「あ〜〜……良い匂い、」
「ふふ、お味噌汁作ったの。飲む?」
「飲む」
休日の朝。
匂いにつられて起きてきた恋人の声を背に、鍋の火を止める。
一つ前の仕事を終えてから、嘘のように穏やかな一週間。
時間的にそろそろかな、と思っていた分、いつもより少し贅沢な朝食を作ってしまった。
「さすが名前、天才だね」
「ありがとう。でもちょっと作り過ぎちゃった」
「いいよ。全部食べるから出して」
はい、と両手を出され、そこによそったばかりのお味噌汁が入ったお椀を乗せる。
「お、今日は大根か〜」
すると、そんな彼の嬉しそうな声に紛れて、鳴り響くチャイムの音。
「こんにちはー。隣の吉川です。お家賃持ってきましたー」
無下には出来ないその言葉に、はぁ、とため息を吐いた彼が玄関へ向かった。
そういえば、吉川さんってこの間挨拶した女の子だよね。
気だるそうに髪を掻く彼の背中を見ながら、つい先日挨拶したばかりの彼女のことを思い出した。
「あれ?吉川さん?」
え。知り合い?
「あー、新しい入居者って吉川さんか」
初めましての挨拶もなく、そう言って外に出て行った恋人の様子をうかがった。
話を聞けば、どうやら彼女は偶然彼の仕事に関わっていたらしい。
自分とは関わらないよう、あえて彼女を遠ざける為の脅し文句を並べる声に、切なくなった。
「彼女……」
「ん?」
「この前ここであなたの彼女に会いましたけど、あの人は知ってるんですか?あなたのこと」
「さぁ、どうだろうね」
「まさか、あの人のことまで騙して……!」
許せない。
そう言いたげな声が聞こえると同時に、思わず玄関から顔をのぞかせた。
「黒崎くん」
「ん?」
振り向いて、優しげに微笑んだ彼と目が合う。
「ごめんね。お腹空いちゃった?」
「うん、」
「ふはっ、かーわいっ。もう戻るから。じゃ、またね吉川さん」
いつになく上機嫌な彼の言葉に、彼女は目を見開いて驚いていた。
「あの!」
「ん?」
「やめた方がいいと思ます!こんな男と付き合ってたら、あなたの人生めちゃくちゃになっちゃいますよ!」
「………」
言われて、沸々と込み上げるこの怒りを、どう誤魔化そうか。
「あなたは知らないかもしれないけど、コイツは、!」
「ご忠告どうも」
「え、」
「でもいいの。わたし、この人になら騙されたって構わないから」
言われなくても、知っている。
微笑むわたしに、再び大きく目を見開いた彼女が言葉を失った。
「ふふ、よく出来た子でしょ。俺のこと大好きなの」
「なんで……」
「さぁ、何でだろうね。それは名前に聞いて」
にやり。楽しげに笑った彼と目が合う。
「ふふ、顔が世界一タイプだからかな」
「えぇ〜」
本当は、そんなことどうでもいいけど。
同じアパートに住んでいるだけの他人に、これ以上話すことはないと、最後にもう一度作った笑みを彼女へ向けた。
何も知らないのに、よく言ってくれる。
「ねぇ、名前ちょっと怒ってるでしょ」
「そんなことないよ」
「うそ。眉間に皺寄ってるよ〜」
言いながら、グッと人差し指で眉間を押され、黙り込んだ。
「はいあ〜ん」
「………」
「美味し?」
「……美味しい」
「ふはっ、だよね。俺にもあーんして」
「……」
「ほら早く」
身を乗り出し、口を尖らせる彼の顔をジッと見つめた。
「黒崎くん」
「ん?」
だいすき。
呟いて、急に唇を重ねたわたしに、キョトンと目を見開いて固まる彼。
「、どしたの?」
「ううん、深い意味はないけど、」
「そういうとこほんと可愛いよね」
「……」
「もう一回しとく?」
箸を置き、今度は目を瞑ってキスを待っている彼に近付く。
改めて見ると、本当に綺麗な顔。
昔は、この綺麗な顔がくしゃくしゃになるまで、よく笑っていたのに。
最近じゃ滅多に見られない彼の懐かしい笑顔に思いを寄せ、肌荒れ一つないその綺麗な頬に手を添えた。
「黒崎くん」
「おっそいなぁ、」
「…!」
言葉と同時に、目を開けた彼から腕を引かれて唇が重なる。
「……んっ、」
先ほどとは違い、彼の方から角度を変えて重ねられるそれに、自然と声が漏れた。
「ふふ、かわいー。ここ、ちょっと薄くなっちゃったね」
至近距離でジッと見つめられ、無防備に空いた首元に彼の手が触れる。
「新しいの、付けていい?」
「……っ」
返事を聞く間も無く、優しく吸われた首元に体がビクンと反応してしまった。
「えっろい顔……気持ちいい?」
「ん、」
「もぉ〜……俺この後出掛けなきゃなんだけど〜」
わたしの首元に顔を埋め、ぎゅっと抱きついてくる彼の背中へ腕を回した。
出掛けなきゃ、ということは、おそらく新しい仕事が控えているのだろう。
ものによって時間は違うが、しばらくは会えなくなってしまうことを悟り黙り込むわたしに、彼はもう一度顔を上げ、微笑んだ。
「名前」
「ん、」
「だいすき」
わたしも。
言い終わる前に、再び口を塞がれ、わたしの体は床に倒れた。