ラスト
軽い金属がぶつかる音がした。それは短い間隔で繰り返し鳴って、「うわぁあ」という男性の悲壮感溢れる悲鳴によって締めくくられた。どうやら音の発生源は、駅の横に整備された駐輪場からのようだ。無惨に将棋倒しになった自転車と、スーツを着た壮年の男性が頭を抱えて項垂れた姿が見えて、思わず駆け寄った。
「大丈夫ですか? 手伝いますよ」
「あ、え! 良いんですか?! ありがとうございます。すみません……」
信じられない、と言うような顔をした男性が何度も頭を下げる。
「二人でやればすぐですから。スーツ、汚さないよう気をつけて」
男性は俺の言葉に草臥れたスーツの余った生地を掴んで、「はは、安物です。お兄さんこそ……」と言い、またすぐに申し訳なさそうな顔をした。
俺の心配のとおり、男性は自転車のペダルに脛を蹴飛ばされたり、ストッパーに靴を挟まれたりと散々であった。それでも汗をかきながら自転車を起こし続けるのだから見上げたものである。
15分もすると駐輪所の自転車は整然と並び、ようやく自分の自転車を救出した男性は俺に向かって深々と頭を下げた。
「本当に助かりました。親切なお兄さん、本当にありがとう」
「いえいえ」
額の汗をスーツの袖で乱暴に拭った男性が、別れ際に振り向いて「そういや、どこかでお会いしたことありませんか」と言ったので、やんわりと否定してそそくさと離れた。時計を見れば待ち合わせの時間を数分過ぎている。駆け出そうとしたところで背後から声がした。
「見〜ちゃった! サンイーターの善行、スクープだ」
おいおい。腐っても俺は現役のヒーローだぞ、と言いたくなるような発言に振り向けば、恋人であるすくいさんが立っていた。指で作った四角の中からこちらを覗いている。
駆け寄ってきた彼女は俺の腕に自分の手を絡めて身体を寄せた。
「小学校の学級新聞ならスクープかもな」
「残念。すくい新聞では一面を飾っちゃうのだ」
どうやら彼女は先ほどの俺の行動に大変感心したようで、えらいね、親切だね、とやたらに褒め称えてくれる。ありがたいことではあるが、大した善行でもないのに誉めそやされるのが気恥ずかしくて、俺は話を変えることにした。
「それより、待たせてごめん。迎えにきてくれたのか」
「待ち合わせの場所から環くんが見えたから、歩いてきただけだよ。手伝おうとしたら終わっちゃった」
倒れた自転車の救出に向いているとは思えないすくいさんの格好を見て、彼女が到着する前に作業が終わって良かったと思った。親切な彼女は、スカートのまま駐輪場の整備に参加していただろう。
隣を歩くすくいさんが俺の顔を見上げて言った。
「環くん、なにか食べたいものある? 特になければ、新しくできたハンバーガーのお店に行きませんか」
「ああ、週末に見てたところ。そこに行こう」
最寄駅の近くにオープンしたカフェの特集を眺めていたすくいさんが、「おいしそ〜」と漏らしていたのは記憶に新しい。
仕事の終わる時間が重なったので食事に行こうと誘ったのは俺の方なのに、結局バタついて予約もできなかったことを申し訳なく思う。
「空いてるか聞いちゃお」すくいさんがスマホを出して俺の前に出た。空席の確認をするために電話をかけてくれる彼女が歩くたび、スカートの裾が揺れて、細い足首が覗く。すくいさんはやわらかくて明るい声で「それじゃあ、これからいきます」と言って電話を切った。
「やったね。これから2名、オッケーですって」
オープンしたばかりのカフェは沢山の暖色のランプに照らされて、初めて訪れたというのにどこか懐かしい雰囲気があった。はきはきとした店員が俺たちを窓際のテーブル席に案内してくれたので、向かい合わせに座る。「夜はお酒もお出ししてるんです」という言葉と共に渡されたメニュー表を受け取って、すくいさんがこちら側に向けてくれた。
「明日がお休みだったらお酒もいいけどね」
「すくいさんは飲んでもいいよ」
成人してからも酒を飲む機会がそう多くなかった俺と違って、すくいさんは職場の付き合いや友人たちとの会食で適度にアルコールを嗜んでいる。酩酊するほど深酒をしている姿は見たことがないけれど、自分が傍にいるのであれば飲んでもらっても構わない。どうせ帰る家は同じなのだ。
「お酒は大丈夫。エビとアボガドのバーガーとウーロン茶にしよ」
すくいさんが手を挙げて店員を呼ぶ。お互いの注文を終えた後に、エビのフリッターを追加で頼む。テーブルの料理がエビだらけになってしまうけれど、まあいいだろう。
「やった〜。わたしのことよくわかってるね、環くん」
「もう十年近い付き合いだからね」
案の定彼女は御満悦だ。長年好みの変わらない恋人の好物を把握しているだけで賞賛がもらえるなんてお手軽すぎる。
すくいさんが頬に落ちてきた髪を指に巻きつけた。彼女が髪を伸ばし始めたのはここ数年だ。短いのも良く似合っていたけれど、胸元まで伸ばした髪型も素敵だ。緩やかにカールした明るい色の髪が胸元で揺れる。彼女が好きな髪形を選べるようになって良かったと思う。
料理が運ばれてくるまで、すくいさんが仕事であったことを話してくれる。お互い守秘義務は守りながら、それでも共通点は多いので話が尻すぼみになることはない。
学生の頃よりは多少マシになったとは思うが、俺は相変わらず話下手で、人の話に相槌を打ってばかりだけれど、それでもすくいさんと話していると言葉が滑らかに出てくるから不思議だ。ひょっとするとこの世でこの人だけは、俺のことを饒舌な人間だと思っているかもしれない。
