好きな人がいる。
「〇〇さん」
「あ、橋さんお疲れ様です」
「お疲れ様!ねぇ髪色暗くしたでしょ?」
「ふふ、気付きました?」
「当たり前じゃん!来てすぐ分かったって!」
出版社の雑誌編集に異動してから一年。
月に一度、誌面を飾るアイドルの一人として会えるその人は、
本来であれば、わたしのような一般人が好きになるべき相手ではない。
分かってはいたが、
天性の人懐っこさで気さくに話し掛けてくれる彼を無視できず
一緒に仕事をしていくうちに、
ただの挨拶だけだった関係が
自他共に認める仲の良い仕事仲間になってしまった。
「もぉさ〜……ほんと沼、橋海人怖い、好き……」
「はいはい今日も募ってんねー」
「会う度好きにさせてくるってズルくない?」
「そりゃ向こうアイドルだからね」
「うぐぅ…っ…しぬ、」
30歳を目前に、まさか自分が
歳下のアイドルに恋をするなんて思ってもみなかった。
しかし、好きになってしまったものは仕方ない。
優しくて、可愛くて、かっこいいだけじゃない。
常に周りにいる誰かを愛し、明るく包み込んでくれる
あの太陽みたいな笑顔を見ているだけで、
わたしまで幸せになれるのだ。
「はあぁ………好き、」
どうしよう。
もう、橋海人以外好きになれない。
すっかり惚れ込んでぐずぐずと呟くわたしに、
事情を知る友人が、好きなだけ飲め、と慰めの言葉をくれた数日後。
アイドルである彼に、
そんな無相応な気持ちを抱いてしまった代償か。
わたしは、わずか一年で
担当していた雑誌の編集を離れることになった。
「———というわけで、一年お世話になりました」
早いもので、最後の現場当日。
何も知らない彼に異動の件を告げると、
いつもの笑顔からは想像出来ないほど悲しそうな顔で
何で?と小さく呟かれた。
「何で……と言われても、異動は会社の判断なので、」
「断れないの?」
「無理ですよ」
わたしだって、断れるものならそうしたい。
けれど、そんな勝手は許されないし、
正直、良い機会だと思った。
アイドルである彼を好きになってしまった以上、
この辛さから抜け出すには、離れるしかない。
「分かった」
「じゃあ………」
「最後に一個だけお願い聞いてくれる?」
「お願い……?」
「そう。連絡先教えて」
「え、」
ダメに決まっている。
誌面に写る側の芸能人と、それを作る側の裏方。
絶対に交わってはいけない関係だからこそ、
今までどんなに仲良くしていても、そういう事だけは避けて来たのに。
「お願い」
「無理です」
「何で?最後なんでしょ」
「最後だからって関係無いです。わたしと橋さんは、」
「友達じゃないの?」
「え、」
「俺達、普通に仲良くすることも出来ないの?」
例えば、もし彼がアイドルではなく、
普通の会社員だったら———。
言われて、悲しそうに眉を寄せる姿に、つい考えてしまった。
「俺、これで〇〇ちゃんと会えなくなるなんてやだよ」
「………」
「せっかく仲良くなれたし、これからも色んなこと話したい」
そんなの、わたしだって同じだ。
せっかくここまで関係を築き上げて
上手に、なんとか仕事仲間としての距離を保ってきたのに。
会えないなんて辛すぎる。
けれど、これ以上近付いてしまえば、きっともう戻れない。
「橋さん、そろそろメイク入っていいですか?」
「あ、……」
「お時間取らせてすみません。わたしからはもう、」
「俺ちょっと△△さんに確認があるんで、
他のメンバーから先にお願いできます?」
「え、」
分かりました、と彼のお願いを聞いて
すぐに行ってしまったメイクさんの背中を見送り、
戸惑うわたしの腕を橋さんが掴んだ。
「ちょ、…」
「もういいわ。分かんないなら、全部俺から言うんで」
「え、」
「来てください」
少し怒った様子で歩き出すと、
スタジオから離れたメイクルームの一つを確認し、
