「苗字様」
『はい、!』
「申し訳ございません。あいにく、紫耀様は今旦那様とお話中でして、」
『え、ごめんなさいそんな忙しい時に、』
「いいえ。急なお電話でしたので。苗字様がいらしたら、お部屋でお待ちいただくようにと仰せつかっております」
こちらへ、と優しそうな使用人の女性に案内され、辿り着いたのは、建物の2階にある大きな部屋の前だった。
「それでは。失礼いたします」
『はい、ありがとうございます』
訪れたのは、紫耀くんの家である。
暇ならおいでよ、と軽く誘われたのは昨日のこと。
考えてみれば、晴以外の男の人の部屋に入るなんて初めてだったが、返事をした時は、そんなこと考えてもいなかったのだ。
『よし、』
入るぞ、と、緊張しながらも目の前の扉に手を掛け、わたしが意気込んだのと、ほぼ同時だった。
「———から、金ならいくらでも出すって言ってるだろ!」
『………?』
静かなお屋敷には似つかわしくない、乱暴な声。
その切羽詰まった怒号に、思わず体が固まってしまった。
「あれくらいじゃ何も変わらないだろ!実際、本人だってピンピンしてんだよ!」
『…………』
「もう何をしてもいいから、失敗するな」
この距離からではよく見えないが、話しているのは若い男性のようだ。
お金を払うという内容からして、あまり穏やかでないことは分かる。
しかし、この屋敷にいるということは、紫耀くんの家族なのだろうか。だとすれば、それが何故あんな話を?
浮かぶ疑問に頭を悩ませていると、チッと大きく舌打ちをしたその男が、電話に向かって囁いた。
「とにかく、なんとしてでも苗字名前を痛めつけろ」
『……ぇ………』
「成功すれば、報酬は倍払う」
『ッ………!』
漏れそうな声を、必死に抑えて身を縮めた。
殺される。あの日、晴の腕で中で感じた絶対的な恐怖と絶望を思い出し、じわじわと狭まる視界に目眩がした。
「名前?」
『………っ、!しょ、くん………』
「どしたの?なんか顔色悪いけど。もしかして体調悪い?」
『……ぁ、……』
違う。
そうではない。
伝えなければ。
すぐにでも話さなければと思うのに。今まさに目撃してしまったあの光景を、上手く言葉に出来る余裕が無かった。
「紫耀?」
『…っ……!?』
一体誰なの。
怖くて、顔を上げられないわたしに構うことなく、段々と近付いてくる足音に、恐怖で体が強張った。
「あ、もしかして例の彼女?」
「そう。会うの初めてでしょ」
「うん。初めましてかな」
「これ俺の弟」
『え…………』
「どうも。初めまして」
隣に並んだその人を、家族だと紹介してくれる紫耀くんの言葉が信じられなかった。
だって、そうでしょう。
ならば、あの言葉は?
あの日の全ては、この弟さんによって仕組まれたことだったの?
「名前、?どした?」
『…っ……』
混乱で、上手く言葉が出なかった。
『しょうくん、』
「ん?」
『その人………』
「え?」
『その人、っ………犯人、』
「は……?」
呟いて、指差した先には弟さんがいる。
初めましてで、なんの言葉も交わすこと無く犯人だなんて。突然そんなことを言われても、混乱するのは分かっている。
しかし、どうしても黙っていることは出来なかった。
「犯人って……名前、何言ってんの」
『だから、この前の………』
「名前が襲われたやつ?」
わたしの顔をのぞき込み、優しく聞いてくれる紫耀くんにうなずく。
「いや、それは………」
『嘘じゃないのっ……』
紫耀くんにとっては、大切な家族だ。
もちろん、信じられない気持ちも分かる。
しかし、わたしだって、嘘でこんな酷いことを言うつもりはないし、紫耀くんにだって、それは分かっているはずだ。
「何かの勘違いじゃないですか」
『え………』
「だって、僕が貴方にそんなことをして、なんの得になるんです?」
『それ、は………』
言い淀むわたしを見て、ニコリと微笑んだその人のことが怖かった。
「紫耀に聞いて、ずっと会えるのを楽しみにしてました」
『ッ………』
「本当に、お綺麗な方ですね」
『よくも平気でそんなことっ……!』
さすがに、冷静でいられなかった。
あの話し方から察するに、おそらく、この人は金を使って、あの時の男にわたしを襲わせていたのだろう。
それが何の為で、どんな思惑の果てに仕組まれたことなのかは分からないが、少なくとも、その卑劣な犯行の犠牲となり、傷付いた人がいるのだ。
「名前、こっち見て。一旦ちょっと落ち着こ?」
『紫耀くん………』
「もしかしたら、なんかの勘違いかもしれないし」
『…え………』
わたしの目を見て、少し困ったように笑う紫耀くんの姿に言葉を失った。
だって、今、なんて言ったの?
勘違い?
わたしが?
「俺の弟と名前、今日が初めましてでしょ?」
『それ、は………』
「仮にもしそうじゃなかったとしても、コイツが名前のことを襲う理由が、俺には分かんないんだけど、」
紫耀くんの言うことは、確かに筋が通っていた。
だって、わたしにも分からない。
今まで、言葉を交わすどころか、顔を合わせたことすら無かったのに。
それが何故、あんな事になったのか。
「一回落ち着こ」
『紫耀くん、』
「名前、今日やっぱりなんかおかしいよ、」
確かに、説得力の無い言い分だとは思う。
しかし、わたしは嘘など吐いていない。
それを分かってほしいから。
ただ、話を聞いてほしいから。
だから、あなたの名前を呼んだのに。
『……………もういい、』
「え………?」
掴まれた腕を振り払い、心配そうにこちらを見つめる彼に呟いた。
『紫耀くんは、信じてくれないんだね………』
わたしの言葉は、どうやら彼には届かなかったみたいだ。