緊張の中、大切な人を目の前で失うかもしれないと覚悟したあの恐怖は、そう簡単には消えてくれない。
子どもみたいに、ひたすら泣きじゃくるわたしを抱き締め、包み込んでくれる彼の体に、すがり着くことしか出来なかった。