第五話 初夜



 戦場に赴く足取りは重くはなかった。踏みしめる足元は石が敷き詰められていて硬い。雨を吸ったミスラの柔らかい土地を思いだし、潤は下を向くことをやめた。
 緩やかな絹の衣装を与えられ、それを素直に身に纏った彼女の姿は息を飲むほど美しく、支度を手伝った波瑠と梓はこれから彼女を迎えるエーギルの王を憎らしく思ったほどだった。

「そう睨まないでよ。美人が台無しだ」

 丁寧に自分の自室まで案内役を買って出た鳴もまた、麻の簡素な寝間着に着替えていた。用意された衣服も、彼が身に着けている物も高い品質の布によって作られていた。廊下に飾られた刺繍や女官の身に纏う衣服もまた上質で、エーギルの養蚕技術の高さが感じられる。
 二人の間に会話は無かったから、潤は視線だけを動かして長い廊下を歩いている間にエーギルの文化を眺める。
 暮らし難そうだ、と柄にもなくそう思った。生きるために剣を振るう、命に直結した女たちの暮らしに慣れ親しんだ潤にとっては、糸を紡いで暮らす女の一生はひどく遠い存在に感じられたのだ。
(退屈で、死んでしまいそう)
 潤は束縛を嫌う。掴みどころのない風のように自由な彼女は、そよ風のように他者に寄り添うこともあれば、時に嵐のように感情を露わにする。飾らず、自分を隠さない潤の周りにはいつも人が集まった。
 今は、ひとりきりだ。

 通された部屋は広く、部屋の壁に沿って置かれた寝台に腰かけるように促された。腰を下ろせば、挑戦的な視線がかち合った。紺碧の瞳は底が見えず、獣のように光を受けて反射していた。

「何か言いたいことでもある?」
「いいえ、何も。随分見つめてくるものだから」
「ミスラには美しい女性が多いというけど、君は本当に綺麗だ」

 いつの間にか正面に立っていた鳴が手を伸ばして潤の髪を梳いた。二人の距離は縮まって首筋に唇が寄せられた。頬を撫でる手は優しく、潤は自分の夫となる相手に安堵を抱く。
 鳴が潤の柔肌に夢中になっている隙に、服の隙間に隠していた短刀を取りだすことも容易だった。感付く暇さえ与えるつもりはなかった。無防備な首筋に向かって振り降ろす。

「男を食らうミスラの雌蟷螂、それは習性かい」
「……よく、気づいたわね」

 気取られているつもりはなかった。鳴は笑顔を浮かべたまま、短刀を握る潤の手首を掴んでいる。
 視線がかち合う。燭台の炎を映して燃える潤の漆黒の瞳は敵意をむき出しに、それを受ける鳴の青い瞳は平穏な海のように揺らがない。余裕を見せる鳴の態度に怒りを感じながらも潤は言葉を待つ。

「婚約は破談ってわけ?」
「はっ、婚約?一族の仇と仲良く手を繋いでお幸せに、なんてできるわけないでしょう。あんたみたいな軟弱者の妻になるだなんて、真っ平ごめん」
「てっきり俺に一目惚れしてくれてたのかと思ってたよ。ま、所詮蛮族の雌虫ってとこかぁ」
「……何と?」

 掴んでいた手首を返され、短刀の刃先が潤の眼先に向けられる。怯む様子のない潤は強い視線で銀の刃を睨みつけた。

「俺たちもさ、好んで蛮族と血を交ぜようなんて思っちゃいない。獣を抱きたいなんて物好き、中々居ないだろ?」

 鳴は目を細めて続ける。二人きりの部屋に緊張が走った。

「あんたのその軽い頭を手土産に、開戦の狼煙にしてあげるわ」
「はは、戦が好きなんだね。本当に獣だ」
「先に奪ったのは、そちらよ。戦狂いのエーギル!」

 潤の掌から力が緩められ、短刀が布団の上に落ちた。一瞬のうちに反対の手が拾い上げ、的確な動きで鳴の首筋を狙った。利き手ではないと言うのにこの正確性だ。ミスラの武人の力を内心褒めたたえながら、鳴は紙一重で剣先を避ける。潤の手が香炉を叩き落とし、潤を捕まえようと伸ばした鳴の手が壁を打った。
 到底甘い初夜とは言えないような物音を立てて、二人の武人は睨みあう。

