「———んだよ、追いかけてくるのは俺の方か」


悲痛な表情で、立ち止まる俺の前に現れた男が口を開いた。


「晴くん」
「んだよ」
「何であんなことしたの」


平野紫耀———。
名前の婚約者でありながら、アイツのことを傷付けた男。


「お願いだから、名前にはもう近付かないでくれない?」


あの時、俺が必死だったように、コイツだって同じくらい必死なんだろう。

顔を見れば、それくらいのことは分かるが、かと言って、はいそうですかと容易にうなずけるような話では無かった。



「晴くん、西留めぐみと付き合ってるんでしょ」
「俺達のことはお前には関係ない」


そもそも、今そんなことを言われたって、名前を取られない為の言い訳にしか聞こえない。

そんな中途半端な奴に、大切な幼なじみを預けられるわけないだろう。



「俺は、俺のしたことに責任を持つ」


もう、下らない意地を張るのはやめた。


「ちゃんとケジメは付ける」


カッコ悪くても。
今さら遅いと言われても。


「俺は名前を諦めない」



そもそも、最初から諦めるなんて無理だった。

どんなに忘れようとしても。
どんなに離れようとしても。

きっと、俺の中にいる名前の存在は、一生消えることはない。



「晴くん、」
「俺が諦めるって決める時まで、周りがなんと言おうとアイツを諦めない」


今後こそ。
もう二度と名前のそばから離れない。



「名前の気持ちは?」
「気持ちだ?……アイツのこと信じてない奴に、気持ちがどうのこうの言われたくねぇよ!」



今でも鮮明に思い出せる。
こいつのせいで、人目もはばからず、子どものようにわんわん泣いていた名前。

俺よりずっと大人で、しっかりしている名前が、あんな風に泣くなんて。きっと、それだけコイツとのことがショックだったんだろう。

それを分かっていながら、大切な女を差し出すバカがどこにいる。



「晴くん、言ったよね」
「あ?」
「あの日、病院で。名前をよろしくって」
「あぁ」


"お前………名前のこと好きなんじゃないの?"


数週間前。病室で顔を合わせたコイツに、俺は一言だけ告げた。


「言ったろ、好きだって」



"当たり前だろ。好き以外にあるか。"



俺にとって名前は、たった一人の特別だ。



「渡さねぇよ」


呟くと同時に、険しい顔をして黙り込む目の前の男を睨み付けた。



道端で、互いに視線を外さず何秒そうしていただろう。


必死過ぎて、全く気付いていなかった。



「晴くん」
「………ぇ……」


優しく、静かに響く声の元を辿れば、そこには、見覚えのある綺麗な女性が立っていた。




「お、母様…………?」
「紫耀くんもお久しぶり。まさかこんなところで会うなんてね」


呆然と立ちすくむ俺達に、それぞれ視線を向けたその人が微笑んだ。



「おばさん、何でここに、」
「何でって、すぐそこがお家だもん。久しぶりに帰って来たら、娘の元婚約者と今の婚約者が何か話してるから気になって」
「まさか、今の話、聞かれてたんですか?」
「少しだけね。全部ではないけど」


平野紫耀の言葉に、そう言って俺を見つめたおばさんは、既に笑っていなかった。


「晴くん」
「はい」
「何があったか知らないけど、名前の気持ちをもう一度取り戻したいなら、好きにしなさい」
「っそんな、それじゃあ名前の気持ちは……!」
「今さら晴くんに好きだと言われて戻るくらいの気持ちなら、あの子は貴方を婚約者に選んだりしない。名前のこと、信じてないの?」
「っ………」


まるで、全て知っているかのような言葉だった。

狼狽える平野に、ニコリと口角を上げる姿が少しだけ怖い。


「って言っても、全部名前のせいね」
「え、」
「あの子、良くも悪くも自分の感情を殺しがちだから。2人とも、納得するまでちゃんと話せてないんでしょう」


俺も平野も、その言葉には何も言えなかった。


方や、婚約者だったはずなのに、その立場に甘えて名前を失った俺。

そして、現婚約者でありながら、名前のことを信じられず、拒まれた平野。

状況は違えど、互いに彼女を傷付け、後悔しているということは確かだった。



「私はね、正直名前が幸せなら、どちらと一緒にいてくれても構わないの」
「……………」
「だから、晴くんがどうしてもって言うなら、名前の気持ちを確認した上で、もう一度婚約者になってもらうのも良いと思ってる」
「そんなっ……」
「ただ、一度破棄した契約を、そう簡単にもう一度結ぶことは出来ない」


だから………。

そう言って、俺の方に視線を向けたおばさんは、再びニッコリと口角を上げた。


「晴くん、紫耀くんに勝ちなさい」
「え、」


突然の言葉に、思わず開いた口が塞がらなかった。



「紫耀くん、運動は割となんでも出来るわよね」「まぁ、基本的には、」
「じゃあ、弓道。この前全国大会で優勝してたし、それくらいのアドバンテージが無いと失礼でしょ」
「待ってください。勝つって、まさか晴くんが弓道で俺に、ということですか」
「そうよ」
「いくらなんでも、それじゃ晴くんが不利すぎるし、そもそも俺は勝負なんてするつもり……」
「んだよ、逃げんのか」
「は………?」


突然の提案に、混乱している暇なんて無かった。


「………いいの?そんなこと言って。後悔するのは、晴くんの方だと思うけど」
「あぁ」


正直、勝てる見込みなんてこれっぽっちも無い。

それでも、ゼロだった可能性が1になるなら。やらないより、やって後悔する方がずっと良いと思った。



「まぁ、晴くんが勝って、わたしから名前を説得しても、あの子の気持ちを動かせなければそれまでだけど」
「はい。分かってます」


例え、それがどんなに険しい道だとしても。

もう、二度と名前を失うわけにはいかないから。