『紫耀くん!』
「名前?!良かった!大丈夫なの永徳で襲われたって聞いて………」
え……と、言葉の途中で声を詰まらせた紫耀くんが、わたしに触れようとしていた手を引っ込めた。
「その血、まさか………」
「大丈夫だ。名前は怪我してない」
「……晴くん?」
「詳しいことは後で説明する。じゃあな」
約束していたホテルのロビーで、わたしを送り届けた晴が踵を返す。
額に汗を滲ませたその背中を見て、誰に何を言えば良いのか戸惑っているうちに、そんなわたしの横を、見慣れた一人の女性が通り過ぎた。
「晴くん」
「…………はい」
呼ばれて、ゆっくりと振り向いた晴が、
その女性———わたしの母親をジッと見据えた。
「晴って、あの神楽木ホールディングスの……?」
「うん。そこのご子息の晴くん。名前の幼なじみなんだよ」
どうやら、紫耀くんのご両親も一緒らしい。
せっかく両家が顔を合わせる場として、何日も前から予定を組んでいたというのに。その顔合わせが、まさかこんなスタートになるとは。
「名前さん……よね?」
『はい……』
怪訝そうに、汚れたわたしを見つめる紫耀くんのご両親に、何をどう説明すれば良いのか分からなかった。
両親も、おそらく酷く怒っている。
沈黙が怖い。
戸惑いで、声も出ない数秒が永遠にも感じたが、そんな中、うつむくわたしの隣に並んで、最初に声を発したのは晴だった。
「申し訳ありません」
『え………』
「名前さんがこんなことになったのは、全て僕のせいです」
そう言って、なんの躊躇いもなく頭を下げた晴に、すかさずわたしも口を挟んだ。
『違うっ……!晴は何も、』
「彼女は学園で何者かに襲われました。僕はその時一緒にいて、すぐにでも彼女を助けてあげるべきだったのに、それが出来ず、彼女を危険に晒しました」
違う。
襲われたのはわたしのせいで。
晴は、きちんとわたしを守ってくれた。
「その怪我は?」
「なんでもありません」
「そこまでして守るほど、大切なの?」
そう問い掛けたのは、紫耀くんのお母様。
核心をつくようなその言葉に、晴が何を答えるのか待っていると、晴は一瞬黙り込み、そして、優しく笑みを浮かべた。
「僕にとって彼女は、大切な幼なじみです」
結局、最後までわたしのことを支えてくれたのは、晴の方だった。
「彼女とは、小さい頃からずっと一緒にいました。物心ついた頃から、凄くしっかりした奴で、俺がどんなに弱音吐いても、カッコ悪いとこ見せても、見捨てず、そばにいてくれたんです」
「……………」
「俺は、そんな彼女に甘えて………ずっと、当たり前にそばにいてくれると思っていました。けれど、そんな名前が、この前、生まれて初めて俺にワガママを言ったんです」
「ワガママ………?」
「はい。婚約を破棄してほしいって。好きな人が出来たんだって………それが、平野くんです」
わたしの吐いた嘘を、こんなにも優しい顔で話してくれる晴の姿が苦しかった。
「俺が知る限り、名前がこんなに思うのは平野くんが初めてで。だから、今日の食事会のことも凄く大事にしてました。それなのに、俺のせいで、全部ぶち壊してしまって………」
『晴………』
「本当に、申し訳ありません」
何も悪くないのに。
晴は、ただ巻き込まれただけなのに。
わたしの為に、こんなにも必死になってくれる姿を見ているのが辛かった。
「晴くん」
「………申し訳ありませんでした。名前さんのこと、守ってやれなくて」
自分の母親に、そう言って深々と頭を下げる晴を、このまま帰すわけにはいかない。
どうしても、最後にきちんと伝えておかなければと、痛む足を引きずった。
『晴っ………』
名前を呼べば、いつもの様に振り向いてくれる。
この目一杯の優しさに甘えるのも、これで終わりにしよう。
『ありがとう……晴』
伝えた言葉に、返事は無い。
その代わりに、一瞬優しく微笑んだ晴が、こちらへ伸ばそうとしていた腕を引っ込めた。
触れられない。
そのまま去って行く背中を、もう引き止めることは出来ない。
どんなに願い、焦がれても、晴はもう別の誰かの特別で。
わたしには、わたしのことを一番に思ってくれる、晴以外の人がいる。
「名前」
『………紫耀くん、ごめんね、』
「何が?」
『こんな格好で、時間もギリギリだし……』
「うん」
『わたし、』
「うん……」
『………っ』
晴を思って泣くのは、これで最後。
遠慮がちにわたしを抱きしめる紫耀くんの胸に顔を埋めながら、声を押し殺し、泣いた。