「あ、」
「……」
初めましての挨拶から数週間。
しばらく顔を合わせることがなかったお隣のお隣さんが、わたしの顔を見て気まずそうに顔を歪めた。
「こんばんは」
「こ、こんばんは……」
「風邪引いちゃいますよ。こんな時間に外にいたら。何か悩み事ですか?」
部屋の鍵を探しながら、外の廊下でしゃがみ込んでいた彼女に問い掛ける。
「下に住んでる、天野さんのことなんですけど……」
「?」
お年寄りを狙った、よくある詐欺だと思う。
確認の隙を与えず、内容を理解させないまま契約を取り付け、不当な代金を搾取する。
わたしも悪質だとは思うが、自分で規約に同意してしまった以上、救いようがない。
返金や解約は難しいだろうね、と告げると、そうですよね……と残念そうに呟いた彼女の気持ちが、よく理解出来なかった。
「吉川さん、でしたっけ」
「はい」
「ずい分正義感が強いんですね」
「え、」
前々から思っていた。
黒崎くんとのこともそう。
何も知らないのに、彼の表面だけを見て、こちらが間違っていると自分の価値観を押し付けてくる。
「あなたがあなたの正義を貫くのは勝手ですけど、そこにわたし達を巻き込まないで」
特に、彼には干渉しないでほしい。
言いかけて、視線が合った彼女のことをジッと見つめていると、そんなわたしの言葉を遮るように、アパートの階段を登ってくる誰かの足音。
「ちょっと」
「あ、」
「人の彼女と密談とかやめてもらっていいですか」
仕事終わりなのだろう。
しっかりとブラント物のコートに身を包んだ彼が、わたしの顔を見て微笑んだ。
「ただいま」
「、おかえりなさい」
普段はあまり見ることがない、作られた笑顔。
その不自然な表情に戸惑っていると、今度は彼女の方に顔を向けた彼が話し出した。
「天野さんのことだけど」
「?」
「金は取り返しといたから」
「え、」
「黒崎くん、知ってたの?」
「うん。偶然聞いちゃっただけだけど。やり方も詐欺っぽいし、ネットに晒すって脅したら一発だったよ」
「脅した!?」
「うん。見舞い金払わしてくれって」
なんでもないことのように言ってのける彼は、そのまま黙り込む彼女に向けて話を続けた。
「その程度のことなの。シロサギにとっては。面倒が起きそうならさっさと引き上げるだけ。どうせあっちは法に従う気はないんだから、こっちだって……」
ガタン。
言いながら、部屋に入ろうとした彼の行く手を阻むように、彼女が部屋の扉を押さえつけた音が響く。
「確かに、法律は完璧じゃないよ。自分の身は、自分で守らなきゃならない場合だってある」
「………」
「でもだからって、」
天野さんは、騙されたことに傷付いている。
問題はお金じゃない。
騙された事実を騙したことで返したって、あの人は喜ばない。
そう言って、黙り込む彼に自らの価値観をぶつけた彼女に、一瞬の沈黙が流れる。
「お金が戻ってくるからって、何をしてもいいわけじゃない」
「………」
だから、踏み込まないでほしかった。
何も知らない赤の他人が、正義感だけで彼を追い詰める。
それを分かっていたから、関わらないでほしかったのに。
「……金で死ぬ人間がいるのに?」
そう言って、見たこともない冷たい視線を彼女に向ける彼の姿にゾッとした。
「吉川さん、検事を目指してるんだってね」
「え、」
「俺は検事って連中を知ってるよ。負けるのが怖くて、不起訴を連発する。見えやすい犯罪には、正義面して食いついてくる。どうせ何も出来ないのに」
「……」
「おめでたいね。現実も知らずにそんなもん目指してるなんて」
痛いほどに知っている。
犯罪に巻き込まれた当事者だからこそ、法という壁の前に何も出来なかった大人と、自分達。
だからこそ、今こうして生きるしかなかった彼の言葉は、悲しいほどに、わたしの胸にも突き刺さる。
「名前」
「黒崎くん、」
「寒いからもう部屋入りな。風邪引くでしょ」
ニコリと笑って近付いてきた彼から香る知らない匂い。
その綺麗な身なりが、まるで彼をわたしの知らない誰かのように見せている気がして。
言いようもない不安に包まれた。
「黒崎くん……」
「現実って何?」
うつむく彼の手を、ぎゅっと握りしめる。
「あなたはどんな現実を知って、そうなったの?」
振り払われそうになる手を、力すぐで握り返した。
「その現実が、今こんなことをしてる理由なの?」
ごめん。
そう言って、彼女の言葉に何も返すことなく、わたしの手を解いた彼が部屋に入った。
踏み込んではいけない。
分かっている。
名前だけは巻き込まない。
そう言って、仕事の間は絶対に会わないと約束をしたのは、わたしが彼の枷になってはいけないから。
詐欺師として別の誰かになりすます彼が、わたしに会うことで本来の彼に戻ってはいけないから。
数年前。
最初の仕事に向かう彼がわたしに願ったその約束は、今まで一度たりとも破られたことは無かった。
「あの、」
「干渉しないで」
「……」
「お願いだから、もうこれ以上彼に関わらないで、」
呟くわたしに、さすがの彼女ももう何も言ってはこなかった。