わたしは、彼にとってどれだけ必要な存在なんだろう。
連絡がつかなくなった数日間。
普段あまり考えないようにしていた不安が頭をよぎり、無性に怖くなった。
やはり、あの夜無理矢理にでも話を聞いておけばよかったのだろうか。
今さら考えたところで、もうどうしようもないこの現状に、さすがに心が擦り減っていくのを感じた。
「———で、俺に愚痴か」
「声を掛けてきたのはそっちでしょう」
「だからって何で俺がアンタの昼飯に付き合わなきゃならないんだよ」
「だって、暇でしょう?」
「ふざるな。俺は忙しいんだよ」
「わたしだって暇じゃないです」
「言ってることがめちゃくちゃだな」
普段であれば、声を掛けられても無視するであろう誘いに乗ったのは、その相手が、彼のことを話せる数少ない人物だったから。
気分転換にと頼んだ無駄に高いパンケーキをつまみながら、目の前に座る白石さんの不満そうな視線に笑みを返した。
「まぁ、色々あるんだろ。アイツにも」
「やっぱり、何か話しました?」
「さぁ、どうだろうな」
知っていても、話してくれる気は無いのだろう。
元々この人から何か聞けるとは思っていなかった分、特に落胆することもなく、次の一口をフォークに差した時だった。
「あそこにいるの、黒崎じゃないか」
「え、」
通りに面したテラス席で、少し先を見つめた彼の視線を辿る。
「何してんだ?アイツ」
「………」
久しぶりに見た恋人の横顔は、少しやつれているように見えた。
仕事中なのか、ただの気分転換なのかは分からない。
しかし、仕事中であれば一人であるはずの彼の隣には、もう一つ、そばに寄り添う影があった。
「誰だあれ。知り合いか?」
「はい。お隣さんです」
いつの間に、二人で出掛けるような関係になったんだろう。
わたしには連絡の一つもくれないのに、彼女とはわざわざ会う約束をしたということ?
目の前の現状に、じわじわと募る不安で心が押し潰されそうになる。
「いいのか。アイツ、こっちに来そうだが」
「やましい事なんて無いでしょう。わたしはバレても困らないです」
あっちは、どうだか知らないけど。
「ふぅん、そうか」
わたしの返事を聞くなり、大袈裟にうなずいた白石さんに視線を合わせる。
「楽しそうですね」
「別に。………なぁ、良いこと教えてやろうか」
「良いこと?」
「あぁ」
にやりと口角を上げた白石さんに手招きされ、テーブルの上で身を乗り出す。
あまり大きな声では話せないのか、言われた通りに彼の口元へ耳を寄せると———。
「反対、見てみろ」
「え、」
反対?
言われるがまま視線を向けると、そこには、先ほどまで少し離れた通りにいたはずの彼の姿。
久しぶりに顔を合わせたのに、その表情は酷く険しく、眉間には深い皺が寄っていた。
あぁ、怒っているのか。
理解すると同時に、そんな彼の身勝手さに苛立ちを覚えた。
「楽しそうだね。デート?」
「そっちこそ。新しい恋人か?」
「え、いやわたしは……!」
「どうだろうね。ご想像にお任せするよ」
無機質な笑顔で、表面だけ取り繕った彼と目が合う。
「幻滅した?」
ニコリと笑って、こちらを試すように問いかける彼の真意は分からない。
もしかしたら、こうして彼女と二人でいることにだって、何か理由があるのかもしれない。
しかし、何も分からないこの状況で、全てを受け入れ、いつも通り笑えるほど、今のわたしに余裕は無かった。
「あれ、ごめん、泣いちゃった?」
信じてるよ。
大丈夫。
不安を取り繕う為の嘘も吐けないほど、胸が苦しくて、悲しかった。
「ちょっと、!」
「何」
「何じゃないでしょ!」
目の前で、慌てて彼のことを止める吉川さんを見るのも辛かった。
いくら彼を信じたくても、その理由が分からなければ、どうすることも出来ない。
今までずっとそばにいてくれた彼の言葉を、どう受け止めればいいのか分からなかった。
「ごめんね……」
「………」
「いいよ。前に言ったでしょ。話したくないなら、何も聞かないから」
もし他に話せる誰かがいるなら、それはわたしじゃなくても良い。
「ごめんなさいっ……本当に」
何も出来なくて。
呟くと同時に、堪え切れなかった涙がもう一度頬を流れた。
こんな時、いつもなら優しく笑って、泣かないで、と声を掛けてくれた彼は、ただ目の前に立ちすくむだけ。
わたしが何を言おうと、もう届かないのかもしれないと思った。
「白石さん。お忙しいのに付き合ってくれてありがとうございました」
「いや。もう行くのか」
「はい」
「送るよ」
伝票を持ち、相変わらずスマートにわたしをエスコートする彼の言葉に、今日だけは甘えようと席を立つ。
しかし、その隣に並ぶよりも早く、ぎゅっと後ろから掴まれた腕に引き止められた。
「………」
「どうしたの」
言葉はない。
しかし、ジッとこちらを見つめて黙り込む彼の姿に、再び胸が苦しくなる。
「黒崎……」
「ほら、吉川さん待ってるよ。いいの?」
精一杯の強がりで無理に口角を上げると、ほんの一瞬グッと力を込めて握られた腕に痛みが走った。
「離して」
「………」
「黒崎くん」
「………」
「……痛いよ」
呟いた言葉に、ようやく離された腕は微かに赤くなっていた。
「じゃあ……」
「9時」
「え、」
「それまでには帰るから、絶対家にいて」
わたしの返事も聞かず、そう言って一人歩いて行く彼の姿を呆然と見つめた。
連絡の無かった数日間。こちらはいくら会いたくても、彼のことも思い、我慢していたのに。
「まだまだガキだな、アイツも」
「わたし、今日この後飲み会なんです」
「いっそバックれてやったらどうだ」
言われた言葉に、一瞬脳裏をよぎる小さな腹いせ。
もし9時になってもわたしが家にいなかったら、
彼は今まで通り、優しく怒って、わたしを心配してくれるだろうか。
ごめん。
今日は途中で帰るかも。
仲の良い同僚に断りのメッセージを送りながら、今はもうここにいない彼の顔を思い浮かべる。
「白石さん」
「なんだ」
「もし黒崎くんが、今後何か助けを求めて来たら、出来れば助けてあげてください」
仲良しのお友達になれとまでは言わない。
しかし、同じ詐欺師として生きている彼にだからこそ、分かることもあるかもしれない。
「アンタの役目だろ、それは」
「どうでしょう。助けてなんて、言われたことないので」
「カッコ付けてんだろ。俺から見れば、アイツは充分アンタに甘えてると思うがな」
「ありえないです……」
ポツリと呟き、見つめた窓の外。
流れる景色に、再び現れた二人の姿は、結局、最後まで彼を支えることが出来なかったわたしへの罰だろうか。
帰りたくない。
初めて目の当たりにした、自分以外の誰かを抱きしめる彼の姿に、喪失感でいっぱいになった。