不思議だった。
「苗字さん」
「ん?」
「これ、どうぞ」
「わ、ありがとう」
わたしが警察からの連絡を受け、病院に着いた頃には、既に黒崎の緊急手術は終わっていた。
街中で何者かに刺され、意識不明の重体。
最悪の事態も覚悟してください。
そんな言葉を聞いて、ただの隣人である自分でさえ動揺したのに、しばらくしてから現れた苗字さんは、傷付いた黒崎の姿を見ても、一滴の涙すら流さなかった。
黒崎が生死の境を彷徨っている間、彼女が何をしていたのかは分からない。
けれど、黒崎がこんなことになって、一番に連絡がいくはずの彼女が後から現れたのだ。
きっと、わたしの知らないところで、彼女も黒崎の為に戦っていたのだろう。
ICUと書かれた部屋の中で、静かに眠る彼のことを見つめる姿は、相変わらずとても綺麗だった。
「早く目覚めるといいですね、黒崎」
「うん、」
「大丈夫ですよ。アイツが、苗字さんのこと一人にするわけないんで」
「…うん……」
「苗字さん」
大丈夫ですか?なんて聞いても、きっと彼女は無理して笑う気がして、何も言えなかった。
大切な恋人が生死の境を彷徨い、大怪我を負ったというのに、大丈夫なわけない。
それなのに、わたし達には弱いところを一切見せず、気丈に振る舞う彼女の姿に、胸が締め付けられた。
「なんか、不思議だよね、」
「え、?」
「あそこにいるのが黒崎くんだって、ちゃんと分かってるのに……現実味が無くて、」
「………」
「いくらこうやって顔を見てても、どうしても……他人事に思えるの、」
呟く彼女が、切なげに目を伏せる。
「酷いよね、恋人なのに……」
「それだけ、混乱してるんですよ」
知り合いとはいえ、ただの隣人であるわたしと、
恋人である苗字さん。
あまりにも違いすぎる立場ゆえ、その心情を計り知ることは出来ないが、これだけは言える。
「泣かないから酷いなんてこと、ないと思います」
物事の受け止め方は、人それぞれだ。
「黒崎も、目を覚ました時に苗字さんが泣いてたら、自分を責めるかもしれないし、」
「………」
「あ、だからって泣かない方がいいとかじゃなくて!もちろん、泣きたい時はちゃんと泣いた方がいいと思うけど、でも……泣けないことに負い目を感じる必要はないんじゃないかなって」
「…そうかな……」
「泣くのは、泣きたい時でいいんです」
言い終えると同時に、つー、と目の前の苗字さんの目から一滴だけ涙が流れる。
「え、!」
「、あれ……」
彼女にとっても、その涙は予想外だったのか。
わたしが目を見開くと同時に、自分の頬をペタペタと触りながら困惑していた。
「変なの、さっきまで……黒崎くん見ても全然現実味無かったのに、」
そうは言っても、依然冷静な口調で話す彼女は、全てを受け入れられた訳ではないと思う。
頭では分かっているけど、心が追いつかない。
きっと、そんな状態なんだろう。
「今は現実味が無くても、泣きたい時が来たら、思いっきり泣けばいいと思います」
ありがとう。
わたしの言葉に、そう言って綺麗な笑みを浮かべた彼女は、結局、この後一度も涙を流さなかった。