ランウェイを歩くためのルールは単純だ。
 胸を張って、背筋を伸ばす。上半身は動かさず、両手は身体より後ろで緩やかに振ること。表情は媚びず、けれども自信がなくちゃいけない。折り返し地点でのポージングは何百回も鏡で確認する。衣装が一番美しく見えるポーズを選ぶのだ。爪先まで意識を張り詰める。向ける視線の角度も、息遣いさえも、その一瞬のために全てを賭ける。ファッションモデルという職業は、身に纏った衣装が最高だってことだけを披露するための、美しさと気品を内包したマネキンだ。
 彼ら彼女らが立つ舞台はさまざまだ。キャットウォークに近い高所に作られた通路を歩く時もあれば、平地にパイプ椅子が敷き詰められたほんの隙間を歩く時もある。最前列の観客が組んだ足に躓いたモデルだって数えきれない。
 ただ、どこに立ったって、前を向いて歩くことは変わらない。暗闇の中スポットライトで照らされる一本道の中を、切り開くようにして歩く。磨き上げた身体に、デザイナー渾身の傑作を纏って歩く。そこで対価が発生するのだ。彼女たちが服を着て歩くだけで、広告塔になる。だからこそ、自分を大切にする。外見は勿論のこと、内面が未熟では、企業が築き上げたブランドを背負うことはできない。だから、小さな動作、発言、ひとつでも気を抜かない。完璧を求めるわけではないが、それでも。自分の信じた夢くらいは翳らせたくはない。
 一番星に手を伸ばして、走って、転んで、それでも追いかけて。結果、手に入れられずとも指先を掠めた光の温度を、憶えていられればいいのだ。
 星野潤は、そう思っていた。

★★★
 
 フランス・アルザス地方に彼女の生家はあった。ドイツとの国境沿いに位置するその地域は豊かな土壌に恵まれ、近隣の村には葡萄畑が連なり、誰もがとびきり美味いワインを楽しむことができた。
 広大な葡萄畑にぽつりぽつりと点在する赤茶けた古めかしい家屋。背の高い建物といえば教会と、古めかしい豪奢な洋館だけだった。彼女の一家はその洋館に住んでいた。
 日本から仕事でやってきて、母を見初めて結婚を決めた父と、田舎の質素な暮らしを疎んでいた美しい母。潤は両親を尊敬していた。利発な子どもであった彼女を街の学校に通わせるために引越しを決めたのも両親だった。
 ただ、それには祖母が猛反対した。
 祖母は早くに夫を亡くし、女出ひとつで潤の母を育ててきた。その当時からの口癖は「あなたは貴族の血を引いているのよ」だった。古い、古い、薄れた貴い血筋。中世まで遡ればハプスブルク家とも繋がりがあったのだと言う。言葉遣いから食事のマナー、ピアノに声楽。どれも一昔前の社交会の必須科目だ。祖母に言われるがまま習わされている潤を、母は不憫に思い、祖母と母親の喧嘩は絶えなかった。
 祖母は厳しかった。一小節でも弾き誤れば指揮棒でで手の甲を打たれた。古めかしいドレスを後生大事に身に纏う老婆は、老いてもなお誇りを失わず、恐れながらも美しい人だ、と潤は思っていた。過去の栄光を手放せず、縋り続けるその姿を、みっともないと片付けることはできなかった。それは甘さなのか、弱さなのか。両親に着いて日本に移り住むことになっても、潤は祖母のことを無碍にできずにいた。
 先日かかってきた国際電話で、祖母は「帰ってきなさい」と譫言のように繰り返していた。「貴女の顔が見たい」と続ける言葉の隙間に挟まれる重い咳も記憶から離れない。
 結局、潤はフランス行きの飛行機を取った。
 彼女の祖母は美しくて、気高くて、愚かな女だった。古めかしいバレエ音楽と、野の花を愛した女。潤は祖母の生き方も、反発し続けて東京で働く道を選んだ母の生き方も選ばなかった。自分らしくあること、それが彼女の信条だった。

