わたしを見つめ、驚きに目を丸くする晴は、どうやらわざとここに来たわけではないようだった。

しかし、問題はそこではない。

ここは温泉。脱衣所とはいえ、わたしはまだ軽く浴衣を羽織っただけであり、晴に至っては、なんと腰に一枚タオルを巻いただけだった。


「名前ー?どした?なんかあった?」
『……あ、えっと………』
「…………」
『ごめん、その……虫が、』
「マジで?平気?」

上半身裸の晴から目を逸らし、慌てて紫耀くんからの問いかけに答えた。

苦し紛れの言い訳にしては、上手くいった方だと思う。


荷物をまとめて、一刻も早くここを離れなければ。

何も知らない紫耀くんの声に、どうか晴が気付きませんように。


こちらを見つめ、ジッと立ち尽くしたままの晴に戸惑いながら、その横を通りすぎる直前ーーー。


『晴……?』
「待て」
『え、』


後ろから、グッと強く掴まれた手に振り向く。

目が合うと、その手は強引に引っ張られ、よろけた体は、すぐ目の前の大きな体に包まれた。




『………はる、と……?』



一体、何が起きているんだろう。

突然のことに、戸惑いながらも名前を呼べば、返事の代わりに、ぎゅっと強く抱き締められた腕に力がこもった。



分からない。

今、目の前にいるのが本当に晴なのか。


甘えるように、遠慮がちにわたしの首元に頭を埋める姿を見て、何よりもまず戸惑った。



「おーい名前ー、生きてるー?」
『………ぁ、』


繋がったままだった電話の向こうにいる紫耀くんの声は、いつもとなんら変わらない。

このシンとした空間で、そんな何気無い声にホッとしたのもつかの間。


「………チッ」
『ぇ………』
「うるせぇんだよ」


小さく呟いて、床に落ちてしまったわたしの携帯を蹴飛ばした晴は、酷く苛立っていた。


強い口調は、きっと彼が怒っているから。

しかし、何故晴がそこまで感情を露わにするのか。
何に怒っているのか。

今、晴が何を考えているのか、全く分からなかった。




『晴………?ねぇ、なんなの、』
「うるせぇ」
『急にそんなこと言われたって分かんないよ……わたし、晴に何かした、?』
「うるせぇ」
『っ……うるせぇうるせぇって、何がそんなに……』

気に入らないなら、きちんと言ってほしい。

何が嫌で、何が気に食わないのか。


ぶつけられるのは、一方的な否定の言葉だけ。

そんな突然の事態に、うまく対応できる余裕なんてわたしにはない。


『………っ、』


油断すれば、今にも泣いてしまいそうだ。

潤む瞳をぎゅっと閉じると、再び耳元に響く舌打ちの音。

続けて、大きな溜め息を吐いた晴の苛立ちが嫌でも伝わってきてしまい、じわりと目元が滲んでいくのを堪えることが出来なかった。



『……離して』
「………」
『晴、聞こえてるでしょ』
「…………」
『っ、都合が悪い時ばっかり、そうやって黙り込んで……』

わたしの気持ちなんて、これっぽっちも考えてくれない。

『晴、っ』
「………」
『晴……!』

もういや。

離して。


小さく呟き、両手で目の前にある肩をグッと押し返した。



「……るせぇよ、」
『……………ぇ、……っ』
「るせえっ……!」


乱暴なその言葉と同時に、響いたのは小さなリップ音。

ちゅぅ、というその音は、やがて生温かい感触とともに耳殻を辿り、耳たぶ、首筋へと移動した。


『……っ……、は、』


晴?

はると?


呼び掛けた声は音にならず、軽く水気を含んだままだった髪にその手が差し込まれると、もう一度耳たぶを挟もうとしたその感触に、思わず顔を背けてしまった。


『、…やっ……!』
「逃げんな」
『……っ、』


怖い。

こんな晴知らない。


『っはると、やめっ、………っ』
「黙ってろ」
『……っ…ゃ、!』


一刻も早くここを離れなければと思うのに、背中に回った腕が、それを許してはくれなかった。


耳元に触れていた唇が首筋に降り、そのまま、鎖骨を辿って胸元の辺りに触れる。

浴衣の合わせは強引に崩され、そこに舌が這う感触を嫌がっても、抵抗する手は抑え込まれた。


『っや、ぁ………!』
「ん、」


柔く触れた唇は、ちゅ、ちゅ、と音を立てながら何度もわたしの肌を吸い上げる。

その度に、ダイレクトに肌にかかる吐息の熱さが怖かった。


「名前、」
『……っぁ、……はる……っ、』
「……」
『…やっ…、!』


どうして、晴はこんなことをするんだろう。

いくらそういうことに疎いわたしだって、これがどういう関係の上で成り立つ行為かくらいは分かる。


幼なじみは、決してこんなことはしない。

それは、もちろん晴も分かっているはず。

だから、もうこれ以上進んではいけない。


晴とわたしに、この先は無いのに。



『………だめ、っ……はると、……』
「ん……?」
『っ、……ゃっ、』


崩れ落ちそうになる体を支えられ、執拗に送られる口付けからなんとか逃れようと、目の前にある晴の腕をぎゅっと掴んだ。


熱い。

触れられるだけで、お腹の奥からじわじわと熱を持つ体は、今にも壊れてしまいそうなのに。

それでも、心の奥は冷え切ったように寒かった。


『……ゃ、っ』
「かわい……名前、」
『っ……』


ねぇ、晴。

どうしてこんなことをするの。


晴には、好きな子がいるでしょう。


『………っめて、……っ』
「……、?」
『っも、ゃだ………』


わたしのことなんて、好きでもなんでもないくせに。


『……っぅ……っ、』
「名前………?」
『……ッ』


わたしのことなんて、ただの幼なじみとしか思ってないくせに。



『っ、や……』
「名前……?」
『いやっ……!』
「……ッ、」


一瞬うろたえた晴の腕から逃れ、反射的に叫んだ。


『触らないでっ……!』
「ッ……名前っ、」
『……っ、』
「悪い、!俺今お前にっ、」
『なんにも聞きたくないっ……』
「名前、」
『、大っきらい……』
「…っ…」
『きらい、っ……も、やだっ……』


慌てる晴から解放されると、わたしの体は、すぐに支え失い、崩れ落ちた。


「名前……悪かった、でも俺はっ、」
『っいや……!』
「名前っ」
『…こないで……』


遠慮がちに頬へ伸ばされた腕から、逃げるように顔を逸らした。


もうこれ以上、晴のことで苦しみたくない。


『……っ、』
「名前、」

『…しょおくん……』
「お、名前生きてたん……」
『た、けて………っ』
「ぇ、」
『……たすけて、っ…紫耀くん、……』


もうこれ以上、傷付きたくなかった。