中国の故事に、呑舟の魚という言葉がある。それは船を呑み込むほどの大きな魚であって、転じて、大人物、大物の事を指すらしい。完璧に二藍の受け売りだ。俺には何の事だかイマイチ理解できないのだが。そもそも中国って海あんだっけか。―― まぁそれは置いておいて。現実的に考えてそんな魚居るはず無い。船を飲み込んでしまうほど大きな魚なんて存在しないのだ。笹舟ならともかく。そう思っていたのだけれど、現実と言うのは時に常識を覆す。
 ある日、俺と二藍は試験勉強の息抜きに近所の自然公園に散歩に来た。幼い頃から何度か訪れていた公園だが、大学生になって来て見ると視界に映るもの全てが古めかしく、小さく写った。それは俺の身長がガキの頃に比べて超成長したというせいもあるのだろうが、隣の二藍も同じ感想を持っていたからこれが大人になるということだろうか。
 ガキの頃を思い出して、池のボートに二人で乗ってみた。別に照れくさくなるような関係じゃねえし、向かい合わせで座って発進。当然、力仕事は俺の仕事。かび臭いボートに乗って、高が知れるような景色を見て二藍は声を上げる。
「二藍サン、こんなちゃっちい景色見て楽しいのかよ」
わざとさん付けで呼んで小馬鹿にすると二藍は大人の余裕か口角を上げて「子どもの頃って、このボート憧れだったんだ。だから私は楽しいけどね。青峰クンには理解できないのかな」と返してきた。どうにも、こいつにはガキの頃から敵わない。学力の差という奴だろうか。口喧嘩で勝てた試しが無いのだ。
 俺は黙ってオールで深緑色の水面を掻いた。水面には何匹か色鮮やかな鯉が泳いでいる。目下の水面を眺めていると、大きな影がボートの下を通った。何かと思った瞬間、影は飛び出した。
 それは巨大な魚で、俺たちの頭上で大口を開けていた。俺は二藍を突き飛ばそうと手を伸ばしたが、バランスを崩してボートから落ちた。驚いた顔の二藍が俺を見ている。馬鹿、俺の心配してる場合かよ。危ねぇのはお前だよ。
 ばくり、と俺の目の前で二藍と小さなボートは巨大な魚に食われてしまった。
 ―― 目を覚ますと二藍の顔があった。声を出そうとすると口の中が酷く青臭い。身体も濡れている。訳がわからず身体を起こすと、二藍が笑った。身体に張り付いたTシャツが良い感じにエロい、と場違いに思った。
「青峰、痩せたほうが良いんじゃない。きみをここまで連れてくるの、すごく大変だったんだから」
 二藍はまだ池の中に居た。立ち泳ぎをしているみたいに、上半身だけ水面から上に出ている。
 びし、魚の尻尾が水面を叩いた。その色彩鮮やかな模様はボートを飲み込んだあの巨大な魚と同じものだった。
 思わず自分の頬をビンタしてみたが、普通に痛え。
 俄かに信じられることではないが、俺の幼馴染は人魚になってしまったのだ。

