「………ゔぅ……う、」
呻き声と、ピンポーンという聞き慣れた音。
ぼんやり霞む意識の中、突然視界を覆った何かをぎゅっと握り締めた。
ふわふわと体を包み込んでくれるそれは、知らない匂いの中に、少しだけ大好きな彼の匂いがする。
「………くろさきくん、……」
呟くと同時に、ガチャンと何かが音を立てるのに気付いて、薄っすらと目を開けた瞬間だった。
「北海道に行ったのかと思った」
………え……。
「桂の店長さんがそう言ってたから」
姿は見えない。
けれど、この声は確実に吉川さんだ。
どうして?
ここは彼の部屋じゃないの?
しかも桂って、あの甘味処のことだよね?
知ってるの?
今まで自分だけしか居なかったその場に、他の誰かが踏み入ろうとしている事実に、ずん、と心が重くなるのを感じた。
「だから、もう俺には関わるなって」
「………」
「あの親父とも、俺の話はするな」
「何で、」
「いい加減分かれよっ……俺とお前は、生きてる世界が違うんだよ!」
珍しく声を荒らげ、苛立った様子で告げた彼の足音が近付く。
なんとなく、今は起きていることがバレてはいけないような気がして。息を殺し、ジッと布団の中で目を閉じた。
「苗字さんは?」
「何が」
「あの人は、貴方と生きてる世界が違うわけじゃないの?」
緊迫した空気の中、突然出てきた自分の名前に息を飲む。
「違うよ」
そして、呟かれた言葉に、ドクンと心臓が嫌な音を立てた。
「俺と名前が、同じなわけないでしょ」
「でも一緒にいるのは、好きだから?」
「それ、答える必要ある?」
広がった沈黙に、音を立てないようにするので精一杯だった。
生きている世界が違うこと。
だからこそ、自分に彼の全てを理解など出来ないこと。
上げればキリがないほどの不安に、心がじわじわ侵されていった。
「はい。どうぞお帰りください」
手繰り寄せた手元の何かは、どうやら昨日彼が着ていたコートのようだ。
冷たい声に、耳を塞ぐようにそのコートへ顔を埋めれば、遠くで扉が閉まる音と同時に、ベッドが大きく沈んだ。
すぐそばに感じる彼の気配と、優しく頭を撫でてくれる手に鼓動が跳ねる。
「……名前…」
聞こえた声と、ぎゅっと握ったコートから香る微かな匂いに、気持ちがあふれて泣きそうになった。
「……くろ、さきく、」
「ごめん、起きちゃった?」
ううん。
本当は、少し前から起きていた。
「体平気?」
「ん、」
「目とろんとしてんね、まだ眠いんでしょ」
優しく笑って、乱れた前髪を避けてくれる彼の声に、じわりと滲む涙。
それをどう誤魔化せば良いのか悩んでいるうちに、ぐい、と目元を拭われた。
「目うるうるじゃん」
「ごめんなさい……」
「?何で謝んの、可愛いからいいけど」
「ん、」
「ふふ、くすぐったい?」
言いながら、彼の親指が頬を撫でるようにするすると動く。
唇、頬、こめかみ、耳と。
順番に口付けられるのを感じながら、どこか上の空なわたしに気が付いたのか。
名前?と、こちらをのぞき込みながら呼ばれた名前に、なんとか口角を上げた。
「寝ぼけてんの?」
そう見えるなら、それでいいや。
考えることを放棄し、されるがままに体を預けるわたしを、彼は優しく抱きしめた。