「七詩、こっちへおいで」
 障子の向こうから、名前を呼ばれる。
 私の名前を呼ぶのはこの家では一人だけだ。そもそもこの広い広い和風の建物には、私と、征十郎さんしか住んでいない。
 征十郎さんは古い名家の跡取りであるらしいが、都心から離れた山奥にこのような別荘を建てて一人で住んでいるような変わり者でいらっしゃる。けれどそのことをご両親はなんとも思っても居ないようであった。なぜなら征十郎さんはとても多才な方で、ご両親の望まれる事を何であっても簡単に、卆なく、こなしてしまうのだから。
 実家からこちらへ移られると言う時に、どうしてか私だけが傍に付く事を許された。もっと有能な人間ならいくらでも居るのに、と私の他にも誰もが思っただろうけれど、征十郎さんは何も言わずに私の手を取った。その冷たい手が、どれだけ嬉しかった事だろう。
 お茶を持って部屋の中に足を踏み込めば、征十郎さんは低い机に肘を付いて私のことを待っていた。将棋の相手を頼まれるかと思っていたのだけれど、将棋盤は部屋の隅に追いやられていた。机の上に散らばった原稿用紙から見て、何か書き物をしていらしたのかもしれない。
「お茶はいらないから、こっちへおいで」
 征十郎さんの声は、魔法のように私の脳裏に反響して、身体が自由に動かなくなりそうだ。膝を付いたまま彼の元へ擦り寄ると、征十郎さんは私の腕を掴んだ。
「あ」
 予想していたよりも腕を強く引かれて、簡単に体勢が崩れた。私はスローモーションで畳の上に倒れこむ。
「七詩、僕はね。怖いんだ」
「こわい…」
「そう、怖いのさ」
 征十郎さんが恐れるものなんてあるのだろうか。私にはわからない。何でも卆なくこなしてしまう彼が人を恐れたり、物事を避けたりするところなど見たことも無いのに。
 半身を畳に接したままの私の頬を撫でて、綺麗な、けれども男性らしさも備えた手の平が視界を覆った。私はされるがまま。すると手の平に覆われていた視界が一瞬で赤色に染まる。視界が赤い布で覆われたのだと気づいた時には、頭の後ろで布が結ばれる感触があった。
「征十郎さん?」
「お前は、僕の言うとおりにしていたら良いからね」
 そう言われてしまえば、私には言うとおりにする以外の選択肢はない。視界を塗りつぶされたまま、また手を引かれて、今度は足を崩したまま半身を起こした。きし、と畳が音を立てたから、彼が立ち上がったのがわかった。私の後ろに回って、両手を背中の後ろに回された。細い紐のようなもので、両手が括られる。
「怖いかい」
「いいえ」
 本当は、少し。けれどそれは恐怖と言うよりも背徳から生まれる被虐心とでも言うのか、このまま、征十郎さんは私をどのようになさるのか、そればかりがふさがれた視界の中でくるくると回っていた。
「…楽しんでいるのだとしたら」
 征十郎さまが私の胸元に手を置いた。鼓動の音を確かめているようだった。平常心を保とうとしても、彼の手が私の身体に触れているというだけで、鼓動は急く。
「悪い子だ」
 それをわかってか、征十郎さまは微笑んだ。
 そのまま私は床に倒れこむ。
「…っ、ぅ、…」
 息苦しさを感じ始めた頃に、唇が一呼吸分だけ離される。両手を縛られた私は、征十郎さんの背中にすがる事もできず、彼に抱きしめられたまま、ただただ唇を奪われている。
 開いた隙間から舌が入り込んできて、ゆっくりと歯列をなぞられる。ぞくりと背中が粟立つと同時に、顔に熱が溜まる。
 私と対照的に自由な征十郎さんの右手が袷から入ってきて、私は身体を跳ねらせる。
 ゆっくりと唇が離れて、私は彼に凭れ掛かるように体重を任せる。その間に帯が解かれて、着物が床に落ちた。後ろで束ねられた両手があるから完全に脱ぐ事は許されない。
 長襦袢まで肌蹴て、肌着だけになると、急に肌寒さを感じる。
「せい、じゅうろう、さん」