***

 人魚との生活が始まった。下半身が魚になった二藍は陸地を自分で移動する事ができないから、基本は俺のボロアパートの浴槽の中で小難しい本を読んでいた。たまに俺のDSで遊んだりもしたが、一度水面に落とされてからは貸すのをやめた。
 人魚ってやつは水がないと生きていけないらしい。もう一緒に映画を見に行ったり、バスケの試合を見に来る事はできないのだ。
 それから一週間が経って、人魚との生活にも慣れ始めた頃に俺はじいちゃんのネコ車を引っ張り出してきて、たんまり水を張って二藍のための車にした。それを見て笑う二藍はこのとんでもない状況を楽しんでいるみたいだった。
 天気の良い日を選んで、二藍を乗せて外に出た。陽光が水に反射して目に痛い。日陰の多い林を選んで来たのに東京の夏は随分暑い。そこかしこで蝉が鳴いている。俺は二藍に鳴声で蝉の種類を当てる特技を披露しながら進んでいく。ヒグラシ、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクボウシ、ニイニイゼミ…途中で二藍に止められた。
 砂利道をごりごり音を立てながら俺がネコ車を押していくと、呑気に二藍は話し出す。
「青峰、青峰クン、運転が荒いよ。二藍さんが運転免許剥奪するよ。あ、そういえばDSごめんよ。でももう時代は3DSだから買い換える良い機会になったんじゃないかな。機械だけに、なんてー」
 二藍が話すたびに水しぶきが跳ねて砂利道の色を変えていった。俺はあーとかそうだなーとか適当な言葉を返してネコ車を押す作業に没頭する。乗ってる二藍には解らないかもしれないが、すげえ繊細な作業なのだ。俺がバランスを崩すと乾いた砂利の上に二藍は投げ出されてしまうのだから。金魚の水槽の水替えを思い出す。小さな金魚を排水溝に流してしまわないように随分慎重になったものだった。今はまるでそれと同じだ。大切な人魚を干からびさせないように、俺は時々二藍の頭の上からミネラルウォーターをかけてやったりする。
 俺達が向かう先はあの自然公園だ。狭い風呂では満足できないと人魚姫が言い出したから。二藍の脚である俺がぎこぎこ連れてきてやる羽目になったのだ。
「おい二藍、着いたぜ」
「ありがと」
 深緑色の池は底が見えない。俺が溺れた時は脚がついた記憶が無い。余程深いのだろう。そりゃあんな巨大な魚も潜むわけだ。そういえばアイツはどうなったのだろう。事件になって、動物愛護団体が池の水を抜いて大捕物でも始まるかと思っていたのに結局池は静まったままだ。
「あのさあ」
 黙って池を覗き込んでいた二藍がこっちを向いて口を開いた。俺を見つめる瞳はどこまでも黒く、俺の姿がくっきりその中に映っている。吸い込まれてしまいそうだ。
「なんだよ」少し上ずった俺の声はヒグラシの声にかき消されそうだ。
 二藍は泣きそうな顔をしている。何を言ったら良いのか解らなくて、二藍の次の言葉を待った。
「勘違いしてるみたいだけど、私は魚じゃないんだよ」
「は?」
「私じゃ半分しかなれない。魚は、きみだよ」
 小さく水しぶきを上げて、二藍は池の中へと飛び込んでいった。
「…二藍?おい、二藍!」
 二藍は上がってこない。何度声を上げても、池に石を投げても反応が無いのだ。
 しばらく水面にはこぷこぷと泡が浮かんできていたが、やがてそれも無くなり、波紋一つにいたるまで彼女の痕跡を残すものは無くなってしまった。
 俺は呆然と水面を眺める。三十分、一時間。ひょっこり二藍が水面に顔を出すのを待ち続けた。
 けれども終に二藍は上がってこなかった。
 耳元でヒグラシが輪唱している。気が狂いそうに暑い日差しの下で、ヒグラシの声だけが耳に響く。水面は、静かだ。


***


「なんや、また此処に来てたんか」
 肩を叩かれて振り向けば今吉が立っていた。遠くで鈴虫が鳴いている。
「なんで、アンタ…。二藍は」
 今吉は困ったように目を細めて溜息を着く。幼子に諭すように俺の肩をもう一度叩いて、はっきりと告げた。
「二藍はもうおらん。葬式にも出たし、骨も拾った。お前が気に病むのもわかるが、身体壊すで」
「……んなことは、わかってる。……わかってたんだ」
 俺は全部知っていた。解っていたのだ。
 二藍は、二藍七詩はこの池で溺れて死んでいた。
 俺は助けられなかったのだ。
 目の前の池には鯉が何匹か泳いでいる。水深は4メートルだそうだ。俺は足元の小石を拾って池に投げつけた。波紋が広がって、鯉が潜っていく。
「身体冷やすなよ」
 短く声をかけて、今吉の足音が遠ざかった。一人にして欲しいということが言わなくても伝わるのがこの人の利点だ。今吉は酷く頭が良い。ふと思い出した事があって、声をかけた。
「なあ、今吉サン、『呑舟の魚』ってどんな意味だ」
「…二藍が言うてたんか?そんままの意味や。船を飲み込んでしまうほど巨大な魚のこと。有得無い物の喩えから、常人をはるかに超えた才能を持つ大物の事を指す。お前みたいな奴のことを言うんや」
 頭を下げると今吉は何かを言いたそうな顔をしたまま、結局何も言わずに去っていった。
 今すぐ叫びだしたい衝動に駆られるが、喉の底からは何も出てこなかった。池の周りの柵を掴んで、少しだけ泣いた。
 俺が魚だとして、もし船を飲み込んでしまったのならば、その呑み込んだ船の中にアイツが居たのだろうかと思うと、俺は喉を掻き毟って今すぐ俎板の上にでも飛び乗りたい気分になる。

「七詩、俺はお前のことが―」

「         」

 ごくり、最後の言葉は喉の奥へと呑み込まれていった。

――好きだったん、だ


<恋に敗れた鯉の話>
(青 峰 大 輝)
2013
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