中に誰もいないことを確認した彼が、わたしの腕を引っ張った。
「あの、」
「いい?俺が今から話すこと。よく聞いて」
部屋の扉が閉まるなり、
掴んでいた手を包み込むように繋ぎ直した彼と目が合う。
「〇〇ちゃん。
俺ね、誰にでもこんな話し掛けたりしないよ」
「え、」
「〇〇ちゃんって、下の名前で呼んでるのも一人だけだし、
髪型とか、ネイルとかも。気にしてるのは〇〇ちゃんだから」
すり、と握られた手の甲に彼の指が滑る。
ゆっくり、労わるように。
まるで自分が彼女になったかのような錯覚を起こすくらい、
甘く、優しい触れ方だった。
「好き」
「え、……」
「〇〇ちゃん、大好き」
真っ直ぐ見つめられ、
少し困ったように微笑む彼の姿に言葉を失った。
「あはっ、その顔。
やっぱりなんにも気付いて無かったんだ」
「……え、あの、……」
「俺ね、ずっと〇〇ちゃんのこと好きだったんだよ」
「、うそ………」
「嘘じゃない。初めましての日から、一生懸命仕事してる姿とか、
真面目に俺達のこと考えてくれてる姿見て、すげー良いなって思ってた」
だけど、〇〇ちゃんは俺のことそんな風に思ってないだろうし。
何より仕事しに来てるのに、
そんな風に思われてるの知ったら嫌だろうなって。
言われた言葉が、
そのまま自分の気持ちを表しているみたいで
信じられなかった。
「っわたしも……」
「え、」
「わたしも、そう思ってた、……っ」
ずっと、
ずっと好きになってはいけない相手だと思っていた。
相手はアイドルで、芸能人で。
わたしみたいな普通の人間が好きになってもいい相手ではないと、
ずっと、この気持ちを押し殺してきた。
「同じって……そういうこと、?」
「っ、」
「好きって、思ってくれてた?」
不安そうに、顔をのぞき込んで聞いてくる彼に
力の限りうなずいた。
「ッ、」
「……?!」
気付けば、ぐいっと腕を引かれ、わたしは彼の腕の中。
「っマジで嬉しい……!」
「橋さ、」
「好きっ、大好き!マジで〇〇ちゃんのこと大好きだからさ俺、」
「……っ」
よりによって、ちょうど耳元に声が響く。
今まで、どんなに好きでも
触れることすら許されなかった相手から
抱き締められているというだけでも緊張するのに。
そんな甘い言葉を、急にたくさん言わないでほしい。
「あの、橋さ……」
「海人がいい」
「そんなこと、」
「呼んでくれないならキスするよ?」
「キっ……!?」
ダメだ。
耐えられない。
ぎゅうぎゅうに抱き締められた腕の中
わざと少し低い声で囁かれ、全身に熱が走った。
芸能人とか、アイドルとか。
体裁とか建前とか。
今まで気にしていたそんな事を全部吹き飛ばすくらい
その甘い声は、
優しく、そしてしっかりとわたしの中に入り込んだ。
「〇〇ちゃん」
「…あの…っ待って橋さん、」
「あはっ、橋さんって言った〜!チューしちゃおっと!」
「っ……!」
軽く唇に触れるだけのキスが一回。
「………顔真っ赤」
「…っ…」
そして、呟かれた直後。
先ほどとは別人のような顔をした彼から
角度を変えて再び唇を奪われた。
「……っ、ぁ、……橋さっ、」
「海人」
「…っ、……」
「いいから、名前呼んで」
小さく呟き、頬に添えられた手がゆっくりと唇に触れる。
「…っ……かいと、くん……」
「ん、よく出来ました」
名前を呼べば、
きゅっと優しく目を細めてキスをしてくれた。
啄むように、触れては離れ、また重なり
たまに柔く唇を挟んでは、ちゅ、と音を立てて離れる仕草に
いちいち胸がきゅんとした。
「……〇〇ちゃん、」
「ん、かいとくん……っ」
「大好き……」
言葉と同時に、ぎゅうっと強く抱き締められて諦めた。
そもそも、最初から無理だということは分かっていたけど。
わたしは、もうこの人以外好きになれない。
「……大好き、」
海人くん。
言い終わる前に、再び重なった唇に目を閉じた。