大学の敷地内で、まさかこんな事が起こるなんて、思わないじゃないか。「危ない!上!」「え、」聞こえた声に、顔を上げるも、何が危ないのかは分からない。一体何?戸惑い、訳も分からず首をかしげると「!?わっ、」体が、急に何かに覆われた。この間2秒。「っ、大丈夫!?」え、誰。

顔を上げると、そこには知らない男の子がいた。
「え、あ…」「ごめん、ちょっと間に合わなかった」にへら、と柔らかく笑う姿は、カッコイイというより、可愛らしい感じだ。言われて、呑気に見惚れていると、そんな彼の髪から、ポタポタと垂れる雫が、わたしの顔にも落ちてきた。

「ちょっとぉ!危ないでしょー!」「わりぃ海人ー!」どうやら、彼は『かいと』というらしい。建物の二階から手を合わせる誰かに、むーっと頬を膨らませているのを見て、大体の状況は分かった。なるほど。どういう訳か、あの誰かさんが落としたバケツから、わたし達は、水を被ってしまったのか。

「あの、かいと、くん、?」「あれ、名前言ったっけ?」「今、」そこの彼が、という意味も込め、二階を指すと「あぁ!」と納得した彼が笑う。「橋海人です!海の人って書いて、海人!」「あ、うん、えっと…」別に、自己紹介をして欲しかったわけではない。

風邪を引くから、早く体を拭いてほしい。そして、出来れば一刻も早く、そこからどいてほしい。助けて貰った手前、強くは言えなかったが、わたしを守るようにして覆い被さってくれた彼との距離は、なかなかに近い。また一つ、彼の髪から落ちた雫が、わたしの顔に落ちた。

「これ、使って」「え、いいの?」「うん」「ありがとう!」差し出したハンカチを受け取り、嬉しそうに笑う海人くんが、やっとわたしの上から退いた。お礼を言うのは、こちらだというのに、なんて素直な人なんだろう。ニコニコしながら「アハハ、つめたー」と笑う姿に、驚いた。

「ありがとう」「いいえ〜」「でも、それじゃ、乾かないよね」「う〜ん、夏だし、ぷらぷらしてたら乾くでしょ。……いいや、もう脱いじゃえ」「えぇ?!」貸したハンカチでは、到底乾き切らないと察したのか。海人くんは、そう言って、着ていたTシャツの裾に手をかけた。

こんな所で脱がないで!でも気持ちわりーもん!止めるわたしと、脱ごうとする海人くん。二人でしばらく攻防を続けた結果、何処かでドライヤーを借りようという結論に至り、水泳部を訪れた。「海人くん、どう?」「ん〜 あっちぃ〜」季節は、夏。温風で髪を乾かす海人くんは、むっと唇を尖らせた。

「ドライヤー、使う?」「ううん、わたしは大丈夫」数分後、すっかり髪を乾かし終えた海人くんが振り向く。彼のおかげで、わたしはほとんど濡れていない。それでも、浴びた水飛沫が気になったのか。「髪、濡れてるじゃん」とこちらを指差した彼の口元が、少し切れていることに気付いた。

「海人くん、」「ん?」よく見れば、なんの手当てもされていないのか。少し血が滲んだままのそこは、新しい傷のようだ。「ねぇ、そんなに見られたら照れるんだけど」「傷、化膿しちゃうよ」「かのー?」「うん」わたしの言葉に、キョトンと首をかしげた彼は、何も分かっていないようだ。

なになに?どうしたの?と、急に立ち上がったわたしのことを視線で追いながら、頭にハテナを浮かべている海人くんに、水道で、少し濡らしたハンカチを差し出した。「口、ちゃんと洗った方がいいよ」「あ、」自覚はあるのか。一瞬、ギクリと目を丸くした彼が、気まずそうに眉を下げた。

理由は分からないが、あの傷は、ただの怪我ではないだろう。高校の頃、クラスメイトがイザコザを起こし、殴り合いの喧嘩をした時のことを思い出す。こんな人畜無害そうな人が、まさかとは思うが、気まずそうに笑う姿を見る限り、何か事情があるのだろう。

「ありがと。でも大丈夫、ハンカチ汚れちゃうし」「そんなのいいよ。そもそも、使い回しのハンカチだから」気にしないで。笑って言うも、う〜ん、と口を尖らせる姿に、ハンカチを握り直た。「、え、ちょ、」「喋らないで」腕を伸ばし、傷付いた彼の口元を優しく拭う。

「家に帰ったら、ちゃんと消毒してね」「、そんなの無い」「じゃあ、帰りに買って」「お金無い」「え?」「今日、どこにも寄る予定無かったんだもん。財布と免許証しか持ってない」「……」男の子って、そういうものなんだろうか。わたしの言葉に、悲しそうに眉を下げる彼の姿は、完全に子犬だった。