いざ出国
現在時刻は午前11時。荒北靖友は成田空港の第一ターミナルに立っていた。
頭上には出発便の案内板が吊り下がり、行き交う人々の頭越しに、各航空会社のカウンターが見える。
ボディバッグの中にパスポートが入っていることを確かめ、靖友は大きく息を吐き出した。五泊六日分の荷物を詰めたスーツケースはすでに預けてある。手元に残ったのは財布とスマートフォン、それからパスポートくらいのものだ。身軽になったはずなのに、どうも気持ちが落ち着かない。
初めての海外旅行に緊張がないといえば嘘だった。国内旅行なら何度も経験している。だが、飛行機で海を越え、言葉も文化も違う国へ行くとなれば話は別だ。
……ま、何とかなんだろ。
自分に言い聞かせるように考えたところで、隣の列に並んでいた美沙が人混みから抜け出してきたのが見えた。靖友が手を振ると、彼女はこちらに駆け寄ってくる。晴れ晴れとした顔をしているのは、ようやく荷物を預け終えたからだろう。
そんなに詰めるのか、と驚くほど荷物を詰め込んでいたスーツケースも、今は航空会社の手に渡っている。身軽になった美沙は、待ち時間にランチの場所を探してくれていたらしい。
「靖友くん、お茶漬けとお寿司とラーメンどれがいい? バルカに行ったら日本食が恋しくなるから、出発前に食べておこうと思ってるんだけど……」
「出発は14時半だっけ。時間あるし、寿司でも食う?」
美沙が笑顔を浮かべた。
バルカ国際空港までは五時間のフライトだ。時差は一時間。到着する頃には日も傾いているだろう。日本を離れるのは初めてだが、五時間も飛行機に乗れば、それなりに遠くまで行くことになる。
「お寿司賛成! 機内食も出るんだったよね。私昨日眠れなかったから、飛行機で寝ちゃうかも。CAさんが聞きに来たら食べ損ねないように起こしてね」
「ハイハイ。もう機内食の心配してんの、気が早くネェ?」
少しだけ頬を膨らませた美沙を微笑ましく見下ろしながら、靖友は彼女と連れ立ってレストランへ向かった。
空港価格の寿司を摘み、店を出るとスマートフォンが震えた。LINEの送り主は志摩だった。
『出国手続き済。搭乗口に向かいます』
簡潔な連絡に「リョーカイ」と返す。
まさか友人夫婦と一緒に海外旅行に行くことになるとは思っていなかった。美沙と笑はすっかり気心の知れた仲になっているし、笑の夫である志摩と靖友も、二人で飲みに行けるほどの間柄だ。
「美沙チャン、志摩さんから連絡。出国手続き済んだってヨ、俺らも行かネェと」
「笑ちゃんからLINEきてた。なんか色々堪能したみたいだね」
美沙がスマートフォンの画面を向けてきた。先ほど撮られたらしい写真には、展望デッキからの眺めと、滑走路を背にポーズを取る笑の姿が写っていた。
これから長時間フライトだというのに、流石の体力だ。五泊六日の長旅の同行者として申し分ないだろう。
……元気すぎる気もするが。靖友は小さく肩を竦め、搭乗口へ向かった。
保安検査を抜けた先は、先ほどまでいた出発ロビーとは少し雰囲気が違った。美沙は軒を連ねる免税店を覗き込んでいたが、靖友はそれを横目に搭乗口の表示を確認した。英語の下には日本語が併記されている。今はまだ何の不自由もない。だが、バルカに着いたらどうなるのだろう。
モンゴル語が公用語とのことだが、まったく馴染みがない。言語の壁を苦々しく思っているところで搭乗案内が始まった。
機内では、二人して殆ど眠っていた。
離陸時には窓の外を眺めていた美沙も、機体が安定するとすぐに目を閉じてしまった。眼下に広がる街並みが小さくなり、やがて雲に覆われて何も見えなくなった頃には、靖友も眠気に抗えなくなっていた。
美沙との約束どおり、CAが料理を伺いにきた時には彼女の肩を叩いてやる。美沙はメニューを選択すると、また目を瞑った。
昨晩はパッキングに追われ、その前日までは日付が変わる頃にようやく帰ってくる有様だった。お互い様だが、長期休みをもぎ取るために前倒しで仕事を片付けたのだ。眠くなるのも当然だった。