環境の変化を得意としない俺の話に出てくる登場人物は学生時代から変わり映えしないが、付き合いも長いので、俺の知り合いは大体すくいさんの知り合いでもある。それに加えて登場人物たちはユーモアに溢れているのでせがまれるまま話せば会話はどんどん弾んでいく。
俺ばかりが話しても仕方ない。会話の主導権をすくいさんに渡せば、彼女は話し上手の能力を遺憾なく発揮して、先日職場であった笑い話をいくつも披露してくれる。
最近は職場の楽しい話が増えてきた。高校を卒業してから、違う進路を選択した俺たちはお互いの人生を応援しながらも、なかなか擦り合わせをすることができなかった。
すくいさんはサジカゲン≠ニして活動しながら大学に通って、卒業後はヒーローのもとでサイドキックとして働いていたが、怪我が原因で引退することとなった。それが数年前のことで、今は大学で学んだことを生かし、心理士として働いている。
目まぐるしく変わる彼女を取り巻く環境の中で、俺との関係は変わらないままだ。一緒に住むことを提案したのが一昨年。その次の段階に進みたいと考えていて、けれども独りよがりにはなりたくなかった。日常に馴染んでいこうとするすくいさんの負担にならないように、タイミングをずっと探していたのだった。
そして、ハンバーガーをナイフとフォークで器用に食べているすくいさんを見て、そのタイミングは今だと思った。
「すくいさん、俺と、結婚してくれませんか」
「え」
三回瞬きをしたすくいさんは握っていたカトラリーをゆっくりとテーブルに置いて、「本当に、わたしでいいの」と心配そうな顔で言った。
「君がいい。意外だろうけど、俺は一途な男だから、すくいさんしか眼中にないんだ」
「……あはは! 全然意外じゃない!」
すくいさんは一頻り笑ったあとで「待っててくれてありがとう」と言って微笑んだ。俺の考えることなど、長年そばにいてくれた恋人にはとっくにお見通しのようだった。
「不束者ですがよろしくお願いします」
すくいさんが頭を下げる。思わず俺も頭を下げ返した。お互い顔を上げたタイミングで、顔を見合わせて笑ってしまう。
「ひとつ訂正させてくれ。俺は別に待っていないよ。タイミングを窺ってただけ」
「よかった。三年くらいお待たせしていたかと……」
「…………ご名答。三年間ここぞというタイミングを探していたから、俺はどこでもプロポーズができるよ。指輪があっても良かったけど、急かしたくなかったから、やめたんだ」
すくいさんは口元を歪めて頬を押さえている。緩んでしまう表情を誤魔化すみたいに、フォークに残りのハンバーガーを刺して口に運んだ。
それからはっと何かに気付いたかのように店内を見渡した。彼女が何かを探しているのかは簡単に想像がつく。ヒーローのスクープを探すカメラでも、ドッキリの看板でもない。植え込みの隙間に身体を溶け込ませる、ナンバー1ヒーローの姿だろう。
「すくいさん、俺ひとりで力でプロポーズくらいできないと、ミリオが安心して未来に帰れないだろ。あと多分あいつもそこまで時間に余裕がないと思う」
「うわあ。帰ってきたルミリオン……⁉」
すくいさんは昔から猫型ロボットの話が好きだ。付き合わされて見た映画の台詞を用いた、不慣れな冗談が珍しく決まって、自分の顔に熱が集まるのがわかる。
口を開けてけらけらと笑っていたすくいさんが大きく息を吐いて、目元を拭った。頬には涙が垂れていて、しばらくぶりに見た泣き顔に驚いてしまう。
鞄からハンカチを出そうと手を伸ばせば、大丈夫、と制止が入った。
「これは嬉し泣き……。うれしいな……。ご飯食べ終わったら、指輪見に行っちゃう?」
「良いよ。給料何ヶ月分のやつでも、きみの好きなものを贈らせて」
「折半だよ。さては環くん、結構貯めてるな〜?」
「そりゃあね、準備期間があったから」
すくいさんはまだ小指に指輪を嵌めている。彼女の誕生日に何度か新しいものを贈って、今は三代目くらいだろうか。大事そうに指輪を撫でる癖は、自惚れだけれど俺と付き合ってからできたものだろう。
指輪がなくても、夫婦という形を取らなくても、彼女を支えることができれば良いと思っていた。それなのにすくいさんに求婚を申し込んだのは、ひとえに俺の独占欲のせいである。
自分から手を離すつもりはないが、誰かに横から攫われてしまう不安はあった。ずっと彼女の隣にいられるのなら話は別だが、そうもいかないので契約を結んでしまおうというわけだ。恋人の肌に自分の名前を彫らせる人種と思考が近しい気がしてやや自己嫌悪。
それでもお揃いのデザインを探すためにスマホの画面を食い入るように見つめるすくいさんを見てしまえば、彼女も俺と同じ気持ちだったのかもしれないと思った。
会計を済ませて店を出る。すくいさんはアルコールも入っていないのにご機嫌で、歩きにくそうなパンプスでステップを踏んだ。歩道の石畳の違う色だけを踏んで跳ねる彼女がどこかに攫われてしまわないように手を伸ばす。まるでダンスの誘いみたいな格好になって、俺の手を取ったすくいさんが朗らかに笑った。
「これからもずっと、きみを独り占めできるなんて、贅沢だ」
「それはねえ、こっちの台詞だよ」
この人と永遠に一緒にいられたらいい。柄じゃないと言われるかもしれないが、神様の前で誓ったって構わない。
神様。俺に、この人のさいわいを一番に祈らせて。
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