「ここまででいい」
「あかんて。お前歩けんやろ」
「歩ける」
「嘘つけ。自力でタクシーから降りれんかったくせに」
「いいから。もう大丈夫なの、」
「あかんて。大人しくしとけ」
今は何時で、これはどういう状況なんだろう。
飲み会に行って、半ばヤケクソになりながらお酒を飲んだことは覚えている。
食べて、話して。
最後に時計を見たのは8時を少し過ぎた頃。
その後、ちょうど仲の良い同僚と話し始めて、気持ちが止まらなくなった後は、どうしたんだっけ。
未だぼんやり霞む意識の中、どうしても繋がらない状況に頭が痛くなった。
「で?部屋どこなん」
「言わない」
「あんなぁ、ここまで迷惑掛けといてまだ駄々こねるん?」
「だって、言っちゃいけないんだもん」
「はあ?」
「男の人に、家は教えんなって」
「言いつけ守るん?」
「…………わたしどこまで話した?」
「さぁな」
暴れるわたしを抱え直し、改めてどこ?と聞いてくる同僚に口を噤む。
「ほんと、もう大丈夫だから、」
「まぁ、少し寝て酔い覚めたみたいなんは認めるわ。けどここまで来て怪我されるのも困るんよ」
「そんな大袈裟な、」
「タクシー一人で降りれんかった奴が何言っとん」
「う、」
痛いところを突かれ、押し黙るわたしの体をもう一度抱え直した彼が、仕方なさそうにため息を吐いた。
「別にもうえぇやろ。約束破ったって彼氏は見とらんよ」
「………」
「もし万が一バレても、俺が無理矢理聞き出した言うたるから」
な?と、初めて大好きな彼以外の男の人に体を預けながら、優しく言われて泣きそうになる。
お酒が入っているせいもあるのか。いつもなら我慢できるはずの涙腺が緩み、ツンと鼻の奥が痛くなるのを感じた。
「迷惑掛けてごめんなさい、」
「えぇから。部屋どこ」
「………204」
「ん。」
階段を上がり、203と書かれた扉の前を通るのに、酷く緊張した。
おそらく、時刻はとっくに9時を過ぎているだろう。
中で彼がどうしているかは分からないが、今だけは絶対に顔を合わせたくない。
約束を破った罪悪感も押し寄せ、つい目の前にあった同僚の背中に、頭を埋めた時だった。
「何してんの」
「………!」
ガチャリ。
扉が開く音と同時に、中から顔を出したのは、今一番会いたくなかった人。
「……ども。夜分にすんません」
「ずい分遅かったじゃん。だいぶ飲んで来たみたいだけど、楽しかった?」
「ぁ、……」
怒っている。
一目見ただけで、その怒りが手に取るように分かってしまい、焦りで声も出なくなった。
明らかに普通ではない彼の様子を察してか。
すぐに背中からわたしを下ろした同僚も、下手に口を挟むことはせず、ふらつく体を支えてくれた。
「送ってくれてどうもありがとう。彼女はもう大丈夫なので、」
「あんたが恋人なん?」
「はい?」
「自分のことは棚に上げて、コイツには一丁前にキレるんすね」
「は、?」
挑発的な同僚の言葉に、明らかな苛立ちを見せた彼の顔が歪む。
「ここまで送って来たのは、俺が無理矢理お節介したからっすよ。コイツは最後まで部屋も教えんって、ちゃんとアンタの言いつけ守っとったから」
じゃあな。
最後の一言だけわたしの方を見て、優しく微笑んだ彼が階段を降りて行く。
深夜の住宅街に、革靴特有の足音が響かなくなった頃。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、彼の方だった。
「、!ぁ、待って…」
言葉は無いが、強引に腕を引かれ、わずかに開いていた扉から中へ押し込まれる。
フラついた体は、そのまますぐに部屋の壁へ押し付けられ、息つく間もなく、彼の唇が、わたしの唇に重なった。
「…ゃ、っん……」
待って。
音にならなかった言葉が、全て飲み込まれる。
噛み付くように、逃げても逃げても追いかけくる彼からなんとか逃れようと、顔を背けても無駄だった。
「………っはぁ、何逃げようとしてんの」
「……っ、だって……」
「絶対許さないから」
「んっ……ッ、」
着ていたシャツの裾から手を入れられ、外気に触れた体がピクリと反応する。
このままじゃ、何も出来ずに流される。
日本に帰ってからの数日、彼がわたしを避けていたことは明らかだ。
理由があるなら、それも仕方ないと割り切れる。
しかし、なんの説明もなく、さすがにこれ以上は耐えられない。
「ッや、ねぇ……待って黒崎く、」
「黙って」
「んっ……」
いやだ。
こちらの気持ちを無視して、強引に重ねられる唇に初めて嫌悪感を覚えた。
何も聞いてくれないの?
わたしの不安も、今の気持ちも。
分かり合いたいと思っているのは、わたしの方だけ?
「っ………ぅ、やだ、」
「………」
「ん…っ、」
無理矢理脱がされ、胸元が全開になったシャツを見て涙があふれた。
こんなの嫌だ。
いくら好きな人にだからって、こんな風に、自分勝手にされたくない。
「っ、やだ………」
「……なに。俺が、嫌ってこと?」
「、ちがう……」
「………」
「、違うけど………っ、ん……」
わたしは、そんなに物分かりの良い子じゃない。
何も聞かずに、ただジッと我慢して。
都合の良い時だけ彼の好きなようにされるなんて。
そんなの、恋人と呼べるのだろうか。
「…っ、」
「……ッ………名前、?」
重ねられた唇に歯を立て、彼が驚いた一瞬の隙に、その拘束から抜け出した。
支えを失い、ふらつく体には彼の手が伸びるが、反射的にそれを拒めば、酷く傷付いた表情の彼と目が合う。
「、名前……」
何であなたがそんな顔をするの。
まるで、わたしが全部悪いみたいに……。
「名前、!」
「っ離して…!」
「嫌だ」
「わたしだって、もうやだっ、」
「ごめんっ、無理矢理したことなら謝るから、」
「ッちがう、」
「え、」
「違うの……っ」
そんなことは、別にどうでもいい。
「…黒崎くん……」
「ん、?」
「黒崎くんは……もう、わたしのことなんか、どうでもいい……?」
呟くと同時に、こらえ切れなかった涙があふれた。
「っ、……」
「……くろさきくん、」
にじむ視界で、なんとか目の前にあった彼の服を掴むと、そのまま優しく抱き寄せられ、彼の匂いに包まれる。
「名前のこと、どうでもいいと思う日なんて一生こないよ」
「でも、っ…」
「俺の方が、名前のこと引き留めるのにこんな必死じゃん」
言われて、頭の後ろに回った手は優しかった。
いつもと同じ。
少し意地悪だけど、きちんとわたしのことを考えてくれる優しい手。
あぁ、黒崎くんだ。
思うと同時に、だったらどうして?
そればかりが頭に浮かぶ。
「名前」
「………」
「帰したくない」
「………」
「嫌なら何もしないから、」
腕の力を強め、わたしの耳元へ唇を寄せた彼が呟く。
「………名前まで、いなくなんないでよ…」
「っ………」
そんな風に言われたら、わたしには、もう何も出来なかった。