職場から家
ルナが休憩時間にスマホを手に取ると、LINEに通知が届いていた。最近親しくしてくれている友人たちからだ。グループチャットを開くと、そこには『バルカ旅行、計画中!』と笑からの簡潔なメッセージがあった。
「えっ!!」
思わず声が出てしまった。隣で昼食を取っていた同僚がこちらを向いた。
なんてフットワークの軽い人たちなんだ。以前会った時に海外在住であると伝えたらひどく驚いていた記憶があるので、海外旅行に対するハードルが低いわけではないはずなのに。
『バルカに来てくれるの〜!? 遠いよ!?』
『行くぜ! 旦那も説得して連れて行くね〜』
『うちもなんとか休みをもぎ取ります!』
美沙からもメッセージが届く。まさかの二人ともご夫婦で来るらしい。一度しか会ったことがないのに家族を連れて来てくれるとは、とんでもない信頼のされようだ。迎える側のこちらのハードルも上がってきた。
昼休憩はまだ半分ほど残っている。ルナは鞄からお昼ご飯のパンを取り出すと片手でかぶりつき、空いた手でまたスマホに文字を打ち込んだ。送り先は夫だ。友人が日本からバルカに観光に来ることを伝えると、珍しくすぐに返信があった。
「……うふっ!」
また声が出てしまった。挙動不審に耐えきれなくなった同僚が「ルナ、良いことあった?」と話しかけてきたので、友人が来ることを伝えると満面の笑顔が返ってきた。「よかったね」と笑うバルカ出身の彼女にこちらも笑顔を向ける。
アヤシクテゴメンネ。スマホ見テニヤニヤ、日本ジャヨクアルコト。……片言ジョークはもっとモンゴル語が堪能になったら言おう。
友達が来てくれるのも大変喜ばしいことなのだが、気持ち悪い笑いの原因は夫からのメッセージだった。なんと二週間ぶりに家に帰ってくるとのこと。ルナは壁に掛かる時計を見る。あと六時間後に会えるとなると、勤労にも力が入るというものだ。
仕事を終えて自宅の扉を開けると、部屋の明かりがついていた。ルナは上機嫌でリビングに向かう。ちょうど仕事を終えて帰ってきたのか、着替えたばかりの彼が立っていた。
「お帰り」
「チンギスさん! おかえりなさい!」
思わず鞄を床に置いて飛びつくと、逞しい腕に抱きとめられた。床に降りた後、両頬を手のひらで挟まれて、笑顔を惜しみなく向けられるのだからたまらない。この人が本当に好きなのだと改めて実感する。
「しばらくこっちにいられる?」
「明日からまた泊まり掛けでの仕事だな。嫌になる程忙しい」
「ガーン! かなしい! 夫が有能なばかりに!」
擬音を口に出すほどに悲しかった。チンギスは肩を落とすルナを慰めるように背を叩いて「食事にしよう」と笑った。テーブルの上に置いてあるのは日本でも見覚えのあるハンバーガーショップの紙袋だ。
本来ならば冷蔵庫の中身で上手く料理をすべきなのだが、羊肉を主食とするバルカでは基本的に調理に時間がかかるので、今日はハンバーガーを買ってきてもらった。折角一緒に暮らしているのに、手料理を披露する機会がないのも寂しいところだ。
「パンは食い飽きてる?」
「ううん。バルカのJr.は大きいなと思って。あと今度は手料理を食べてほしいので練習します」
ルナはパントリーに視線を向ける。勤務先からもらってきたハネ品のパンが詰め込まれているのを、彼は知っているのだろう。彼がいない間、ルナは自社製のパンばかり食べている。
「バルカに友人が来ると言っていたが、観光か?」
「観光と、メインはわたしに会いに来てくれるみたい」
「遥々外国まで来るとは、お前は友人に恵まれてるな。分かっていると思うが、多少マシになったとはいえバルカは治安が良い国じゃない。クーダンを出る予定があるなら教えてくれ」
警備が必要になるということだろうか。笑ちゃんはラクダに乗りたがっていたから、砂漠の方まで行くことになるだろう。ともすれば首都からはかなり離れてしまう。
チンギスはバルカの警察官だ。仕事の話を聞くと、上司から無茶な頼みごとをされたり部下の相談に乗ったりと、どうにも落ち着く暇がないらしい。たまに街で一緒に歩いていると、彼に気付いた人が慌てて姿勢を正すこともある。かと思えば子供に道を尋ねられたりするのだから不思議だ。
頼りにされているのは間違いない。問題は、頼りにされすぎていることだった。バルカ国内外で厄介ごとが起きるたびに彼の仕事が増えていく。二週間も家に帰れなかった今回だってきっとそのせいだ。
