新と初めて会ったのは、高校生の時。

同じ委員会に所属していたのが、最初のキッカケ。
隣いい?と、空いていた席に偶然座った男の子が、彼だった。


特別モテるわけでもない。
勉強もそこそこ。運動もそこそこ。
自慢できるところなんて何も無いよ、と本人は笑っていたけど、わたしは、そんな彼の不器用ながらも優しいところが、大好きだった。


「え……やめるって、今の、救急を?」

約束の朝。
疲弊しきった表情で帰宅した彼を座らせ、朝食を作っていたわたしに、あのさ、と呟かれた声は、今にも消えてしまいそうだった。

「俺には……やっぱ、無理だった」
「………」
「経験も実力も無いし、足手纏いになるだけで、なんも出来なかった」
「………」
「足は竦んで動かねーし、全部、見てるのがやっと」
「でも、最初は誰だってそうでしょ。初めから全部出来る人なんていないよ」
「それは分かってる。けど、なんつーか……そういうんじゃない」

新に教わり、いつの間にか綺麗に作れるようになった卵焼きが完成したところで、わたしは、朝食を作る手を止めた。

隣に立つ新は、今にも泣きそうな、思い詰めた表情のまま、目を伏せる。

「俺には、できない……」
「……」
「いくら実力をつけたって、経験を積んだって、それが、全部報われるわけじゃない。必死に頑張ったって、努力したって、結局、出来ないことは、出来ないんだよ………」

同じ医者という仕事でも、場所や環境が違うだけで、ここまで人を疲弊させてしまうのか。

苦しそうに顔を歪め、うつむく彼に、なんと声を掛けていいのか、分からなかった。


わたしの仕事は、彼とは違う。
どんな仕事にも、それなりの責任があり、皆、それぞれたくさんの物を背負い、生きている。
しかし、その責任や重圧が、彼にはとてもキツイのだろう。

「新、」
「……」
「辛くなったら、すぐ会いに来るよ」
「……」
「何かあったなら、いつでも話聞く」

だから、頑張って? 元気だして?
今の彼には、どんな言葉を掛けることが、正解なんだろう。

ありきたりで、その場凌ぎにしかならない。安っぽい言葉の羅列に、情けなくなった。


彼は、わたしが決めた将来の目標を、一番に応援してくれた人だ。
〇〇なら出来る!と、自信たっぷりに背中を押してくれたことを、今でもよく覚えている。

「新、」
「すぐって、どうやって?」
「え、」


大切な人の、力になりたい。
大好きな彼の、支えになりたい。

気持ちだけが焦って、悩むことしか出来ないわたしに、新は、ゆっくりと顔を上げ、呟いた。

「俺が働いてる間、〇〇は寝てるじゃん」
「…ぇ…」
「会いたいって言っても、時間は合わないし、話したところで、なんか変わんの?」
「それは、」
「……〇〇には、一生分かんねーよ」
「………」
「小さい子相手に、ただニコニコしてればいいだけの〇〇と、俺は違う」
「………」

いつの間にか交わっていた視線が、下を向く。

逸らされた目と、ぶつけられた言葉の意味は、やがて、ゆっくりとわたしの心を蝕んだ。

「そうだね、」
「……」
「わたしには、何も分からない」

新の辛さも、苦しさも。
話してもらわなければ、理解する事も出来ない。

しかし、分からないからこそ、理解してあげたいと思うこの気持ちは、彼にとっては、無駄なのだろうか。

「余計なこと言ったなら、謝る」
「……」
「何も出来ないのに、でしゃばってごめんね」
「……」

未だ、うつむいたままの彼は、わたしの言葉に、何も言わなかった。

「話したくないなら、何も話さなくていい」
「………」
「嫌なら嫌、疲れたなら疲れた、もう無理だって思うなら、その言葉だけでも、わたしはいくらでも聞く」
「………」
「でも、バカにされるなら話は違う」

ちょうど良い具合に温まりきったお味噌汁の火を止め、隣に立つ彼の方へ、一歩近付いた。

しかし、新、ともう一度声をかけても、目を合わせようとしない彼に、ふつふつと込み上げた怒りは、大きくなる。

「辞めたいなら、辞めていいと思うよ」
「………」
「確かにわたしは、新みたいに、人の命に関わるような仕事をしてるわけじゃない。目の前で誰かがいなくなることも、自分の判断で、誰かの人生を左右することもない」
「………」
「でも、そんな風に言われなきゃならないほど、無責任な仕事はしてない」


高校生の頃。新に背中を押され、一生懸命勉強し、今の仕事に就いた。

確かに、妹の為、並々ならぬ努力をし、ようやく医者になった彼とは、その重みは違うのかもしれない。

しかし、誰よりそばで、この仕事のことを応援し、励ましてくれた彼にだからこそ、そんな言葉は、言ってほしくなかった。


「……ご飯、ちゃんと食べてね」
「は?〇〇は、」
「帰る」
「え、」
「わたし、怒ってるから」
「、」
「正直、俺には無理だって、最初から諦めて、何もしないような人に、務まる仕事でもないと思うよ」
「はあ、?」
「じゃあね」

最後は、こちらも八つ当たりだった。
売り言葉に買い言葉。いい大人が、一体何をしているんだと情けなくなったが、素直に謝る気にもなれなかった。

一度、頭を冷やした方がいいのだろう。
わたしも、新も。
今は一緒にいたって、きっと冷静な話は出来ない。

しばらく離れて、気持ちが落ち着いたら、その時に謝ろう。


部屋を出てすぐ、深澤と書かれた表札を見つめ、泣きたくなった。



本当は、喧嘩なんてするつもりじゃなかったのにな。

堪えようとすればするほど、ツンと鼻の奥が痛くなって、目が潤んだ。


「あの、」
「………あ、ごめんなさい」

危うくこぼれそうになった涙を拭い、その場に立っていた女性に、頭を下げた。

彼女もきっと、新と同じ病院で働く一人なのだろう。

綺麗な人だったな。
目が合った瞬間、不思議そうに首をかしげたその人をことを思い出し、もう一度目元を拭った。