「奪ったのはそちらも同じだろうが。戦の不毛さを知りながらも剣を向ける愚か者」
「停戦を申し出た先で、弓を射たのはエーギルの方よ」
「先代は謝罪に出向いた。きっかけを壊したのはエーギルでも、修復の道を閉ざしたのはミスラさ」

 ぐ、と潤が口を噤んだ。
 弓で射られたのは彼女の母親だった。乳飲み子であった潤を守り、最期の時まで母として、武人として活きた美しき女性。当時族長であった彼女を殺されて、ミスラの女たちの怒りが収まる訳はなかった。子を抱く母であったなら尚更だ。
 けれども、エーギルの族長が謝罪に来たという話は初めて耳にした。裏切ったのはエーギルであり、彼らはその後もミスラに対し態度を緩めなかった、というのが潤の認識であった。

「……殺されたのは、私の母親よ」

 思わず潤の唇から言葉が漏れた。

「矢を射たのは精神を病んだ兵だった。俺の父親はそいつの不始末の責任を取って処刑されたんだ」

 答えるように鳴も返す。この瞬間では二人とも民の代表としての立場を忘れていた。ただ自分達の肉親を悼む十七歳の少年と少女に戻っていた。
 鳴も潤も、エーギルとミスラの長きに渡る戦いの被害者だった。憎しみを抱き続ける二つの民族の代表としてこの場に立っている。それでも、胸のうちで焼けるように痛む怒りや憎しみの感情を押し殺して手を取ることはできそうになかった。

「形だけの和平に意味があるとは思えないわ」
「……それでも、病が去るなら。無理矢理でも協力してもらうしかない」

 決意を固めた鳴の手が潤の肩を押した。柔らかな布団に倒れ込んだ潤の顔の横に手が置かれ、体重が乗せられる。潤は男を知らなかった。それを別にしても、感情を無理に抑え込んだような目をした目の前の男に抱かれるのは嫌だと思った。
 恋をして、愛し合って、それで、身体を重ねることに固執するつもりはない。自分は一人の女でありながらも、ミスラという古い歴史を持つ民族を束ねる族長なのだ。民のために、感情を押し殺すくらいは潤にとって容易いことであった。けれども、目の前の相手が同じように振る舞っているのを見ることは耐えられなかった。
 呪いや病魔、それらが和平によって解決するのだろうか。不確かなものに縋るしかなくなった哀れな民族。それほどに追い込まれているのだと、潤はひとり冷静に思った。

「……目ぐらい、閉じなよ」

 抵抗をやめた潤の両眼を覆うように鳴が手を伸ばした。
 恐怖で目を瞑っただなんて思われたくはなかったのだ。
 ふい、と潤が横を向いた矢先に、強く扉を叩く音が響いた。



***



 扉を叩いたのは潤の従者たちだった。扉の前で聞き耳を立てていたので無ければ随分と耳が良い。唯事ではない物音を聞いて思わず駆けつけてしまったと言う割に各々武器を携帯しているのだから空恐ろしいと鳴は笑った。
 初夜の寝所に足を踏み入れる無礼を責める前に、怒りに震える梓が鳴に詰め寄った。

「どういうことか、説明してくださいますね」

 気づいてみれば鳴の寝所はひどい有様だった。床には割れた香炉や水差しが散らばり、布が裂かれた状態の褥には短刀まで落ちている。怒りを露わにした梓の声は重く、その隣に並ぶ太陽と豪もまた腰に差した剣に手を掛けていた。

