「あっ」
二藍玻瑠が声をあげたとき、彼女の左手に握られていた三段重ねのアイスクリームはすでに1段と半分になり、のこりはコンクリートの上に落ちて潰れていた。
11月も初めだというのに三段重ねのアイスクリームを食堂のテラスで食べようとしているのは大学構内広しとはいえ玻瑠だけだろう。今日は特に冷え込んだ。気温は5度を下回り、辺りの学生たちはコートやマフラーなどの防寒具を身につけ始めている。彼女の隣で湯気を立てるホットラテを飲んでいた星野潤は呆れたように言った。
「どうしてここの生協、11月なのにアイスクリームを売るのかしらね」
「そうだよね。夏場だけにしてくれたら、わたしみたいな学生がつられて買うことも無いのにさ」
「肉まんにしておけば良かったのに。あたたかくておいしそうよ」
「でも冬に食べるアイスっておいしいの。悪魔的だよ」
波瑠は震えながらもワッフルコーンの先まで食べ終えて、べたつく唇を舐めた。
波瑠と潤の通う私大はそこそこ名のある大学である。その分校が数年前に杜王町に作られたのだ。長閑ながらも計画的に設計された街並みの中に、近代的なキャンパスはよく似合っていた。
杜王町はS市のベッドタウンとして発展しただけあって、計画的に設計された近代的な町であった。変わった噂や都市伝説の多さもさることながら、行方不明者と不良が多いのが悩みどころだが、それを置けば非常に住みやすい街なのだ。だから波瑠は、奨学金を借りてアルバイトをしながら通っている大学生活も悪くはないと思っている。
「ところで、話したいことがあるんじゃないの?」
潤が細身の腕時計を一度見て、波瑠に向き合った。彼女の声は柔らかで、それでいて芯がある。落ち着いた声に名前を呼ばれれば自然と視線が上がった。
テラスのテーブルの上で指を組み合わせた潤は目を細めて微笑んでいる。秋風が彼女の長い髪を揺らした。ついでに睫毛も揺れる。目が眩みそうなうつくしさだ、と波瑠は唾を呑み込んだ。大学生活4年間ほとんど一緒に過ごしていてもなお、慣れることの無い。彫刻のような美しさ。詩人を気取れば、神様の最高傑作みたいな女の子だと思う。
星野潤はフランス人の祖母を持つクォーターで、その瞳は深い湖のように深い青色だ。高校生の頃からモデルとして活躍している、俗っぽく言えば有名人。誰もが一度はその名前や姿を公共の電波や紙面で見かけたことがある。そんな彼女は当然この大学でも羨望の目を向けられるわけだが、潤は歯牙にもかけずに波瑠と過ごすことを選んだ。「どうして」だなんて今更なことは聞かない。だってその方が友人らしく感じるから。
「……また駄目だった!」
「あら。残念。次があるわ」
暗くならないように、顔の前で両手を合わせ、片目を瞑った波瑠に、潤はさらりと言う。
テラスの周辺では同じ学年の学生たちが似たような話に花を咲かせている。2002年冬、就職氷河期と呼ばれる中、彼女たちは就活の真っ最中だった。
波瑠はできるだけ軽い口調に聞こえるように口を開く。三次試験までは残るのだ、いつも。
「順調な気がしてたんだけどね、【ひみつ道具を手に入れられたら、それを弊社のためにどう使う?】って突端な質問に完全に動揺しちゃった」
「そういう質問、波瑠なら得意そうなのに。私はあまり詳しくないけれど」
「うー、チャンスを活かしきれてない気がするよね。最近ついてないの!」
足元に落ちたアイスクリームの残骸をティシュで掬って、ゴミ箱に入れた。ついていない、と波瑠は繰り返す。
今月に入って定期を2回も落としたし、おろしたてのコートに泥をかけられた。教室の扉に指を挟むし、食事に行けば店員が手を滑らせてお冷を被る始末だ。いくら人生の運勢が帳尻合わせが可能とは言え、最近はあまりにもついていなすぎる、と思う。
潤は肩を落としている波瑠の手を掴んだ。
「まあ、なるようになるわよ。それより、私のマネージャーになるのはどう?」
「え?」
「私、大学を卒業したらフリーのモデルになるの。基本的には日本に拠点を置いて、声が掛かったら世界中飛び回るつもり。だから、波瑠みたいに気の利くマネージャーが居てくれたら助かるのよ。あなた日程調整とかも得意だし」
「凄い…! で、でもちょっと待って。甘えすぎてしまうから、もう少し頑張るよ」
「ふふふ、お給料も弾んじゃう。滑り止めは確保できたんだし、玻瑠らしく頑張って」
潤は席を立てば上品な香りが彼女のあとを着いて行く。玻瑠は短く息を吐いた。
自慢の友人に肩を並べることは難しい。それでも、自分の力で立てるのだということは証明しておきたかった。大学最後の年だ。こうしてふたりで過ごすことができる時間も、限られていた。
★★★
その日の夜、玻瑠はすっかり暗くなった道を歩いていた。面接の練習にSPIの対策、やることは山積みだ。
学生向けの安アパートに向かう道には街灯が少ない。早足で歩けばお気に入りの靴の紐が影を作って揺れる。せかせかと歩いた方が、不審者に狙われないというのは誰が言っていたのだろう。思い出せないけれど、一人で夜道を歩くときはそうしていた。