美沙はこの旅行を楽しみにしているようだったが、靖友は複雑な心境であった。笑や志摩とは親しくしているが、そもそも社交的な性格ではないのだ。異国の地で合流するという友人の存在も、彼の気を重くした。
高校時代からの友人たちにこの旅行の話をしたところ、一斉に驚かれたのだから、靖友にしては大健闘だ。初めての海外旅行。夫婦二組での五泊六日。行き先は、紛争が終わったばかりで政治も不安定なバルカ共和国。
……正直、不安しかねぇナァ……。俺は日本語しか喋れないんで、美沙チャンよろしくネ。
しばらくして、疲労で眠っていた美沙が、目の前に食事を置かれた瞬間に瞼を開け、「さも起きておりました」という顔をしたのには笑ってしまった。
期待していた機内食は、塩味のラム肉と細長い米、それにくたくたの野菜だった。
羊肉と米。日本でも食べられない組み合わせではないが、見慣れた定食とはずいぶん趣が違う。米は細長く、ぱらぱらとしていて、肉には独特の匂いがあった。野菜は柔らかく煮込まれ、全体的に味付けは控えめだ。
ちらりと横を見る。
「……寿司食っといて良かったねェ、美沙チャン」
「アジシオ持ってきたよ。かける?」
「いらね」
「あら、変な意地張ってる」
美沙はふんだんに料理に塩を振り、黙々と口に運んでいた。斜め前に座っていた笑が、アジシオをかける美沙を指差して「嘘でしょ!?」とジェスチャーをしているのが見えた。
嘘じゃないんすよ、と靖友は頷いてみせた。彼女の鞄にはいつも調味料が入っているのだ。
食事を終えると、再び機内は静かになった。
五時間なんて、寝てりゃすぐだ。そう思いながら、靖友は再び目を閉じた。
着陸態勢に入るというアナウンスで目が覚めた。
窓の外を覗くと、雲の切れ間から地上が見えた。広大な砂漠と、遮るものの何もない一面の草原。ところどころに建物が点在し、遠くにはなだらかな丘陵が霞んでいた。
機内を出ると、空港の建物は思っていたよりも近代的だった。白い壁にガラス張りの窓、磨かれた床。頭上の案内表示には、見慣れない文字が並んでいる。
入国審査は靖友の語学力でも難なく通過できた。
事前に、怪しまれると現地警察に拘束されるという恐ろしい話を聞かされていたので不安になっていたが、審査官はパスポートと靖友の顔を見比べ、いくつか質問したあと、あっさりと通過を許した。
……なんだヨ。ビビらせやがって。
手荷物受取所には、到着便ごとの表示が並び、ベルトコンベアが低い音を立てて回っていた。
靖友がベルトコンベアの前で並んでいると、志摩たちが隣に立った。
「あっという間だったね〜。タブレット持ってきて良かったわ。あとミサミサ機内食に塩掛けてたよね? 病院食??」
「味しなくて……。もしかしてバルカって全部あの味付けなのかな。アジシオ足りるかな」
まだアジシオの話を続けている美沙と笑を志摩に任せ、靖友はトイレに向かった。
清潔な水洗トイレに安心して用を足し、手を洗っていると、隣の洗面台に男が立った。鏡に映るその容姿に見覚えがある気がしたが、――思い出せなかった。
気のせいか。
男が顔を上げる前に視線を逸らし、靖友は手を拭いた。
荷物を持って到着ロビーに出ると、一気に乾燥した空気が吹き込んできた。
空調の効いた建物の中にいた時には気付かなかったが、外気には水気がほとんど感じられない。鼻の奥が少しつんとする。鼻腔をくすぐる乾いた草の匂いは、日本では馴染みのないものだった。
ロビーでは、いくつかの観光団体のガイドが旗を掲げて待機していた。団体客が集まっては散り、ガイドの案内に従って出口へと向かっていく。聞き慣れない言葉の響きが、あちこちから聞こえてきた。
今回の旅を案内してくれる美沙の友人と靖友は面識がない。辺りを見回していると、「あ」と美沙が声を上げた。
「サイン バイノー? サイン ヤフジ イリフ ヴー?」
緑色の民族衣装を身につけた女性がお手製の旗を掲げ、四人にモンゴル語で話しかけてきた。
ぺらぺらのコピー用紙には「熱烈歓迎♡荒北・志摩夫妻♡」と太字のゴシック体で印刷されている。友人とは間違いなく彼女のことだろう。
はっ……恥ずっ……!!