 もっと触れてください。と哀願した。寒いのだ。視界に征十郎さんの顔が映らないというだけで、急に不安になってしまう。自分の身体を撫でているこの腕は間違いなく征十郎さんのものなのに、それさえ疑ってしまいそうだ。
「欲しがりだ」
 自分で脱ぐよりもずっと丁寧に早く、征十郎さんは私の着物を脱がせる。肌着から解放されると、押さえつけられていた胸が空気に触れる。まだ触られても居ないのに、寒さのためか、見えない彼に見られているせいか、背筋がまた粟立った。
「あ、ぁ、っ…!ふぁ、…っ、ん」
 足袋が畳を擦る音が耳障りだ。征十郎さんの唇が鎖骨の辺りで止まり、皮膚を吸いあげる。自分の身体に彼のつけた赤い跡が残るというのが、目を閉じたままでも明瞭に想像できて、私は笑みを作る。
 その間も彼の手は私の身体を愛撫し続けていて、声が漏れてしまう。止めようと思っても、口をふさぐための両手は後ろで拘束されてしまっている。
「七詩、もっと啼いていいんだよ」
「はぁ、っ、い、はい、っ…ひぁあぁ、は、ぁ…う」
 身体は蕩けきっていて、彼の言うとおりに啼き、彼の好みのように反応するように私は躾けられている。細い指が中を掻き回せば、それだけで期待した私の身体はひくひくと震えて彼を待つのだ。
 一度、強く抱きしめられてから征十郎さんが離れた。近くで衣擦れの音が聞こえる。着物を脱いでいるのだろう。一枚、二枚。畳の上に衣服が落ちる音だけを黙って聞く。早く、だなんて急かしてはいけない。
 半身を抱き起こされて、膝の上に乗せられた。十分に慣らされた中に征十郎さんが入ってくる。それだけで全身が痺れたような快感に襲われて、私は呻く。
 七詩、と征十郎さんが私の名前を呼ぶ。いつもの落ち着いた声とは違う。少し掠れて、熱を帯びたその声はたまらなく私を欲情させる。好きです、愛しています。私はお返しと言わんばかりに愛の言葉を囁く。
「七詩、お前がこんなに傍にいるのに、僕は怖いんだよ。お前すら、怖いんだ」
「…、どうして、ですか」
 回答は返ってこなかった。征十郎さんは私の身体を痛いほどに抱きしめると、唇を重ねて、身体を動かした。重ねた胸から、彼の鼓動が聞こえてくる。こんなにも激しく求め合っているのに、どうしてか、怖いほど落ち着いて聞こえた。
「七詩、さっきの話だけどね」
 どうやら転寝をしていたようで、目を覚ますと、私は敷かれた布団の上に転がっていた。両手の拘束は解かれていて、その隣には征十郎さまが居るのがわかる。両目はまだ塞がれたままだ。
 すぐ傍に人の体温を感じて、私は力を抜いたまま征十郎さんの声に耳を傾ける。
「とにかくね、生きているのだからインチキをやっているのに違いないのさ」
 太宰ですね、と私は暗闇の中で征十郎さんの声に答えた。それが音になって、彼の耳に届いていたかどうかはわからない。けれど彼は少しだけ私の回答に間を空けて続けた。
「だから裁かれなくてはならない。君も。当然、僕もね」
 裁かれるのだったら、貴方に。私はそう望むのだけれど、貴方を裁くのはきっと私ではないのだろう。もっと大きなーーそう、神様だ。征十郎さんは裁かれるのを恐れている。選ばれた者である征十郎さんはこの世界でたった一人、神様によって裁かれるのだ。
 私では彼の悩みを受け止められない。この眼が彼を恐れさせている。彼を好奇と期待を孕んだ視線で射抜くこの眼が、私の美しい彼を、怖がらせているのだ。
「征十郎さん、私ね、貴方の恐れを取り除けるなら、この両目なんてくり抜いてしまっても構わないんですよ」
 馬鹿な私がそういうと、征十郎さんは私の頭を優しく撫でて、それから赤い布に覆われた瞳、鼻筋、それから濡れた唇に、優しくキスをくださった。


<貴方だけが私の色彩>
(赤 司 征十郎)
2012
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