玻瑠は【あるもの】に気づいて、一瞬足を止めた。
老人が、電柱の下で蹲っていた。小さく漏れる呻き声に、一瞬躊躇したが、恐る恐る声をかける。
「あの、大丈夫ですか?」
老人は玻瑠の声にゆっくりと顔をあげて振り向いた。その動作は緩慢なのに、縋るように伸ばされた手はおそろしい速さで玻瑠の手を掴み、強い力で引いた。体勢を崩して老人と接近した玻瑠は小さく悲鳴をあげる。
その表情は悍ましいものだった。土気色で深い皺が刻まれているにも関わらず、満面の笑みだけが暗闇に浮かんでいる。老人は突然に笑い出した。
「ヒ、……ヒヒヒ! つかまえたぁ」
波瑠は思わず身体を引いたが、老人の力は強く、身体はびくとも動かない。
「ぃ、い、良いことがあるぞ。お前に、それからこの町に。キヒ、ヒーッヒヒヒ!!」
「きゃ!」
老人に突き飛ばされた衝撃で尻餅をつく。押された胸は痛みよりも熱さを感じた。
恐怖で足がもつれて、一度膝をついた。駆け出そうと立ち上がった時には、老人は既にその場から消えていた。
★★★
それから、近くの交番に駆け込んだ。この町の警官は親切だ。夜遅く出歩いていたことを咎めるでもなく、親身になって話を聞いてくれるので、波瑠はようやく落ち着いて呼吸ができた。
事情聴取を受けて、解放された頃の時刻は0時近かった。深夜だというのに忙しそうにしている警官に礼を言って、交番を後にした。
「……やっぱり、送ってもらった方が良かったかな」
交番から離れると、しばらくまた街灯だけが照らす道になる。
一瞬悩んでから、波瑠は携帯電話を手に取った。連絡帳から、ひとりの名前を探して発信ボタンを押す。
彼は試験勉強に勤しんでいる筈だから、まだ寝ていないはずだ。コール音の間、緊張しながら待てば、電話はすぐにつながった。
『ハイ、東方仗助っす。……玻瑠さん? なんかあった?』
「ごめんね、夜中に。ちょっとね、帰り道に変な人に会って。今警察からの帰りなんだけどね、家まで怖いから、電話付き合って欲しくて」
『……ハァ!? いや何してんすか! 近くにコンビニあります? すぐ行くからそこで待ってろよ』
「えっ、や、いいの! もう着くから! 態々来なくていい!」
電話越しでも、恋人の声を聞けば安心できた。話しながら帰れば気も紛れる。心配をかけるつもりはなかったけれど、深夜に電話をした理由を話さないのもおかしい。態々来てもらうつもりなんてなかったのに、電話の向こうでドアの閉まる音が聞こえた。仗助の声からは不機嫌が滲み出ていた。
『いいから。これ以上言うと怒りますよ。あんたのことだからすぐ、って言いながらしばらく歩くんでしょう。いつものとこか?』
「は、はい……」
電話を切って、言われたとおりコンビニで待っていると、すぐに仗助が来てくれた。駆けつけてくれた彼に申し訳なくて、待ってる間に買った菓子を渡せば仗助は大きく溜息をついた。
「なんで遠慮すんの」
男子高校生の平均から頭ひとつ抜けた長身の仗助に見下ろされると、玻瑠は少しだけ萎縮してしまう。彼が怒ってやしないことを理解していたとしても。
「だ、……って! 深夜だし、わざわざ呼びつけたら申し訳ないと思うよ。わたしも人間だから……」
歩幅は仗助の方がずっと広い。けれども彼は波瑠に合わせて歩く。コンビニから波瑠の家まではすぐに着いた。
「ごめん……」
感謝よりも謝罪の言葉が先に出て、波瑠は思わず口に手を当てる。
視線を向ければ、仗助は子供をあやすように波瑠の頭を撫でた。彼は温厚な人間だ。それは波瑠もよく知っている。
「怒ってないすよ。波瑠さん、ひとりで寝れんの? 仗助くんの添い寝が必要?」
本当は「欲しい」と言いたかった。けれども、仗助の右手に鉛筆の跡が残っていたから口を結んだ。
今日は良くない日だった。けれども年下の恋人はいつだってやさしい。ツイていない日は、人のやさしさに触れると泣きそうになってしまう。
「ハグして。そして帰ってお勉強に精を出して」
「はいはい。りょーかい」
仗助は集合扉を閉めるまで律儀に立っていてくれた。
アパートの中には誰もいない。それでも少し不安で、駆け足で階段を登った。息を切らして部屋の前まで辿り着いて、玻瑠はまた足を止める。
「……あれ?」
部屋に続く階段の手摺りに小鳥が止まっていた。指を伸ばせば恐れもせずに飛び乗ってくる。
「ふふふ、しあわせの青い鳥かも」
野鳥ではなさそうだ。飼われていた鳥がどこかから迷い込んできたのだろう。玻瑠はこの小鳥を保護することにした。
それから数日後、杜王町に黒い羽根が降るようになった。夜の間にどこからか飛んできて、道路や、屋根や、植木の上に積もるそれは、まるで積雪のようにしんしんと町を埋め尽くした。
全国ニュースでも取り上げられたが、どうやら専門家の意見によると野鳥の数は増えていないらしい。
病気が流行るでもなく、害もない。清掃業者がぼやく程度の異変だったために、黒い羽根はそのうち人々の日常に溶け込んでしまった。
prev next
top/
サイトへ