誰も気にしていないとしても、恥ずかし過ぎる!!
近付いて来た彼女は笑顔を浮かべ、日本語で自己紹介を始めた。
「ようこそバルカへ〜! 長旅お疲れ様でした〜! はじめまして、笑さん美沙さんと仲良くさせてもらってます。ルナ・バトバヤルです! あっ名前言いにくいと思うので旧姓の二藍で呼んでもらっても構いません。よろしくお願いします!」
一気に話したあと、ルナが頭を下げる。
靖友は「……ヨロシクお願いします」と絞り出した。「よろしく」と志摩の落ち着いた声が続く。女性陣は嬉しそうにハグしあっていた。男共は再会の邪魔をすまいと後ろに下がる。
「ジャンボタクシーを予約したので、ホテルに行きましょう。わたしも同行させてもらいますね」
踵を返したルナの背に、靖友が声をかける。
「あのサァ」
「はい!」
「その旗、しまってくんね……? メッチャ恥ずいワ……」
「えっ折角職場の大判プリンターで刷ったのにもうお役御免ですか!?」
コイツ……!
ふざけた対応に靖友は思わず奥歯を噛んだ。よく見ればA3用紙は二重になっていて、二本のストローに端を巻き付けてある。制作時間三分だろが! と引っ叩きたい気持ちを抑えていると、ルナの隙を見て美沙が旗を没収していた。気持ちは同じだったらしい。
ようやく視界から消えた旗に安堵したのも束の間、ルナは四人を先導して出口へ向かった。
車内でも彼女のトークは止まらなかった。
「ほんとは車出そうと思ったんだけど、五人にスーツケースだと乗らないな〜と思ってやめました。あ、車が右側走るのめっちゃ怖くないですか? わたし毎回逆走しそうになるんですよね! でも今日は警察官が三人いるから、もし人はねちゃっても過失割合5:5くらいになるかも?」
「……ルナルナ、久々に日本語話せてテンション上がってるね。アタシら疲れてるからツッコミ不在だよ」
「ウッウッ……。ビ・グニグタイ・バイナ〜」
「モンゴル語ズルイからやめて〜!」
言葉はわからないのに、あからさまに悲しい顔をしてこちらを見てくるものだから、それが「悲しい」という意味なのだとわかってしまう。長旅で疲れているはずなのに、笑と美沙はけらけらと笑っている。
靖友は窓の外に目を向けた。近代的な街並みの中に、広場や煉瓦造りの低い建物が点在している。キリル文字の看板と建物の外観からは、それが銀行なのか飲食店なのかも判断がつかなかった。
窓の外を真剣に覗き込んでいる自分に気付き、靖友は小さく鼻を鳴らした。
……なんだヨ。案外、楽しんでるじゃネェか。
異国情緒溢れる建物の前で車が止まった。
ホテルは清潔で近代的だった。ガラス張りのエントランスを抜けると、広々としたロビーがあり、受付の奥には見慣れない意匠の装飾が飾られていた。
少なくとも、設備に困ることはなさそうだった。必要なものは全て揃っているようだ。
チェックインを済ませると、各々の部屋に向かった。
ルナは同じホテルに宿泊するらしい。
部屋に入って扉を閉めると、人目を気にしなくてよくなった途端、一気に疲れが押し寄せてきた。移動中は気を張っていたせいか、さほど疲労を感じなかったのだが、ベッドを見た瞬間に身体が休息を求め始めた。
アラベスク模様のシーツがかけられたベッドに腰掛けると、美沙が靖友の隣に腰を下ろした。
「ン? なぁに、疲れたァ?」
「……靖友くんと海外に来たなあ、と思って」
「来たネェ。入国も無事にできたし、ホテルのチェックインも二藍サンがいたから楽勝だったな」
「我儘聞いてくれてありがとう。五泊六日、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた美沙の旋毛を見ると、じんと込み上げてくるものがあった。形の良い頭に手を乗せて、乱暴に撫でる。絹のような手触りの髪が指の間で流れた。
「俺も旅行楽しみになって来たヨ。こちらこそヨロシク」
=====
描写のうまさに驚いたことでしょうが、空港内とバルカ異国描写はAIに助けを求めて書いています(こいつ…