★★★

 ここ数日、気分が優れない。身体が怠くて重いが、病という程でもない。恋人に相談すると、普段どおり恐ろしいスピードでペンを動かす露伴は「奇遇だね、ぼくもだよ」と言った。
 アシスタントも雇わずにたった一人で漫画を描き続ける彼は、例えインフルエンザに罹患しても期日どおりに漫画を仕上げるのだろう。多少自慢屋で我儘なところはあるが、露伴の仕事に向き合う姿は尊敬していた。
「……また杜王町で傷害事件かよ」
「例の、【スタンド】の仕業だったりするの?」
 仕事が落ち着いたのか、先ほど持って行った紅茶のカップを持って、露伴がリビングに降りてきた。ぼんやりとテレビのニュースを眺めていた潤が露伴に問う。露伴はソファに腰掛けた。
「まあ、十中八九そうだろうな。それでも確定ではない。仕事の合間を縫って、あいつらと調べてみるさ。きみも用事がなければ夜は外に出ない方がいいぜ」
「露伴も、気をつけてよ。貴方が大怪我なんて負ったら、私相手を許せないわ」
「そんなにヤワに見えるかよ」
 艶かな髪が露伴の肩に乗っては流れていく。陶磁のように滑らかな白い肌が頬を撫でる。肩に乗せられた頭に重みはほとんど感じられず、露伴はそのまま潤が横になれるようにソファの端に詰めた。
 ゆるゆると身体がずり落ちて行って、固い膝の上に頭を置いた潤は小さく笑っていた。
「ご機嫌じゃあないか」
「なんにも良いことはないのよ。でも、笑っていると少しはマシ」
 青みがかった黒髪は部屋の明かりを浴びても星屑を散らしたように輝く。彼女の髪を梳きながら、露伴は潤の睫毛を眺めていた。
 言い表せぬ不安がこの杜王町を包み込み、人々の心に見えない錘のようにのしかかっていた。
 普段は気丈に振る舞っている潤も、この目に見える異変には辟易していた。羽根が降り積もるだけならまだ看過できた。最近では住民は終始苛立ち、買い物に行くだけで喧嘩に発展する様を見かける。それに、町全体から腐ったような臭いがするのだ。合わせてこの倦怠感だ。
 知り合いの高校生たちが元気なのはまだわかる。けれども、同い年で、最近は夜遅くまで勉強している玻瑠が元気溌溂としているのも気になった。
「嫌な伝染病みたい」
「すぐに解決するさ。今までだってそうだったんだ。この町は少々おかしな場所だがね、住み心地はそう悪くはない」
「知ってるわ。私、この街は好きよ。フランスの田舎町より、なんでも揃う東京より、ずっと好き。露伴も側にいるしね」
「きみを危険な目に合わせやしないぜ。おっと、少々キザだったか?」
「素敵よ。……ねえ、ベッドに連れて行って? すごく眠いの」
「はいはい、ぼくの御嬢様」
 長身痩躯の露伴は演技がかった素振りが上手い。ソファから降りて恭しく頭を下げると、潤を軽々と抱き上げた。
 漫画家の細腕だ、と仗助は軽口を叩いていたが、それでも女性にしては長身の潤を危なげなく持ち上げるのだから、やはり鍛えている男性なのだ。
「ね、露伴。私、貴方が好きよ」
「なんだ今更。ぼくも愛してるよ」
「知ってるわ」潤はベッドの上で返した。
 唇を何度か重ねれば呼吸が熱を持ち始める。腕を首に絡めて露伴のヘアバンドを外す。長い髪が額を覆うように落ちて、翡翠色の瞳が潤を見つめる。
 愛してる、と潤は繰り返す。露伴に抱く感情は恋ではなく、愛なのだ。お互いを穴が開くほど見つめて、恋が実ったあとは、同じ方向を向いて生きることを選んだ。
「露伴の隣にずっといられたら、素敵だと思うの……」
「いたらいいだろ、ずっと」
 今日はセンチメンタルだな、と露伴は子供をあやすように額にキスを落とした。鼻の奥がツンと痛んで、潤は露伴に見えないように背を向けて少しだけ泣いた。

 次の日、露伴の隣に潤の姿はなかった。
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