だから笑たちがバルカに来るときに紹介できるかはわからない。バルカの国宝を見ないで帰らせていいのか。ワシやラクダよりももっと価値のあるものを見た方がいいんじゃないのか? ルナはチンギスの顔をじいと見た。
「ラクダに乗って写真撮りたいって言ってたなあ」
「セドルの方まで行く気か? ツアーに参加した方が安全だろうな」
「実はわたしも初ラクダです。ひとこぶとふたこぶ、落ダし辛いのはどっちかな」
「馬じゃないんだ。寝なきゃ落ちないさ」
「ほんと?」
思わず聞き返すと、チンギスは小さく笑った。
「少なくとも、乗る前から心配することじゃない」
そうだろうか。笑も美沙も警察官。運動神経はルナより遥かに良いのでラクダから落ちる心配はないだろうが、バルカに住んでいる自分が落ダ(?)したらかなり恥ずかしい。
ルナがラクダについて思いを馳せていると、チンギスがテーブルの上のスマホを手元に引き寄せた。砂漠までの距離やツアーの経路を確認しながら、移動にかかる時間や現地で気を付けるべきことを一つずつ教えてくれる。
友人たちからの旅行の希望を話すたび、地図を見て現実的な移動手段を提案してくれるのだから頭が上がらない。今日だって疲れているのに面倒がる様子を一切見せないのだから。ルナはテーブルの下で自分の指をつまんだ。
本当に頼りになる。できれば旅行中も一緒に来てほしい。現実的に厳しいのはわかってるけど、でもでも……。
せめて笑たちが来る日の一日でも休みを取ってくれないだろうか。バルカの国宝をお披露目する機会を逃すのはあまりにも惜しい。
「心配事か?」
その声に現実に引き戻される。人に旅程を考えさせておいて物思いに耽っていた。
「あ、いいえ。でも道中は結構安全だと思うの。なぜなら四人中三人が日本の警察官なんですよ!」
「何? 彼等の氏名と所属はわかるか?」
先ほどまで穏やかに相談に乗ってくれていたチンギスが目線を上げてルナに目を向けた。声の調子は変わっていないのに、銃口を向けられたかのように視線が離せない。
ルナは思わず口を閉じた。あれ、警察官って安心材料じゃなかったかな。
日本の警察官は信用のおける職業ですよ! と口にしかけたものの、チンギスの様子を見る限り、職業で判断するつもりはないらしい。
もしや、この旅行はカモフラージュで、隠れて麻薬の行方を追ったり、マネーロンダリングの流れを追ったりするのだろうか。ドラマみたいで格好いいな。いや、格好いいとか言ってる場合じゃない。
「志摩一未さんと、烏羽笑ちゃん。鴫原美沙ちゃん。この三人が警察官で、美沙ちゃんの旦那さんの荒北靖友さんは民間企業にお勤めです」
素直に四人の名前を告げる。手帳に日本語で名前を書くように言われたので、また素直に書いて渡す。恐らく後日身元は調べられてしまうが、問題なければ安全な旅行は約束されるので、個人情報の流出は許してもらいたい。しかし、もしこれでスパイだったら、四人は空港で即お縄になってしまう。
「日本の知り合いに聞いて調べておく。やましいことがあれば投獄は覚悟してもらうが、何もなければ旅行を楽しめるだろう」
投獄! ルナはその言葉の重さに震え上がった。冗談なのか本気なのか、彼の表情からは判断がつかない。
とにかく事前の印象を良くしておこうと、懐柔に取り掛かることにした。
「……チンギスさん、日本食で好きな物ある? 持って来てもらおう!」
「バイシュウサレナイ」
即答だった。しかもわざわざ日本語で言ってきた。
チンギスは至って真面目な顔をしている。買収なんて日本語を知っているということは、買収されかけた経験があるのだろうか。警察官って大変な職業だ。いつも誘惑と闘わなくてはならないなんて。
「バイシュウチガウ! オミヤゲ!」
必死に訂正すると、チンギスの口元がわずかに緩んだ。
……笑っている。どうやらこの一連の流れはまるっと冗談だったらしい。ルナは胸をなでおろす。
「土産は餅が良いな。リクエストしておいてくれ」
「お餅! わかりました!」
彼がお餅が好きとは知らなかった。海苔を巻いてお醤油をかけて焼くとおいしいし、チーズと蜂蜜も好き。お汁粉もおいしい。日本食を喜んでくれる姿を想像して思わず顔がほころんでしまう。
先ほどの相談のおかげで、友人たちの希望は殆どかなえることができそうだった。
ルナは二人にLINEを送る。オンライン会議の日程を決める必要があったからだ。