「三人とも、落ち着きなさい」
「でも、潤様」
「別に乱暴されたわけじゃ無いわ」
「そうだよ、先に手を出したのはお前たちの主の方」

 鳴の言葉に青筋を立てたのは豪だった。この身売りのような婚姻に反対していた豪にとって、この有様は許しがたいものであった。自分の主に恥をかかせただけでなく、抜け抜けと罪をこちらに擦り付けようとした鳴に向かって手が伸びた。
 豪は冷静な男であったが、殊更潤のことになると頭に血が上る。それほど主思いの従者であるとも言えたが、彼にとって潤は主としてだけはない、特別な感情を抱くには十分すぎる存在だったのだ。

「おいおい、躾の悪い従者だな」
「てめえ…っ」

 剣を抜こうとした豪の手を背後から掴んだのは遅れて来た一也だった。豪の手を押し込む形で刃をゆっくりと鞘に戻して、一也は両手を顔の横に挙げて敵意が無いことを周りに見せつけた。それに習って後ろに着いていた俊平も剣を置く。

「熱くなってるとこ悪いけど、ここは一応、うちの王様の寝室だ」

 その言葉に手を鳴らしたのは波瑠だ。大袈裟に驚いた素振りをしてから膝をついた。

「大変失礼をいたしました。怒鳴り声に驚いてしまって、ついいらぬ心配を」
「……怒鳴り声が、お前たちの部屋まで届いたって?」
「いいえ。丁度近くを通りがかったものですから、そこで耳にした声に慌ててしまいました」
「散々だな、鳴」
「お前ら来るのが遅いよ。聞き耳立てる悪趣味さは無くて安心したけどさ」

 本当に、散々だ。心配性の潤の部下たちを眺めて鳴は深いため息をついた後、頭を乱暴に掻いて寝台に腰かけ直した。潤は長い髪をかきあげて見なりを整えた。
 非礼を詫びて退室しようとした四人を引き留めて、鳴は言った。

「ねえ、ミスラの。話がある」
「ええ、こちらもよ」

 荒れた部屋の中、鳴は胡坐を掻いて周りを見回す。王の寝室は広々とした造りであったが、八人の成人を押し込めるには多少手狭な印象を受けた。

「お前たち、この婚姻をどう思う?」

 鳴は潤にではなく、彼女と自分の従者に向かって問いかけた。

「余りに急と言えば急だよな」
「……両族長が前々から決めていた婚姻とはいえ、知る人間が少なすぎた点は不審に思いました」

 ぽつりぽつりと両方から言葉が出る。
 濡羽と神野から直接話を受けたとはいえ、すぐに承諾できる話では無かったはずだ。

「呪いのことも気になるな。山脈を蝕む呪いを解く条件をミスラとの和平だと言っていたが、そもそも呪いなんてあるのか?」
「両族長とも、何か隠していることでもあるんですかね」

 考えてみれば、わからないことだらけだ。ただ和平のために婚約を割り与えられただけ。

「先代は、役目を退いてからは口を噤んでしまったわ」
「エーギル先王もそうだ」

 鳴と潤が顔を見合わせた。
族長になる前までは多くのことを教えてくれた濡羽とは、族長に就任した後からは殆ど口を利かなくなってしまった。濡羽の方から関わりを避けているようだった。それを不思議と思いながらも、族長になりたての自分が甘えないようにとの祖母なりの思いやりだと思っていた。
 しかし、相手方も同じ条件であると聞けば話は別だ。エーギル王とミスラ族長は、何かを隠している。隠したまま、この婚姻を強引に進めていたのだ。

「確かめに行くのはどうですか」
「……どうやって?」

 にこやかに提案を出したのは波瑠だ。彼女の透き通る目は潤を見つめて、それから鳴を見据えた。

「この婚約を決めたのは先代のミスラ族長と、エーギル王ですが、その盟約を結んだ時にはもうひとり、証人がいたはずです。ふたつの民族の誓いを聞いていた運命の魔女に、直接聞きに行くのはどうでしょう」

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